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田中正明

挿絵(By みてみん)


 田中正明は、明治四十四年(一九一一)、長野県に生まれました。旧制中学卒業後、興亜学塾を経て大亜細亜協会職員となり、機関誌「大亜細亜主義」の編集長となります。この経歴からわかるように田中正明は若い頃からアジア主義に傾倒していました。

 アジア主義は、戦後、おおきく誤解されています。アジア主義は侵略主義でも覇権主義でもありません。欧米列強の植民地支配からアジア諸国を開放し、独立させ、ともに栄えてアジアをアジア人の手にとりもどそうという主義でした。そもそも日本文明は、支那王朝への対抗文明です。基本的に防衛的なものです。アジア主義も例外ではありません。当時、欧米列国に対抗しうる国家はアジアには日本しかありませんでしたから、アジア主義は夢でも妄想でもなく、現実的な政治思想だったといえるでしょう。

 戦前の文献を読んでいると「誘掖(ゆうえき)」という言葉がよくあらわれます。後進に力を貸して導く、という意味です。アジア主義者は、まさにアジア各国を誘掖するために日本の力を貸そうと考えたわけです。

 田中正明が職を得た大亜細亜協会は、アジア主義を世に広めるため、昭和八年に設立された組織です。評議員には近衛文麿をはじめとする著名人が名を連ねていました。その事業は講演会、研究会、パンフレット頒布などであり、しごく穏当なものでした。アジア主義に対する支持は広がり、大亜細亜協会は組織を拡大させていき、日本各地はもちろん、支那大陸や台湾にも支部が設立されていきました。

 この大亜細亜協会で田中正明はひとりの将軍と出会います。松井石根大将です。

 松井石根は、明治十一年(一八七八)、愛知県に生まれ、陸軍士官学校を卒業して職業軍人となりました。同郷の荒井精を知り、若い頃からアジア主義に共鳴していました。日露戦争には中隊長として出征しました。その後、陸軍大学校を首席で卒業、優れた才覚を発揮して出世し、ついに大将まで昇格します。この間、支那各地に駐在する機会を得、孫文や蒋介石をはじめとする支那要人と親交を深め、陸軍屈指の支那通となりました。

 昭和十年(一九三五)、予備役となった松井石根大将は大亜細亜協会の講演に情熱を傾けるようになり、精力的に各地を遊説します。日本国内はもちろん支那大陸や台湾にも足を伸ばし、現地要人と積極的に会談しました。日支が相争えば欧米列強によって双方が侵略されてしまう。これを防ぐためにはアジア主義の立場から日支提携するにしかず、と説いたのです。昭和十年には、満洲、蒙古、華北を遊説し、翌年には、華中、華南を巡遊しました。

 この華中、華南の遊説に秘書として随行したのが当時二十五才だった田中正明です。田中は松井石根大将と親しく接し、その人格と見識につよい肝銘を受けます。

 このまま遊説をつづけていられたのなら、松井石根大将の晩年は平穏だったでしょう。田中正明もあえて歴史修正という難事業に挑む必要はなかったでしょう。しかし、運命は変転します。

 昭和十二年八月、松井石根大将に大命がくだりました。上海派遣軍司令官に親補されたのです。松井大将は、二個師団を率いて上海に向かうことになりました。日支提携を持論とするアジア主義者の松井大将は、胸中、複雑な感情を抱いていたに違いありません。このことがすでに悲劇でした。

 支那事変は一ヶ月前に始まっていました。北平郊外での度重なる発砲事件と、通州における日本人居留民虐殺事件を発端として日支の軍事衝突が勃発したのです。日本軍は北支に数個師団を派遣して事態を沈静化させました。すると蒋介石は、国際都市の上海を大軍で包囲し、上海租界内に便衣兵をもぐり込ませて撹乱しました。

 上海には日本海軍の第三艦隊が駐留していましたが、兵力不足でした。また、数多の居留民を保護せねばならず、ついに上海派遣軍が編成されることになったのです。

 蒋介石は、日本と戦う決意をかためていました。およそ一年前、蒋介石は共産党によって西安で軟禁され、その命とひきかえに国共合作を強制され、さらに米英ソとの連携を約束させられていたのです。いわゆる西安事件です。

 この西安事件の段階において、すでに日本を包囲する米英ソ支の連合が完成していたわけです。まさに共同謀議です。残念ながら日本政府も陸海軍も、それが充分にはわかっていませんでした。ですから日本には対米英ソ支戦争という意識がありませんでした。また、対支全面戦争という認識さえ欠けており、上海周辺での局地的戦闘のつもりでした。

 実際、上海派遣軍の任務は主に居留民の保護にありました。松井大将に与えられた兵力も二個師団およそ五万と抑制的でした。松井大将は「五個師団が必要だ」と要望しましたが、参謀本部はこの意見を却下していたのです。

 対する蒋介石は米英ソ支で日本を戦略的に包囲しているという情勢認識のもと、百万の大軍を動員していました。すでに日本の戦略は齟齬を生じていたわけです。


 松井石根大将は攻撃開始に際して各部隊に訓令を与えていましたが、そのなかにはアジア主義者らしい配慮が盛り込まれていました。

「支那官民に対しては努めてこれを宣撫愛護すべきこと」

 また、国際社会に対する配慮も欠いていませんでした。

「列国居留民およびその軍隊に累を及ぼさざること」

 上海派遣軍が敵前上陸したのは八月下旬です。蒋介石軍は頑強でした。その兵力は三十万に達し、しかも米英ソから支給された最新兵器を使用しており、しかもドイツ軍顧問団によって設計された近代的永久要塞に立て籠もっていたからです。これに支那古来の便衣戦法が加わっていました。

 便衣戦法とは、兵士が軍服を脱ぎ、便衣を着用して一般市民に化けて戦う戦法です。むろん戦時国際法に違反しています。逮捕された便衣兵に国際法は適応されず、捕虜になる資格がありません。

 上海派遣軍は苦戦に次ぐ苦戦を重ね、思うように前進することができず、損害を増やしていきました。この事態をうけて参謀本部はようやく三個師団の増派を決定しました。

 この間、参謀本部では人事異動があり、支那への派兵につよく反対し、戦線拡大と増援に消極的だった石原莞爾作戦部長が転出していました。参謀本部内では積極論が盛んになり、「支那一撃論」が大勢を占めるようになりました。方針を一新した参謀本部は、苦戦している上海派遣軍を掩護するため、あらたに三個師団からなる第十軍を編成し、杭州湾に上陸させ、南から上海へ向かわせることにしたのです。

 増援を得た松井石根大将は、主攻撃目標を大場鎮に定め、総攻撃を開始しました。屍山血河という表現がけっして誇張とはいえないような悪戦苦闘の攻城戦がひと月ほどつづき、十月下旬、ようやく大場鎮を攻略することができました。

 一方、第十軍は十一月十四日、杭州湾に無血上陸し、北上を開始します。翌日、上海市街に「日軍百万杭州湾上陸」というアドバルーンがあがります。すると蒋介石軍は浮き足立ち、南京に向けて敗走しはじめます。こうして上海戦は終わります。

 この上海戦において、欧米列強の現地派遣軍は日本軍を妨害するような行動をとりました。これが松井石根大将を怒らせます。

「直接間接に支那軍に味方し、支那軍の作戦に便宜を与え、これを援助する行動にいでたり。ことに英、仏軍隊の行動はわが軍の作戦に幾多の不便を与え、わが作戦妨害の挙にいでたり」

 本来ならば中立を守るべき欧米列国の軍隊や軍艦や商船は支那軍を支援し、戦闘地域内をうろついて日本軍の行動を妨害したのです。松井大将の怒りは理の当然でした。しかし、欧米列強にしてみれば予定の行動でした。すでに英米ソ支は連合していたのです。日本軍の対敵認識が不足していたというしかありません。

 欧米列強による妨害活動の結果、米軍艦パネー号と英商船レディバード号が日本軍の攻撃を受けるという事態になりました。これは自業自得というべき事件でした。パネー号もレディバード号もあえて戦場をうろついていたからです。それなのに日本政府は実態調査もせぬまま米英両政府に謝罪してしまいます。日本外交は弱腰でした。松井大将は政府に対する憤懣を日誌に書き記しています。

「予は事実を調査したる結果、決して責任者を処分する必要なき意見を東京に電報せしむ」

 日本軍は欧米諸国とのあいだに結ばれた協定を遵守していました。むしろ、欧米列国に裏切られたのです。しかも、そんな列国に日本政府はペコペコ謝罪してしまう。銃後が頼りなかったのです。松井大将が憤るのは当然でした。

 十一月七日、松井石根大将は中支那方面軍司令官に任命されます。上海派遣軍と第十軍とを統一指揮するためです。

 上海制圧後、参謀本部は次の作戦行動について迷いました。ここで矛を収めるか、さらに進撃するか。

 上海派遣軍は激しい戦闘で四万名もの死傷者を出しており、敗走する蒋介石軍を追撃する余力に欠けていました。しかし、杭州湾に無血上陸した第十軍はまったくの無傷でしたから戦意旺盛です。しかも眼前には敗走する蒋介石軍がいました。第十軍司令部は独断で追撃を開始します。

 第十軍の北上を追認するかたちで参謀本部は南京攻略を下令します。松井石根大将は「欣快この上なし」と日誌に書いています。松井大将は、当初から、支那の首都南京を攻略し、英米ソに傾倒する蒋介石の態度を根本から変えさせ、アジア主義を実現しようと考えていたのです。

 十二月一日、正式な命令が中支那方面軍に伝達されました。翌日、松井石根大将は全軍に南京攻略命令を発します。

 日本軍の各部隊は、それぞれの針路を猛進します。蒋介石軍はひたすら敗走していきました。こうして十二月六日までに日本軍は南京城を包囲します。

 南京城攻略にあたり、松井石根大将は詳細な要領を各部隊に通達しています。このなかで注目すべきは次の諸点です。

「開城を勧告して平和裡に入城することを図る」

「皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛事にして・・・将来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入、友軍の相撃ち、不法行為等絶対に無からしむるを要す」

「軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威武に敬仰帰服せしめ、名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す」

「中山稜その他革命の志士の墓および明孝稜には立ち入ることを禁ず」

「城内外国権益の位置等を徹底せしめ絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配す」

「掠奪行為をなし、また不注意といえども火を失するものは厳罰に処す」

「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ」

「敵軍といえども抗戦意志を失いたる者および一般官民に対しては寛容慈悲の態度をとり、これを宣撫愛護せよ」

 松井大将がいかに軍紀の厳正を保とうと心を砕いていたかがわかります。さらに、松井大将は、国際法の権威たる斎藤良衛博士を司令部に招き、その意見を聞いて降伏勧告の実施を決定しました。

 これとは対照的だったのが支那軍将兵の振る舞いです。最高司令官の蒋介石は十二月六日、夫人とともに南京を脱出していました。何応欽などの将軍らも七日から八日にかけて南京を続々と脱出し、防衛司令官たる唐生智までが十二日夜には南京を逃走しています。このため支那軍将兵は統制をうしない、整然たる降伏などできない状態となりました。唐生智将軍は、敗軍の将として南京城にとどまり、日本軍との停戦交渉に応じ、住民保護や治安維持について日本軍と交渉するべきでした。その義務を放棄したのです。支那軍の司令官たちは戦時国際法を完全に無視していたのです。

 蒋介石軍の残兵たちは清野戦術を手当たり次第におこないました。清野戦術とは焦土作戦と同意です。敵軍に占領される前に南京を破壊し尽くし、金目のものがあれば略奪し、食糧を食べ尽くし、女を犯すという戦術です。

 すでに軍律を失っていた支那軍兵士は個々バラバラに家屋という家屋を破壊し、掠奪し、放火しました。支那住民から便衣をはぎとり、抵抗する者は殺害し、暴行し、婦女子を見れば強姦しました。この清野戦術は、南京城内はもとより、城外の村落や周辺の中小都市においても行われました。

 清野戦術の惨状をニューヨーク・タイムズ紙特派員のダーディン記者が報告しています。

「支那軍はなんら軍事目的もなく、ただやたらにありとあらゆる事物をぶちこわし焼き払っているのであって、専門的見地からすればまったく無意味で了解に苦しむ」

「日本軍の空襲や砲撃の与えた損害はほとんど軍事施設に限られており、これを全部あわせてもなお支那軍自身の手によってなされた破壊の十分の一にも足らぬであろう」

 南京城内は、日本軍が進入する以前に、支那軍将兵の手によって破壊し尽くされていたのです。

 日本軍の攻撃が始まったのは十二月十一日です。この日、第九師団は光華門にとりつき、支那軍の反撃に遭いつつも占領しつづけます。二日後、第百十四師団が中華門を、第六師団が水西門を、第十六師団が太平門と共和門を、第三師団が通済門をそれぞれ占領し、城内に入城しました。総司令官を欠いた蒋介石軍は全体的に士気が低く、逃げ腰でしたが、一部には精強部隊が残り、頑強に抵抗しました。また、支那兵の便衣戦術に日本軍は苦しめられました。南京戦における日本軍の損害は、戦死およそ一万二千名、戦傷およそ一万九千名です。上海戦を上回る損害でした。支那軍側にも戦死約三万という多大な損害が出ました。

 南京戦のあいだ松井石根大将は後方の蘇州にあり、病床に伏せていました。方面軍司令官として基本戦略を掌握してはいましたが、陣頭指揮に立つことはしませんでした。それが当たり前で、実戦指揮は各師団長に任されているのです。したがって、作戦指導にはいっさい齟齬はありませんでした。

 松井石根大将が南京に入城するのは十二月十七日です。この日までに城内の掃討戦は終わっており、入場式は静謐かつ厳粛に行われました。翌十八日には忠霊祭が行われます。このとき松井大将は、軍紀の粛振と支那人蔑視思想の排除を全軍につよく訓示しました。

 南京攻略戦の開始前から松井大将は軍紀の厳正をくりかえし指示してきたのですが、それにもかかわらず百四名が軍法会議にかけられる結果となっていました。これを松井大将は大いに嘆き、忠霊祭後、軍司令官や師団長らをきびしく叱責しました。このことはニュースとして国内外へ報道されました。

「松井将軍、軍紀引き締めを命令」

 百四名の軍律違反者が出たのは事実です。実際に日本兵が外国領事館に侵入して乱暴した事件や、民家に押し入って暴行や強姦をはたらいた事実があったのです。

 これをどうみるかです。それだけきびしく憲兵隊が日本軍将兵の行動を監視していたと言えます。支那軍やソ連軍であれば、掠奪や暴行をしたところでなんの咎めも受けません。支那兵は当然のように清野戦術や便衣戦法を実行しますし、ソ連兵の暴虐については満洲居留民の悲劇を見れば説明するまでもありません。アメリカ軍も似たようなものです。日本本土に上陸したアメリカ兵は手当たり次第に日本女性を強姦しましたが、処罰を受けることはまったくありませんでした。

 これにくらべると日本軍の軍紀はきわめて厳正で、欠礼すればビンタ、強姦すれば銃殺といわれていました。中華民国の首都をめぐる攻防戦で敵味方あわせて数十万の将兵が戦った戦闘です。その際に軍律違反者が百四名でおさまっていたということは、むしろ日本軍が軍律を保っていた証拠です。

 数十年前からつづく日貨排斥運動、通州における邦人大虐殺事件、度重なる日本軍への発砲事件、日本軍将兵はこれまで我慢に我慢を重ねてきていました。なかには私怨を抱いていた者がいても不思議ではない状況でした。そして、それを憲兵隊が取り締まっていたのです。

 中支那方面軍における憲兵隊の捜査の厳しさを物語る挿話があります。ひとりの中尉が南京城内で偶然に落とし物を拾いました。支那の婦人靴の片方でした。美しい刺繍のある靴でしたので、みやげにするつもりで中尉は靴を持ち帰りました。ところが、これを見とがめた憲兵が掠奪の嫌疑でこの中尉を書類送検したのです。中尉は泣いて弁明し、ようやく無罪となりましたが、日本軍の憲兵がいかにきびしく将兵を監視していたかがわかります。

 松井石根大将は、翌年一月と二月にも南京を視察し、病院を訪ねて負傷兵を慰問したり、難民区の代表に会って米麦を進呈したり、復興の様子を巡視したりしました。

 支那兵の清野戦術によって廃墟と化していた南京は急速に復興していき、南京戦の翌月には人口が五万人増えたという記録があります。小さな事件を別とすれば南京は平穏だったのです。日本軍は大量の支那兵捕虜の扱いに困り、解放して故郷に帰らせたり、輜重係として雇用したりし、紛争は生じませんでした。

 難民区や安全区の治安は日本軍によって厳正に守られていました。日本軍は良民証を発行し、難民区や安全区の出入りを監視していました。生活必需品や食糧は日本軍が配給しており、南京市民と日本軍兵士の関係は良好でした。

 南京には百名を超える日本人記者やカメラマンがおり、外国からの報道関係者も数多く駐在していました。かれら特派員によって占領後の南京の様子は中外に連日のように報道されていました。

 昭和十二年十二月二十日の朝日新聞朝刊は「平和よみがえる南京」との大見出しを掲げ、露天商店街で日本兵と南京市民が交歓する様子を写真入りで報道しています。南京城外の耕作地へ行き来する支那農民を日本兵が護衛する様子が写真で掲載されました。支那人の理髪屋が日本兵の髪を刈っている写真もあります。十二月二十一日の朝日新聞には「抗日のお題目わすれた南京市民」との大見出しがあり、日本兵と南京市民とがニコニコ並んでいる写真が掲載されました。翌二十二日の朝日新聞は日本軍の軍医と看護兵が支那軍の負傷兵を治療する様子を報告しています。二十五日の朝日新聞には「南京は微笑む」との見出しがあり、支那人の子供と日本兵が遊ぶ様子が写真で紹介されています。昭和十三年一月十八日の東京日日新聞には「支那娘も大道を闊歩」という見出しがあります。松井石根大将の威令はあまねく行き渡っていたといえるでしょう。

 松井大将は占領地の治安に気を配りながら、支那要人との和平交渉を重ねていました。支那に親日政権を樹立させてアジア主義を実現させようとしたのです。現役時代に培った支那人脈が役に立ちました。松井大将の政治工作には脈がありましたが、その努力を台無しにする声明が日本政府から発せられます。

「国民政府を相手とせず」

 この声明が支那要人の警戒心を強めてしまい、松井大将の政治工作は失敗に帰します。また、松井大将の独断的な政治工作は日本政府と参謀本部から忌避され、中支那方面軍司令官を解任される原因となりました。松井大将は昭和十三年二月二十一日に上海を発ち、帰国します。

 凱旋将軍を日本国民は歓呼の声で迎えました。二月二十六日には葉山御用邸で天皇陛下に戦況を上奏し、勅語を賜りました。そして、二十八日に参謀本部で出征以来の報告をし、意見を具申し、軍務を終えました。


 ふたたび予備役となった松井石根大将は、大亜細亜協会会頭となり、講演活動を再開し、各地を遊説するようになります。

 昭和十三年八月、松井大将は、従軍記者として武漢に駐在していた田中正明に依頼し、南京の治安状況を調査させています。田中は南京を視察し、人口が四十万人に増えていることなどを報告しました。

 昭和十四年、上海戦と南京戦で戦死した日支両軍将兵の霊を慰めるため松井石根大将は熱海市に興亜観音を建立します。そして、興亜観音の近傍に庵を結び、読経三昧の日々を送りはじめました。

 昭和十六年十二月、大東亜戦争がはじまると、その緒戦において日本軍は連戦連勝し、東南アジアを占領していきました。松井石根大将は支那、台湾、仏印、マレーシア、タイ、ビルマ、フィリピンを遊説し、各国の各民族にアジア主義を訴えて回りました。

 しかし、英米ソ支に包囲された戦略環境にあっては、いかに精強な帝国陸海軍といえども勝つことはできませんでした。昭和二十年八月、日本はポツダム宣言を受諾し、九月に連合国と停戦協定を結びます。

 ここから、功成り名遂げた老将の悲劇的な最晩年と、田中正明の歴史修正活動がはじまります。


 松井石根大将が「南京大虐殺」という言葉を聞いたのは昭和二十年八月です。南京を占領した日本軍が七週間にわたって暴虐の限りをつくし、南京市民二十万人を虐殺した。そのようにアメリカ国内のラジオ放送が繰りかえし報道しているという情報でした。松井大将は驚嘆し、かつての部下に調べさせましたが、そんな事実はありませんでした。当時のことを思い返しても該当する記憶はまったくありません。

「まったくの誣妄(ぶもう)なり」

 と松井大将は周囲に語りました。

 しかし、昭和二十年十月、松井石根大将は極東軍事裁判の被告に指名されます。その罪状には「南京大虐殺」が含まれていました。

 松井大将は、逃げ隠れするつもりは毛頭ありませんでした。裁判がおこなわれると信じていましたから、裁判によって身の潔白を証明できると思っていたのです。松井大将に限らず、すべての被告、すべての日本国民が極東軍事裁判を「裁判」だと思っていました。このあたりが日本人の甘さです。この裁判は、名ばかりの裁判であり、実質的には欧米白人の人種差別意識にもとづく復讐と洗脳だったのです。

 十二月になると、NHKラジオ放送が「南京大虐殺」を報道しはじめました。洗脳の始まりです。

 松井石根大将が巣鴨刑務所に収監されたのは翌年三月です。松井大将は、全訴因五十五箇条のうち三十八箇条に該当するとして起訴されました。その起訴状のバカバカしさに対する憤懣を松井大将は日誌に記しています。

「その内容きわめて杜撰薄弱なること申すまでもなし」

 検察側がいかなる証拠によって責任を追及してくるのかが皆目わかりませんでした。ともかく不可解でした。なにしろ起訴事実が存在しないのですから、検察側がどうやって立証するつもりなのかが不明でした。松井大将には裁判に勝つ自信があったようです。

「適時これに応ずる弁解をなすの準備あるを要す」

 と日誌に書いています。

 しかし、いざ裁判が始まってみると非道いものでした。そもそも平和に対する罪とか、人道に対する罪とか、事件発生当時には存在していなかった法で裁くというのです。法の不遡及という原則が無視されていました。

 キーナン主席検事の冒頭陳述もひどいものでした。南京戦についてキーナン主席検事は次のように述べました。

「日本軍は無警告に南京を攻撃した」

 これはまったくの事実誤認です。松井石根大将は憤慨し、次のような意見書を直ちに提出して反論しました。

「南京攻撃は、上海占領後、支那軍を追撃した最後の戦闘なり。キーナン主席検事が、無警告に南京を攻撃せり、というは誤りなり。予は、南京攻略の際、とくに慎重に平和裡に南京の占領を欲したるにより、特に飛行機上より南京守備の支那軍に対し、降伏勧告文を投じ、平和的手段により南京城を授受すべきことを申し出でたり」

 しかし、無駄でした。弁護側の証拠はほとんど採用されなかったのです。他方、検察側の提出する証拠は次々と採用されていきました。そのなかには氏素性の不確かな人物の証言が多数ありました。顔も住所もわからぬような怪しげな証人の伝聞証言が次々と証拠採用されていきました。極東軍事裁判には偽証罪がなかったので嘘の証言をしても平気だったのです。

 これに対して弁護側の提出した証拠は、それが確実な根拠に基づくものであっても容易には採用されませんでした。弁護人が抗議しても黙殺されるだけでした。このため裁判長に強く抗議する弁護士も現れましたが、解任されるだけでした。法廷侮辱罪が弁護側に対してきわめて厳格に適応されたのです。あきらかに差別的でした。

 松井石根大将とその弁護人は数多くの証拠を提出しましたが、そのほとんどが却下されてしまいました。松井大将は日誌に書いています。

「裁判いよいよイヤになりたり。何の証拠ももはやその効なし。彼らの自由に委すにしかず」

 それでも裁判の形式だけは整えられていきました。松井大将の弁護側証人として六名が法廷に立ち、七名が宣誓供述書を提出しました。とはいえすべては形式に過ぎませんでした。

 極東軍事裁判という虚飾に満ちたリンチ劇は、二年六ヶ月の歳月と二十七億円の経費をかけて実施されました。経費を負担したのは日本政府です。開廷四百二十三回、法廷証人四百十九名、宣誓供述者七百七十九名を数えましたが、結局は虚偽の裁判ゴッコでした。傲慢な欧米白人の恥辱を千載に残す歴史の一幕です。

 昭和二十三年十一月十二日、判決が朗読されました。松井石根大将に対する判決は絞首刑でした。松井大将は、平和に対する罪と人道に対する罪に関しては無罪でした。つまり、南京大虐殺は立哨されなかったのです。ですが、戦争法規違反によって有罪とされました。

 この虚偽に満ちた裁判について、松井石根大将は書簡を書き残しています。その要点を摘出すると次のとおりです。

「過去一世紀における東洋の戦乱は、欧米諸国の東洋侵略の歴史なり」

「満洲事変以来、数度の支那出兵および昭和十二年以来の支那事変は、日支間の条約、協約に対する支那側の違反にその原因がある。日本の目的は在支那日本人の生命財産またはその既得権益を守るための自衛だった」

「南京において、俘虜、一般人、婦女子に対し、組織的かつ残忍なる虐殺、暴行をおこなえるというがごときはまったくの誣妄なり」

「俘虜の虐殺については、予は全然かかることを聞知せることなし。日本軍が自発的に俘虜を虐殺せる事実などは絶対になしと認む。いわんや一般人民ことに婦女子に対しては、特に抗命せざる限り、充分の保護愛撫を旨とせることはいうまでもなき事なり」

 松井石根大将は刑場の露と消え、悪名だけが残りました。占領下の日本では連合軍の検閲と焚書が行き渡り、戦勝国によって捏造された歴史を日本国民は信じ込まされました。真相を知る日本人は占領軍の検閲と公職追放と莫大な罰金によって沈黙を強制されました。


 終戦後、長野県で新聞社に職を得ていた田中正明ですが、昭和二十一年、占領軍の公職追放令によって失職します。そして、かつて親しく接した松井石根大将が極東軍事裁判の被告にされたと聞き、衝撃を受けます。田中正明は上京し、裁判を傍聴したり、巣鴨に松井大将を慰問したりして過ごします。

 昭和二十三年十二月二十三日、七名の被告の死刑が執行されました。松井石根大将の密葬に参列した田中正明は、そこで耳寄りな情報に接します。

「インド出身で国際法の権威たるパール判事は、すべての被告を無罪とする判決文を書いた」

 この事実を田中正明に伝えたのは、東條英機の弁護人だった清瀬一郎と、松井石根の弁護人だった伊藤清です。判決に疑問を感じていた田中正明はふたりに懇願します。

「そのパール判決文を読ませて下さい」

 しかし、ふたりの弁護士は躊躇します。連合軍の情報統制はきびしく、パール判決文は極秘事項でした。法廷においてさえ朗読されなかったものです。それを部外に漏らしたとなれば弁護士の資格を剥奪されるに違いありませんでした。それでも田中正明の情熱がふたりを動かしました。

「死刑判決は不条理です。なんとかして松井石根大将の汚名を雪ぎたいのです」

 秘密を厳守する旨を明記した念書とひきかえに弁護士ふたりは田中正明にパール判決文を貸し出しました。

「日本が主権を回復したら、これを出版する」

 そう誓った田中正明は、私費をなげうって学生二名をやとい、パール判決文を原稿用紙に筆写させました。そして、自身は松井石根大将の経歴や南京戦の実際、極東軍事裁判の問題点などを調べていきました。

 公職追放によって職を失っていた田中正明にかわって家計を支えていたのは夫人です。旅館に住み込んで女中奉公をしていました。そのごくごく狭い女中部屋が仕事場となりました。

 昭和二十七年四月二十八日、田中正明は念願どおり、「真理の裁き パール日本無罪論」を出版します。日本国民にパール判事の無罪判決の存在を知らせ、極東軍事裁判の虚妄を告発し、松井石根大将の冤を雪ぐためでした。

 この本はベストセラーになりました。田中正明は、東京大学法学部の横田喜三郎教授を訪ねて面会し、この本を寄贈しました。当時、横田教授は国際法の権威として知られ、極東軍事裁判を肯定的に評価し、「国際法の革命」と論文に書いて激賞していた人物です。まさに売国奴です。この本の表題を見たとき、横田教授は露骨に嫌な顔をしたということです。


 もともと南京大虐殺は存在しなかった虚偽です。ですから月日の経過とともに人々の記憶から消えていきました。ところが、その大嘘をふたたび世に撒き散らし、寝た子を起こしたのは朝日新聞社の本多勝一記者による「中国の旅」(昭和四十七年刊)でした。この偽書は、中国共産党の言い分だけを取材し、何らの裏付け取材もしなかったインチキなノンフィクションです。本多勝一記者は、朝日新聞の過去記事さえ検証しなかったのです。あるいは意図的に黙殺したのでしょう。

 遺憾なことに「中国の旅」は大きな反響をよんでベストセラーとなりました。本多勝一記者の悪魔的な作文技術は、大嘘を国民に信じ込ませるほどに巧妙でした。南京大虐殺という虚妄がよみがえり、日本国民の歴史認識がふたたび歪められることとなりました。

 朝日新聞社も本多勝一記者も反権力を気どっていましたが、じつは朝日新聞社と本多勝一記者こそ権力にこびへつらう事大主義の歴史正統主義者でした。中国共産党という外国権力に寄り掛かり、すでに滅び去った大日本帝国を誹謗中傷してみせたに過ぎません。もっとも安全で、しかも売国的かつ卑劣な行為です。

 戦後日本の権力構造は、日本政府という国家権力の上層に、アメリカやソ連や中国共産党といった外国権力が君臨する状態です。その最上層の権威に媚びへつらいながら、旧日本政府を誹謗中傷するのが戦後日本における歴史正統主義者の立場です。

 中国共産党と朝日新聞社の合作フィクション「中国の旅」によって松井石根大将の名がふたたび汚される事態に接した田中正明は、これを座視できませんでした。松井石根大将の事績と南京戦の真実をしらべなおし、多くの証拠や証言を集めて「南京虐殺の虚構」(昭和五十九年)を世に出しました。

 虚名とはいえ報道作家として富と名声を手にした本多勝一にくらべると、田中正明は冷遇されました。田中家は日々の生活費にさえ困窮するほどでした。いつの時代も歴史修正主義者は苦労します。これは宿命です。困苦に耐えつつ田中正明は正論を訴えつづけました。田中正明の声は、極東裁判史観に洗脳された戦後日本社会には容れられず、大きな世論にはなり得ませんでした。しかし、消えてはいません。

 田中正明に師事した近代史家の水間政憲氏は、歴史史料を収集分析し、ついに南京城内における死者数が一千七百九十三人だったことを明らかにしました。南京大虐殺二十万人説がとんでもない虚妄だったことを史料で証明したのです。

 田中正明の志は確かに受け継がれています。田中正明こそ歴史修正の難事業に無償で挑んだ義士といえるでしょう。


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