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三田村武夫

挿絵(By みてみん)


 三田村武夫は明治三十二年(一八九九)に岐阜県で生まれました。長じて内務官僚となり、さらに政治家に転じ、戦前戦後を通じて衆議院議員をつとめました。そして、「大東亜戦争とスターリンの謀略」という歴史修正史観の一冊を世に残した人物です。


 昭和三年六月、内務省警保局図書課に異動した少壮の三田村武夫は、左翼系非合法出版物の検閲に従事していました。その頃の日本社会には共産主義がかなり浸透しており、その背景には深刻な経済不況と貧富の格差がありました。

 警保局に異動した直後の夏、三田村武夫は映画館で「維新の京洛」という作品を観ます。映画には新選組が登場し、尊皇の志士たちと決闘します。戦いを終えた近藤勇が自慢の名刀「虎徹」を月の光にかざしているところに副長の土方歳三が声をかけます。

「隊長、虎徹は斬れますなあ」

「うん、虎徹はよく斬れる。だが土方、わしは近頃、斬っても、斬っても、斬り尽くせない、大きな時代の流れをしみじみ感ずる。徳川の世も、もう永くはあるまい」

 そのときです、映画館内の観衆のひとりが大声で叫びました。

「そうだ。ブルジョアの世も、もう永くはない。プロレタリア解放の叫びは、斬っても、斬っても、斬り尽くせない大きな時代の流れだ」

 すると映画館内が拍手と歓声に包まれました。ヤジを入れた観客を責める者はひとりもおらず、むしろ大喝采を博したのです。そんな世相でした。

 実際、三田村武夫の机には、共産主義革命を鼓吹する非合法出版物がとめどなく届けられていました。

 一年後、三田村武夫は図書課から保安課へ異動し、特高警察を管理監督する治安維持行政に携わりながら、共産主義の研究を続けます。昭和七年十月、三田村武夫は拓務省管理局へ異動します。拓務省は外邦領土の行政を一括管理する官庁でした。三田村は朝鮮、満洲、支那における共産主義運動について調査と研究をつづけました。どのような組織がどこにあり、組織間の連携がどうなっているのか。要注意人物はだれとだれであり、どのような人間関係を構築しているのか。過去にどのような運動や事件が発生し、また今後に発生が予想される出来事は何か。いずれも機密性の高い任務でした。

 三田村武夫は共産主義の歴史を洗い、レーニンやスターリンの発したテーゼを熟読し、その変化を捉えようとしました。毎年ひらかれるコミンテルン大会において採択される数々のテーゼを分析し、共産主義運動の理論的背景を理解しようと努めました。その結果、次のようなことがわかりました。

 世界に共産革命をおしひろめ、プロレタリア独裁の世界を現出させることが共産党の最終目的です。この目的は不変ですが、戦略戦術は頻繁に変化していました。非合法活動によってロシア革命を成功させたレーニンは、当初、各国の共産党にも非合法活動を命じました。しかし、この方法はことごとく失敗に帰しました。そのためレーニンは戦略を変えます。各国の国情を考慮してよいこととし、国情に応じた方針を各国の共産党に考案させました。そして、既存権威を打倒しておいてから、次にプロレタリア革命を達成するという二段階革命方式を採択しました。

 レーニンの革命理論は、ここからさらに精緻化していきます。資本主義国家群が経済的な摩擦や領土拡張の欲望から戦争をくり返す様子を観察したレーニンは、資本主義国家同士を戦わせる戦略を案出します。資本主義国のどちらが勝ち、どちらが負けてもよいのです。資本主義国家同士を相戦わせ、敗戦国は完膚なきまで破綻に追い込み、そこに乗じて共産革命を達成します。これが敗戦革命論です。そして、戦勝国もまた戦争によって疲弊しますから、その(すき)に乗じて共産主義勢力を拡張するのです。

 この戦略を実現するためレーニンは浸透戦術を推進するよう各国の共産党に命令じました。政府、地方自治体、軍隊、学会、企業、労働組合、法曹界、マスメディアなどに共産分子をもぐり込ませ、国家体制の内部から資本主義国家をあやつり、資本主義国家を相争わせるのです。プロパガンダによって資本主義国同士の戦争をおおいに煽って推進する一方、ソビエト連邦に対する戦争にだけは反対し、平和を訴えて抑止するわけです。

 これがレーニンの謀略計画でした。当時の情勢にあわせて考えるなら、欧州においてはドイツと英仏とを相争わせ、極東にあっては日支双方を相戦わせる。そして、地政学的に孤立しているアメリカをして欧州と極東に介入せしめ、両地域の紛争を激化させ、ついにはアメリカをも参戦させる。この間、ソビエト連邦はいずれの戦争にも加担せず、事態を静観して漁夫の利を得る。

 レーニンの命令はさらにつづきます。共産革命戦略を実行するために共産主義者は名を変え、身分を偽って、正体を隠し、友人や知人や家族さえだましつづけなければならない。コミュニストの道徳的基準は世界共産革命を達成すること以外にはない。よって、この目的達成のためなら国家を裏切り、権力者をだまし、友人を売り、恋人を捨て、白を黒と言い曲げても良い。共産革命のためならあらゆる悪を成してよく、そのことに道徳的責任を感じる必要はまったくない。道徳的な良心の呵責(かしゃく)を感じるような弱々しい意思ではダメである。必要なら、妻をも、親をも、親友をも、恩師をも裏切って平気でいられるような鋼鉄の意思を持て。

 三田村武夫は共産主義について知見を深めていきましたが、必ずしも強い危機感を抱きはしませんでした。レーニンのテーゼは、あまりにも壮大に過ぎ、まるで空想のように感じられたからです。

(まさか、そんなことはできまい)

 資本主義国家を内部から操って、資本主義国同士を戦わせるなど、夢のような大陰謀です。三田村には実感が伴いませんでした。


 昭和九年、三田村武夫は満洲の実権をめぐる陸軍省と拓務省の政治闘争を目の当たりにします。陸軍は対満政治機構改革案を作成し、満洲国の軍事、行政、外交を掌握しようと図りました。体裁上は独立国だった満洲国の実権を奪おうとする提案でした。

 これに対して拓務省は全省をあげて反対しました。三田村武夫も拓務省職員として反対運動に起ち上がりました。この陸軍省案が通れば拓務省の省益が削りとられるばかりでなく、政治の実権を陸軍が握ってしまう。そんな危機意識がありました。

「憲法違反である」

 拓務省は、省をつぶす覚悟で反対しましたが、結局、陸軍省案が通ってしまいます。以後、満洲国に対する陸軍軍人の政治介入が強まります。

 こうした政治介入を進めた軍人たちは、実のところ共産主義の影響を受けていました。その事実に三田村武夫が気づくのは戦後のことです。三田村は当時を回顧し、陸軍の政治介入は満洲から始まって本土へ及んだとし、「満洲を王道楽土にする」という理想論の底には「実は共産主義思想があった」と書いています。軍人たちは政治介入欲求のとりこになり、知らず知らずのうちに共産主義の走狗となっていたのです。


 昭和十年(一九三五)、三田村武夫は思うところあって官を辞し、政治家を目指します。翌年の選挙には落選しましたが、昭和十二年(一九三七)四月の選挙に当選し、衆議院議員となりました。

 その三ヶ月後、支那事変が始まります。北京郊外において日本軍に対する支那軍の挑発が相次ぎ、しかも通州で日本人居留民およそ二百五十名が支那兵に虐殺されるという大事件が発生したためです。新聞各紙は「暴支膺懲(ようちょう)」を大見出しに掲げ、出兵を支持しました。このときコミンテルンのテーゼを理解していた三田村武夫は多少の危惧を感じました。

(まさかとは思うが、日中全面戦争になったら、それこそソビエト共産党の思う壺だ)

 心配になった三田村は、知り合いの田中新一陸軍大佐に陸軍の意図を尋ねます。田中大佐は陸軍省軍事課長でしたから、機密に通じていると思ったのです。

「陸軍はいったいどこまでやる腹なんだ」

「さあ、それがよくわからん。いっそ、君が現地の司令部を訪問してきてくれんか」

 そう言われた三田村はその気になり、朝鮮、満洲、北支を歴訪します。朝鮮総督南次郎大将と関東軍参謀長東條英機中将に会って意見を聞き、天津では第一軍司令部首脳と会見して意向を質しました。しかし、ハッキリしませんでした。東條中将は「断固としてやる」と生真面目に答えましたが、具体的な進撃限界線についてはなにも言いませんでした。主力たる第一軍にも明確な方針がありませんでした。あくまでも居留民保護が主要任務だったのです。

(少なくとも日中の全面戦争にはなりそうもない)

 三田村武夫は一安心して帰国しました。ところが、その後の展開は歴史が示すとおりです。蒋介石は上海を大軍で包囲し、日本人居留民を迫害しました。このため日本軍は中支那方面軍を上海に派遣しました。これが第二次上海事変に発展し、さらに日中の全面戦争へと拡大していきます。

 蒋介石総統が「最後の関頭」演説で対日徹底抗戦の決意を表明すれば、近衛文麿総理も「蒋介石を対手とせず」と宣言しました。ここにおいて日中の対立が本格化してしまったのです。

(レーニンの戦略どおりに事態が進展しておる)

 三田村武夫は半ば驚き、半ば戸惑います。

(西安事件で人質になった蒋介石がソビエト共産党の言いなりになって日本に挑んでくるのはわかる。それが国共合作だ。しかし、まさか日本政府がコミンテルンのスパイに操られているとは思えぬ)

 三田村武夫は危惧の念を抱きますが、まだどこか半信半疑です。雲をつかむように壮大なレーニン戦略がまさか実現するとは思えなかったのです。

 その後、支那事変は長引き、欧州では第二次大戦が始まります。さらにアメリカの対日経済制裁が強化され、日米間の緊張が高まります。資本主義国同士を相争わせるというレーニンのテーゼどおりに世界が動きつつある現実に三田村は瞠目(どうもく)します。

(世界はレーニンの思惑どおりに動いている)

 しかし、三田村には事態を止める方法がありませんでした。帝国議会で法案の質疑に立ってみても、書籍を出版して危険を訴えてみてもまったく歯が立ちません。共産主義に関することは機密とされていましたし、下手に騒げば共産主義を鼓吹していると疑われかねませんでした。共産主義の脅威を周知しようとする三田村を阻害したのは、皮肉なことに治安維持法と特高警察でした。

 三田村武夫がいっそう危機感を強めたのは昭和十六年十月十五日です。ゾルゲと尾崎秀実(ほつみ)が逮捕されたのです。尾崎秀実は近衛内閣の政策ブレーンのひとりであり、陸軍にも顔が利く支那問題の専門家でした。尾崎秀実には「進歩的愛国者」、「支那問題の専門家」、「すぐれた政治評論家」といった評判がありました。陸軍に南進論を吹き込んだのも尾崎でした。その尾崎がコミンテルンのスパイだったのです。

(近衛内閣はコミンテルンに操られていたのだ。だから支那事変が拡大した。だとすれば東條内閣とて同じことだ)

 三田村武夫はレーニンのテーゼに沿って進展する世界の近未来を想像し、戦慄します。支那事変は長期化しており、収束する見込みがない。その極東へアメリカが介入して日本を挑発している。そして、日米戦争へと発展する。国力強大なアメリカは日本を打倒するであろう。敗戦となった日本では共産革命が起こる。

 三田村武夫は同志の中野正剛と相語り、対策を練ります。しかし、世界の趨勢はいかんともなしがたく、そのまま大東亜戦争の勃発へと至ります。

 三田村武夫は、昭和十八年(一九四八)四月、近衛文麿公爵と会談する機会を得ます。ソロモン方面で日米両軍が烈しく戦っていた頃です。三田村は戦局や政局について自説を述べ、コミンテルンの策謀を語り、危機を訴え、三度も組閣した近衛文麿公爵の政治責任を追及しました。

「公爵、あなたは軍部に対抗するため新党をおつくりになるはずだった。それがなぜ、あのような大政翼賛会になってしまったのです」

 近衛公爵は答えます。

「自分でもよくわからない。ただ自分が枢密院を辞めて、予定どおり新党をつくっていたら、もっと別な政党ができていたと思う。ところが総理大臣にかつぎ出されて組閣することになってみると、陸軍省と内務省にいいようにやられて翼賛会ができてしまった」

 さらに三田村は追及します。

「この戦争は必ず負けます。敗戦の次には共産革命がきます。日本をこんな状態に追い込んだのは、公爵、あなたです。あなたの責任は重大です。支那事変を始めたのはあなたです。何度もあった日支和平交渉をつぶしたのもあなたです」

 こう責められた近衛公爵はしみじみと往事を回想します。

「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果となってしまった。事ここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られていたような気がする」

 戦後、三田村は次のような近衛評を書いています。

「近衛公は聡明で、ものわかりがよく、聞き上手で、だれの話もよく聞いたが、その話や意見の背後に何がひそんでいるかを見破ることができなかった」

 近衛文麿公爵との会談を終えた三田村はいよいよ危機感をつのらせ、事態を座視できなくなりました。日本政府はコミンテルンに操られていると確信したからです。近衛内閣がそうだったとすれば、東條内閣も同じことです。いっそ東條内閣を打倒し、政権中枢に食い込んでいる共産主義者を一網打尽に逮捕し、そのうえで新政権を樹立するほかはない。そう確信した三田村武夫は中野正剛とともに東條内閣倒閣の策を練ります。

 しかし、この秘事は官憲の知るところとなり、三田村武夫は警視庁特高部によって逮捕されてしまいます。言論、出版、集会、結社等臨時取締法違反の容疑でした。そして、百日のあいだ拘禁されることとなりました。

 戦局は時間の経過とともに悪化しました。サイパン島陥落の責任をとるかたちで東條内閣は昭和十九年七月に総辞職しました。さらに戦局が悪化した昭和二十年二月、近衛文麿公爵は天皇陛下に上奏文を提出します。

「つらつら思うに、わが国内外の情勢はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつありと存ぜられ候。共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観これあり候」

 近衛公爵は共産革命の危機を訴えたのですが、その内容は二年前に三田村武夫が近衛公に訴えた事柄でした。

 その六ヶ月後、日本は降伏します。幸い、共産革命は起こらず、国体も護持されました。しかし、日本は連合国の占領下におかれ、主権喪失の暗黒時代に入ります。三田村武夫も内務官僚という前歴が災いして公職追放となりました。

 野に下った三田村は、日本敗戦の原因を探し求めます。コミンテルンの陰謀が主要な原因だったのではないかと疑い、その根拠を探し求めました。そして、尾崎秀実の裁判記録や手記を読むに至って、尾崎秀実が筋金入りのスパイだったことを知りました。日本政府も軍部も新聞各紙もコミンテルンのスパイによって踊らされていたことを思い知らされます。

 かつてレーニンはコミュニストたちに訴えました。共産革命のためにはすべての道徳を捨て去れ、と。尾崎秀実は、そのとおりの男でした。尾崎は手記に書いています。

「わたしにとっては思想なり、主義主張なりは文字どおり命がけのものであったことは申すまでもありません」

 尾崎は、忠実にして実践的な共産主義者だったのです。このような筋金入りの共産主義者が政府中枢に十数年もの長きにわたって巣食っていたのです。国策も狂うでしょう。事実、日本は国策を操られ、蒋介石との全面戦争、アメリカとの戦争へと進んでしまいました。すべては世界共産革命のためのコミンテルンの策謀だったのです。


 尾崎秀実は明治三十四年(一九〇一)に岐阜県で生まれました。東京大学在学中に共産主義者となり、以後、そのことを隠匿したまま朝日新聞社員となり、結婚し、昭和研究会メンバーとなり、近衛公爵の私的諮問機関「朝飯会」のメンバーとなり、満鉄嘱託となって日本の国策に多大な影響を与えました。尾崎秀実は手記に書いています。

「この第二次世界戦争の過程を通じて、世界共産主義革命が完全に成就しないまでも決定的な段階に達することを確信する」

 確かに第二次大戦によって資本主義国同士が相争うこととなり、支那から東欧へ至るユーラシア大陸の大半が共産化してしまいました。まさに共産主義の勝利です。唯一の失敗は独ソ戦争だけでした。

 驚くべきことに尾崎秀実は手記の中で、日独伊三国同盟、日本と英米との戦争、支那の共産化までを正確に予想していました。みごとな大局観というしかありません。唯一の計算違いは独ソ戦争の勃発でしたが、これについても尾崎秀実は冷静な情勢判断を書き残しています。

「対ソ連攻撃の危険性のもっとも多い日本およびドイツが、前者は日支戦争により、後者は欧州戦争により、現実の対ソ攻撃可能性を失ったとみられたとき、ソ連邦が混戦に巻き込まれることなく超然たり得るとわたしは感じたのであります。独ソ戦の勃発は我々の立場からはきわめて遺憾なことでありますが、ソ連がドイツに対して結局の勝利を得るであろうと確信しておりました」

 尾崎秀実は、祖国日本を裏切ることについてまったく悔恨を持たなかったようです。

「忠実なる共産主義者として行動する限りにおいて日本の現在の国家体制と矛盾することは当然の結果であります。わたしたちは世界大同を目指すものでありまして、国家的対立を解消して世界的共産主義社会の実現を目指しているのであります。この場合、いわゆる天皇制が制度として否定され、解体されることは当然であります。わたしのおこなっているごときことが猛烈な反国家的な犯罪であることは言うまでもありません」

 しかし、さすがの尾崎秀実も、家族や友人の好意と善意を完全に裏切ることについては後ろめたさを感じたようです。とはいえ、それ以上の友愛と誠実をゾルゲなどの同士に感じていたとも書いていますから、やはり筋金入りのコミュニストでした。

 むろん尾崎秀実ひとりでは国家を操ることなどできません。尾崎は、ゾルゲを中心とするスパイ団の一員であったとともに、別系統の人脈を政界、官界、言論界へと広げて影響力を構築していきました。近衛内閣の政策ブレーンとしては、風見章、犬養健、蝋山政道、笠信太郎、西園寺公一、松本重治などと通じていました。そして、官僚組織人脈には和田博雄、勝間田清一、和田耕作、影佐禎昭、武藤章などがいました。このなかには共産主義思想前歴者もいます。治安維持法違反で逮捕された前歴の持ち主が官僚機構の中にはたくさんいたのです。治安維持法は思いのほか甘い法律だったと言うしかありません。

 このほか、当時の社会状況として、共産主義者やその団体がたくさん存在していました。そのある者は確信犯的共産主義者であり、ある者は単に煽動されていた者であり、ある者は騙されていた者でした。三田村武夫の調査によれば政治家、革新官僚、右翼活動家、資本家、政治軍人、学者、言論人、思想家、新聞記者にまで共産主義ネットワークは広がっていました。

 共産主義者たちは支那事変が始まるや、その戦争を推進して拡大すべく画策し、近衛総理の「不拡大、局地解決」の方針を逆転させていきました。資本主義国同士の戦争だったからです。そして、何度も試みられた日支間の和平交渉をことごとくつぶしたのも、日支双方の政府内部に浸透していた共産分子でした。以下、三田村武夫の著作から、尾崎秀実の謀略を略述してみます。


 昭和十二年十二月、松井石根大将率いる中支那方面軍が南京を攻略すると、日支間の平和交渉が複数ルートで開始された。なかでも萱野長知による対支交渉は有望なもののひとつだった。松井大将の委嘱をうけて上海に飛んだ萱野長知は、独自の支那人脈をたどって蒋介石政権との接触を図り、蒋介石政権の中枢にいる孔祥熙に連絡をつけることに成功した。和平交渉はうまくいくかと思われた。

 ところが、突然に交渉は頓挫し、決裂する。尾崎秀実、松本重治、高宗武などのコミュニストが交渉に介入し、偽情報を流すことによって日支双方に不信感を生じさせたのである。

 昭和十三年春、日本政府は「蒋介石政権を対手とせず」と宣言していたが、昭和十五年三月になると上海に汪兆銘政権を樹立させ、これを中華民国政府として国家承認した。この措置こそが日本と蒋介石政権の全面対決を恒久化させた。このとき汪兆銘政権樹立を主導したのは尾崎秀実を中心とする共産主義勢力であった。まさにレーニンのテーゼどおり、日支を長期的に相戦わせる謀略であった。汪兆銘もまた近衛文麿と同じく、見えざる共産主義者の糸に操られて悲劇の主役を演じさせられたわけである。

 言論界では東亜新秩序論や聖戦完遂論や南進論が盛んだったが、それらを熱心に鼓吹していたのはやはり共産主義の論客たちであった。蝋山政道、三木清、尾崎秀実、西園寺公一らが、雑誌「改造」や「中央公論」誌上において盛んに論文を発表していた。かれらのいう東亜新秩序とは、実は、共産主義体制のことだった。そして、「聖戦完遂」とは敗戦革命を実現するために日本を徹底的な壊滅状態へと追い込むためのレトリックだった。


 支那事変から敗戦へいたる過程を調べ直した三田村武夫は、これらの事柄に思い至り、共産主義勢力の世界的策謀が成功したことを知りました。

(あのレーニンの大風呂敷の謀略が、まさか成功するとは。しかし、成功したのだ)

 慨嘆する三田村をさらに驚かせるニュースがアメリカからとどきます。

「アメリカ政府高官アルジャー・ヒスはソ連のスパイだった」

 三田村武夫の脳裏に大東亜戦争の全体像が浮かび上がりました。それはまさにコミンテルンの戦略どおりでした。資本主義国の内部に共産分子を浸透させ、資本主義国同士を相戦わせ、その敗戦に乗じて敗戦国では敗戦革命を起こし、戦勝国においてもその疲弊につけこんで共産主義を扶植する。そのとおりに蒋介石もアメリカも日本も操られていたのです。レーニンのテーゼが実現したのです。まさにスターリンの勝利です。


 三田村武夫は、自分が把握し得た驚異の歴史事実を著書にして出版しました。昭和二十五年発刊「戦争と共産主義:昭和政治秘録」です。しかし、この本はすぐさま発禁処分とされてしまいました。なにしろ日本は占領下でした。連合国の一角たるソビエト連邦が許すはずはなかったのです。

 しかし、この著書は一部の識者に強く支持され、秘蔵され、読みつがれます。三田村武夫は昭和三十九年に死去しますが、三田村の遺作は細々と、しかし、根強く読みつがれていきました。そして、昭和六十二年に再出版されました。表題は「大東亜戦争とスターリンの謀略 ―戦争と共産主義―」と変わりましたが、内容は同じです。しかし、残念なことに、販売部数が伸びなかったため絶版となってしまいます。極東裁判史観の圧倒的な風圧には抗すべくもなかったのです。歴史学会においても三田村の遺作はまったく問題にされず、黙殺されつづけています。歴史学会こそは歴史正統史観の本山ですから、当然といえば当然の冷遇です。それでも三田村武夫の遺作は有志によって自費出版されつづけ、現在にいたっています。



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