ラダ・ビノード・パール
極東軍事裁判において全被告を無罪としたことで知られるラダ・ビノード・パール判事は、一八八六年(明治一九)、英領インド帝国ベンガル州に生まれました。インドは大英帝国の苛烈な植民地支配の下にあり、すべてのインド人がその桎梏に呻吟していた時代です。
生家は貧乏でしたが、両親は学問に熱心でした。パールは苦学して大学に進み、文学、数学、法学を修めます。一九一〇年(明治四三)にはアナンダ・モハン大学の数学教授となりますが、さらに法学を学び、一九二四年(大正一三)に法学博士を取得し、カルカッタ大学の法学教授となりました。
一九四六年(昭和二一)、インドを代表する国際法の権威となっていたパールは極東軍事裁判のインド代表判事に任命され、来日します。五月十七日、連合国十一ヶ国の判事のひとりとしてパールは市ヶ谷法廷の判事席にすわりました。
しかし、裁判の開始当初から、パール判事は同僚判事たちと見解を異にしました。戦勝に驕り、敗戦国の指導者たちを頭ごなしに罪人として裁こうとする同僚判事たちの態度は、国際法的見地からみると野蛮そのものでした。そのためパール判事は同僚判事たちとの交際を断ち、多数意見に妥協することがないように自己を律しました。同僚判事たちが観光や接待にうつつを抜かしているあいだにも、パール判事は裁判資料と参考文献の読破に時間を費やしました。滞日中、パール判事は市ヶ谷法廷と帝国ホテルとを往復するだけだったと言われています。そして、後世に名高いパール判決文を書き上げ、全被告を無罪としたのです。
パール判決文はつぎの一文から始まっています。
「同僚判事の判決と決定に同意し得ないことは、本官のきわめて遺憾とするところである」
全被告を無罪とすべきであるとしたパール判事は、同僚判事たちの有罪判決に同意できず、その所見を述べるために独自の判決文を執筆したのです。パール判決文は、検察側の起訴状に対して根本的な疑問を投げかけています。
「国際法において戦争は犯罪であるのかどうか」
「戦争を犯罪であるとする事後法が制定され得るのかどうか」
これらの疑問について極東軍事法廷は最後まで見解を明らかにしませんでした。肝腎な疑問をウヤムヤにしたまま、判事団の多数意見は被告を有罪としました。これに対してパール判事は国際法遵守の立場から全被告を無罪としました。
要するに極東軍事裁判は、裁判とは名ばかりの私刑ショーだったのですが、そんななかにあってパール判事だけは戦勝国に迎合せず、真摯な態度でこの裁判に臨み、歴史に残る公正な判決文を書き上げました。
予備審査段階において被告弁護団は軍事法廷に対する疑義を申し立てました。すべての判事が戦勝国代表であることは不公平であり、また、管轄権にも疑義があるとしたのです。こうした弁護団の見解をパール判事は支持しませんでした。戦勝国出身の判事だからといって不公平な判定を出すとは限らないとしたのです。判事を信頼せよ、ということでした。また、管轄権についても弁護団の抗議をしりぞけました。
「裁判所条例は戦争犯罪を定義しようと意図するものでなく、単に裁判所において審理されるべき事柄を規定するにとどまる。裁判に付せられた人々がどのような罪を犯したか、それを国際法に照らして決定することを本条例は裁判所に任せている」
ただし、パール判事は軍事法廷に無限の権能を認めたわけではありません。
「本裁判所条例でさえ、その権能を国際法から継受しているのである。戦勝国は国際法のもとにおいては戦争犯罪人の裁判のために裁判所を設置する権限を有する。しかしながら、かような勝者といえども国際法に関して立法する権限はない」
戦勝国といえども国際法を勝手に変えてはならない、とパール判事は戦勝国の首に縄をかけています。パール判事は弁護団を贔屓して全被告に無罪判決を出したわけではありません。同時に戦勝国に迎合もしませんでした。あくまで公正中立たろうとしたのです。そのうえでパール判事が争点としたのは「平和に対する罪」がはたして国際法に照らして犯罪であるのかどうか、ということでした。
「本官の判断では、本審理の対象である今次大戦が開始された時までには、どのような種類の戦争も国際法上の犯罪とはなっていなかった」
つまり、戦争は犯罪ではないという判断です。さらにパール判決文は言います。
「事後に発展したものの助けを借りて被告の過去の行為を処罰する権利をわれわれに与えるような正義の原則を本官は知らない」
事後法で過去を裁くことはできないという裁判の基本原則をパール判事は強調しています。そして、日本の指導者たちが侵略戦争を計画して準備したこと、いわゆる共同謀議が犯罪であるのか否かについては次のように問題を再定義しています。
「問題は、国民に不幸をもたらしたこれらの人々の行動がどんなに誤っていたかではなく、このことによってこれらの人々が国際社会に対して責任を負うべき者となったか否かである」
そして、次のように自身の見解を述べています。
「本官としては、少なくとも第二次世界大戦以前にあっては、国際法の発展の程度は、これらの人々の行為を犯罪もしくは違法とする程には至っていなかったという見解をとりたい」
つまり、極東軍事裁判の被告たちは国家の構成員として共同責任において行動したのであって、それを裁くような国際機関も国際刑法もない現状にあっては被告個人を裁くことはできない、としたのです。
日本は侵略戦争をした。だから、これを断罪する。これが検察側の主張でした。これに対してパール判事は詳細な検討をおこないました。例えば、ソ連の対日参戦も侵略に該当するとし、むしろ戦勝国の侵略行為を告発しています。
「東半球内における西洋諸国の権益は、おおむねこれらの西洋人たちが過去において軍事的暴力を変じて商業的利潤と成すことに成功したことのうえに築かれたものである。かような不公正は、この目的のために剣に訴えた父祖たちのしたことである。しかし、暴力を用いる者が、その暴力を真心から後悔しつつ、暴力によって永久に利益を得ることはできない」
これを読んだ欧米白人たちは鼻白んだに違いありません。インド人のパール判事だからこそ書き得たのです。
パール判決文は、極東軍事裁判における証拠採用の手続きについて重大な疑義を提示しています。証拠採用の常識的な手続き規定が無視されていたからです。裁判所条例には次のように書かれています。
「本裁判所は証拠に関する技術的法則に拘束せらるることなし。本裁判所において証明力ありと認むる限り、いかなる証拠をも採用するものとす」
裁判所の独自判断で何でも証拠採用できるとしているのです。この結果、極東軍事裁判では、通例ならば伝聞証拠として却下されるべき材料が証拠としてたくさん受理されました。証言者が証言台に立たないままに、その言明が証拠採用されたのです。要するに、どこの馬の骨とも知れない無責任な人物の証言、単なる風聞や噂話、捏造された作り話などが続々と証拠採用されていったのです。パール判決文はこの点を容赦なく批判しています。
「言明者の知識がどれほど広かろうとも、同人が法廷に召喚されて証人台から証言しない以上、信をおかれ、または証拠として受理されるべきでない。法廷は、この規則を守らなかった。本審理中に提出された証拠の大部分は、この種の伝聞からなるものである。これらの証拠は法廷で反対尋問されなかった人々からとった陳述である」
致命的な裁判上の欠陥です。パール判事は幾人かの証人の個人名を挙げ、信ずることができないと断じています。極東軍事裁判は、証拠の受理というきわめて基礎的な次元において失格だったのです。しかも、検察側と弁護側とを差別的に扱っていました。そのことは隠されてさえいません。法廷記録に残っています。
「法廷はいかなる証拠にもせよ、検察側によって提出され、証明力があり、重要性ありと判断せられる限りは、これを受理する」
検察側の証拠は無条件で採用されたのです。他方、弁護側の証拠は「そのつど法廷によって考慮され」たため、その大部分が却下されました。明らかな差別です。この点についてパール判決文は率直に困惑を表明しています。
「本官としては、個人の生命と自由とにかかわる裁判において、この種の証拠を受理し、それに基づいて裁判することに甚だしい困難を覚える」
検察は、二十八名の被告たちが共同謀議に参画していたとし、この共同謀議はアジア全域のみならず全世界を侵略する意図のもとにおこなわれたとして訴追しました。この検察側の訴因に対し、パール判決文はジョージ山岡弁護人の弁論を引用して反論します。
「共同謀議なるものはかつて司法裁判において論述せんと試みられた最も奇異にしてかつ信ずべからざるもののひとつである。少なくとも最近十四年間にわたる相互に孤立した関係のない諸事件が寄せ集められ、並べ立てられているに過ぎないのである」
弁護団は、検察側の共同謀議なる起訴事実を荒唐無稽な虚構であると評し、異議を唱えました。パール判決文は、双方の言い分を検証し、過去の出来事を詳細にふりかえります。そして、たとえば張作霖爆殺事件は、確かに殺人事件ではあったものの、それによって共同謀議が証明されるわけではないとしました。
「張作霖は死亡し、その死に伴う当然のなりゆきとして、その子があとを継いだ。それ以外になんらかの企図、計画あるいは試みがあったことを示すものはまったくない。検察側が主張したように、陸軍または陸軍将校のある一派が田中義一内閣の政策に不満を抱き、なんらかの方法でその政策を駆逐し、かつさらに好都合な政策を有する内閣を擁立しようと計画したということを立証するに足りるものは、なにひとつ記録のなかに見当たらない。本官の判断では、張作霖殺害またはその結果として起こった田中義一内閣の倒壊を、中国あるいは世界はいうにおよばず、あえて満洲をさえ占領しようとする企画、計画または共同謀議とどんなに結びつけようとしても、そんなものは記録中に全然みあたらない」
戦勝国出身の検察官と判事が戦勝に驕り、被告を犯罪者と決めつけて訴追しているなかにあって、パール判事は戦勝国と戦敗国を公平に扱い、法の前の平等を具現化しようと試みました。
「かりに日本が満洲に発展しようとする強い希望を抱いていたとしても、中国もまたこれに劣らず満洲から日本人をすべて締めだし、満洲にあった日本の権益をすべて払拭しようとする希望を持っていたといえる」
どっちもどっちだとパール判決文は主張しているのです。これに対して検察は、満洲事変を共同謀議のひとつであるとし、明らかな侵略行為であると決めつけました。これにパール判決文は反論します。
「満洲において日本のとった行動について、世界はこれを是認しないであろうということは確かである。同時に、その行動を犯罪として非難することは困難であろう。当時の国際法に鑑みて、日本の行動を犯罪的であると非難しようとは本官は思わない」
支那事変に関してもパール判決文は共同謀議であるとは認定し難いとしています。
「陸軍が政策問題に関与したからといって、それは必ずしも武力の行使を意味するものではない。検察側の主張するように、当時の諸事件すべてが一つ一つことごとく一個の巨大な共同謀議に帰するというような単純な解決法は、本官にとって承認しがたいことである」
検察は日本を悪と決めつけ、共同謀議ありきの虚構の論告をくり返しました。これに対し、パール判決文はあくまでも平等な目で戦勝国と日本を見ていました。
「日本は、その生存にとって死活問題と考えた若干の権益を中国において獲得したのである。ほとんどすべての列強が同様の利害関係を西半球の領域内において獲得したのであって、かような列強のすべては右の利権が死活問題になると考えていた。その取得の方法を根源にさかのぼって考えてみると、正しい方法によったものはきわめて稀であるといっても過言ではない」
戦勝国の行為と日本の行為に違いはないとしています。そして、共同謀議という訴因そのものをパール判決文は否定します。
「本審理に提出された証拠に基づいては、本官はそれが起訴状に主張されたように全般的共同謀議の結果であり、またどのような点においても、かような共同謀議の存在を示したものであると言うことはできない。本官の見解では、この点に関する検察側の主張は常軌を逸したものである」
パール判事は検察側の主張を「常軌を逸したもの」とし、完全否定したのです。そして、当時の中華民国の政情不安が日本を大陸進出へと駆り立てる原因になったと述べます。その政情不安とは中国における「内乱および無政府状態」と、「国家的な日貨排斥運動」と、「共産主義の発展」でした。まさにこの理由によってこそ日本は支那に進出せざるを得なかったし、事実、支那に進出した日本軍は平和と静謐を回復させたとしています。
ところが極東軍事裁判所は、日本軍が華北の治安を回復した証拠、ならびにそれ以前の中国の国情が不安定であった証拠をことごとく証拠採用しませんでした。弁護側から提出された証拠がことごとく却下されたのです。これは、いうまでもなくソビエト連邦と中華民国の横ヤリでした。
「弁護側から提出された証拠が却下されたということは、真に不幸なことである」
とパール判決文は述べています。このためパール判事は、英国王立国際問題協会の調査報告を引用して当時の中国の政情を検証しています。
「共産主義と匪賊行為は一九三二年の中国を背景として登場し、力強い双子の役割を演じた。このふたつの苦悩の種は、またたくまにその勢力を増大した。この両者はひとえに無政府状態、内乱および飢饉の結果であった。これらの有力な原因が頑強に存続する限りは、共産主義と匪賊が勢力を増大させるのは必至である」
さらにパール判決文は、検察が証拠採用したリットン報告書を引用し、支那各地で起こった激烈な日貨排斥運動の一端を述べています。
「天津、上海、杭州、蘇州、蕪湖、南京、九江、漢口、宜昌、重慶、沙市、成都、福州、温州および雲南においては反日感情がきわめて熾烈であったように思われるし、現に依然として熾烈である。多くの場合、日本人に雇われていた中国人がその雇主のもとを去り、あるいは日本人が食糧その他の日用品の補給を絶たれ、また日本人がいろいろなかたちの暴行および脅迫を受けた。日本人は安全を求めて避難し、あるいは日本への引き揚げを余儀なくされた。多くの日本人は職を失ったのである」
重要なことは、中国政府が実際に日貨排斥運動を組織化し、奨励していた事実です。このことはリットン報告書にも明記されていました。パール判決文は次のように断じています。
「日貨排斥運動への中国政府の参加はただちに国際法違反ならびに条約規定への違背を構成し得る」
国際法違反と条約違反を、むしろ中華民国側において認定したのです。また、パール判決文は中国の政体の特異性に触れています。
「中国政府の権力の実際の本源が政府になくて党にあったことにリットン調査団は気づいた。その場合、政府はどのような責任を有するものか」
パール判事は困惑を率直に述べています。この困惑は、リットン報告にも記述されていました。
「中国政府と国民党との関係の問題を考慮することを要す。党の責任に関してはなんら疑問点なし。国民党は日貨排斥運動の背後に存する支配的かつ調整的機関なり。国民党は政府の製作者にしてその主人なるやも知れず。いかなる点までが党の責任にして、いかなる点より政府の責任となるかを決定することは憲法上の複雑なる問題にして本委員会は意見を述ぶることを適当なりとは感ぜず」
検察が証拠採用したリットン報告書を巧みに活用することによって、パール判事は、日本が支那に進出せざるを得なかった事情を見事に論じています。
検察側は、日本の指導者が共同謀議の一環として国民を戦争へ導くために様々な洗脳を実施したとしました。なかでも日本の教育を次のように評しています。
「民間なると陸海軍なるとを問わず総て教育制度は、全体主義、侵略戦争に対する熱望、仮想敵に対する残忍と憎悪の精神を注入するに用いられたのである」
なんたる偏見でしょう。これほどバカバカしい事実認識を検察官は傲然と陳述したのです。これほど日本を馬鹿にした論評はありません。検察官は教育勅語の内容を知らなかったのでしょう。日本が立憲民主国であり、憲法と議会を有していたことを知らなかったのでしょう。日本についての無知を暴露しています。極東軍事裁判なるものの愚劣さがよくわかります。さらに、検察は最終弁論において次のように述べました。
「共同謀議者は、国民に戦争への心理的準備をなさしめ、戦争を必要なりと感ぜしめ、さらにこれを希望するに至らしむることが必要だった。これらの目的は学校教育、宣伝、統制、国民組織などによって達成された」
こうした検察側の妄想的日本観をパール判決文は諭すかのように否定します。
「本官は、これはすべての国に共通な欠陥であると信ずる。あらゆる国が自分の人種こそ他のいかなる人種よりも優秀であるという謬見のもとにあるのである。国際社会において人種的差別が持続される限り、この謬見は実に防御的武器なのである」
戦勝国だって同様じゃないかと言っているのです。戦勝国に対する痛烈な批判です。パール判決文は、トインビー博士の論文を引用して西洋諸国の人種差別こそ非道であると説きます。
「十八世紀、西欧諸侯は海外諸地域の支配をめざして競争した。その結果、英語を話す新教徒が勝利した。彼らは原始的諸民族が居住し、かつ欧州人の植民に適した諸国の最大部分を獲得した。そればかりでなく、欧州文明に対して抵抗する力の無かった諸国の大部分をも獲得した」
大英帝国によるインド支配を実際に知っているパール判事でなければ引用できなかったでしょう。さらにパール判決文はトインビー博士を引用しつづけます。
「西洋人の目に映る土人というものは、歩む樹木または野生の動物でしかない。要するに現地の動植物としか見ておらず、土人にも人間としての感情があると思わない。土人を人間圏外のものと見ることによって西洋人は土人の人権を無視して差し支えないと考えた」
こうした西洋人の人種偏見に日本も悩んでいました。パール判決文は、第一次大戦後のパリ講和会議において日本が人種差別撤廃条項を提案した事実に触れます。
「各国民均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるにより、締盟国はなるべくすみやかに連盟員たる国家におけるいっさいの外国人に対し、いかなる点についても均等公正の待遇を与え人種あるいは国籍の如何により法律上あるいは事実上なんら差別を設けざることを約す」
このように牧野伸顕次席全権が提案したのに対し、大英帝国とアメリカ合衆国が反対したのです。この歴史的事実を記述したパール判決文は、あたかも戦勝国に反省を促しているかのようです。パール判事は、判決文にはふさわしからぬ希望さえ書き込んでいます。
「本官は、人々とともに、第二次世界大戦を機として人種的感情が一掃され、すべての人の心が謙譲になり、人種平等の尺度に基づいて物事を考えることができるようになることを望み、そうなると信じたい」
パール判決文の論点は日米関係に移ります。検察は東條英機内閣を共同謀議の集団と断定し、東條英機総理大臣をその首魁と決めつけ、開戦の決断を成した政治指導者として糾弾しました。パール判事は検察側および弁護側の証拠を精査し、次のように検察の判断を否定しています。
「東條総理の決心の基礎をなしたところの結論、すなわち当時の日米間の紛議をもって調整不可能であるとなした結論が、はたして間違いのないものであったかどうかを調べてみる必要はない。なぜなら、一九四一年七月という時点において合衆国政府が日米問題の調整は不可能であるとの決定に到達していたことを証拠が明確に示しているからである」
つまり、日米間の紛争調整を先に放棄したのは日本ではなくアメリカだったとパール判事は認定したのです。そして、東條英機の名誉を重んじるような記述を加えています。
「このような非常時に際しては、東條のような地位にあった人ならば、だれもが決断に到達すべきであり、かつ勇気をもって自己の信念に確信をもつのが当然である。その後につづいて起こったことは、ことの成り行きとして当然におこったことである。それらの出来事が、なんらかの意図によって為されたものであるとは考えられない。東條は事態の進展に伴い、求められれば全責任をその双肩に担う覚悟は充分に有していたかも知れないが、権力を掌中に収めようなどとは決して意図しなかった。当時の日本は、ある人もしくは一群の人々にとって、権力が重要な価値を有するような時ではなかった。それはまさに日本の死活の時であった。それは国家としての日本の存在自体が深刻な危険にさらされていた時なのである。要職にあった政治家はあげて国家の名誉を傷付けずに滅亡から免れる方法を見出すのに頭を悩ましていた。このような重大時期においては、政治家は権力の把握に身をやつしてなどはいられない」
さらにパール判決文は、検察側の底意を見抜き、戦勝国に一撃を加えています。
「検察側の証拠にある陳述は、多少行き過ぎの感あり、おそらくはヒットラーの一件と関連をもたせようと意図していると思われる」
検察は、日本が戦争準備を整えていた事実を上げ、日本が戦争を開始したという事実と考え合わせて、その準備は侵略行為のためであったと推断しました。しかし、戦争準備というならアメリカこそがやっていたのです。日本の二十倍を超える国力をもって大々的な戦争準備をしていたのはアメリカです。その点をパール判決文は指摘し、「本官としては、検察側の主張を承認できない」としました。
検察は、日独伊防共協定をもって全体主義諸国による侵略戦争準備の共同謀議であると妄断しました。しかし、パール判事は検察側の見解を否定し、共産主義に対する恐怖について論じます。
「共産主義を恐れ、またかような恐怖をソビエト社会主義共和国連邦と結びつけたのは、あえて日本の軍国主義者だけではなかった。合衆国でさえ、その恐怖から逃れることができず、一九三三年十一月まで、ソビエト連邦に承認を与えなかったことを我々は知っている」
実際、アメリカの政治指導者は共産主義を危険視していました。例をあげれば次のとおりです。
「わが国の諸制度に反対し、これに対して結束して謀略をめぐらす政府、また危険な反乱の煽動者となるような外交官をもって代表されている政府を承認したり、これと外交関係を結んだり、あるいはその代表者に友好的な待遇を与えることはできない」(ウイルソン米大統領)
「ソビエト連邦は、わが国の諸制度を覆滅させようとする宣言をおこなった」(ヒューズ米国務長官)
「ソビエト連邦は、全世界の現存する政治経済社会の秩序を転覆させようとし、その目的に従ってほかの諸国に対する自らの行動を規定することが自己の使命であると考えている集団である」(ケロッグ米国務長官)
アメリカでさえ共産主義国家ソビエトに恐怖を感じていたのです。日本の恐怖はそれ以上でした。パール判決文は、中国への共産主義の浸透が日本の脅威であったとの判断を示しています。
「共産主義は中国において広大な地域に排他的行政権を行使し、組織と実力のある政治勢力になっていた。そして、中国共産主義者らは、ある程度までロシアの共産主義に従属していた。ロシアと中国の共産党が手を握り合うことは重大事であった。世界全体がこれを恐れていたとするならば、日本の政治家も同じくこれを恐れるのは当然であり、日本が共産主義に対処する手段を講じたことを非難すべき理由を見出すことができない。いずれにしても今日でさえ反共同盟の話題が全世界に響きわたっていることを思えば、われわれは何ゆえに日本の防共協定に侵略的意義を求めなければならないのであろうか」
そして、論点は日独伊三国同盟へと移ります。お定まりのように検察は三国同盟を共同謀議だと認定しました。ですがパール判決はこれを認めません。
「証拠書類が検察側の主張を裏書きしないことは明らかである」
検察は、日独伊三国同盟に秘密協定が付属していたことをもって陰謀であると認定しましたが、パール判事は見事に反論しています。
「かような同盟に関連して秘密協定が付属することは、同盟の目的が邪悪であることを必ずしも意味しない。秘密協定は普通に政治と結びついている。それは権力政治の本来の要素である。連合国間にも秘密条約、秘密協定もしくは秘密約定が存在する。日本とソ連とが外面的には友好国関係を維持していたあいだに、スターリンが対日戦争参加を企て、連合国と秘密約定した証拠が本法廷に提出されている」
笑うべきことですが、ソ連のゴルンスキー検事は「日本がソビエト連邦を侵略した」と主張しました。これをパール判事は一蹴します。
「ソビエト連邦に関する限り、日本はその戦争期間を通じて、ソ連に対してはいかなる侵略的手段をもとらなかったのである」
検察側の主張した共同謀議の計画とは次のような荒唐無稽なものでした。
「大東亜に日本の新秩序を建設するためにアジア大陸において強固な足場を獲得し、南洋に進出するという一九三六年の計画、ならびに中国における戦闘を越えた全面的戦争準備は、日本の侵略計画が中国国境にて止まらなかったことをあきらかにするものであります。共同謀議の計画は、中国の広大な領土の支配のみならず、東亜の他の部分および南西太平洋の支配をも企てていたのであります」
これは妄想のストーリーです。まるで「仮面ライダー」に出てくる悪の組織「ショッカー」の地球侵略計画です。こんなものを欧米白人たちは大まじめな顔をしてでっち上げていたのです。これほどまでに幼稚でバカらしい訴因のために被告たちは処刑されました。
検察は、歴史的事実を時系列的に列挙して、そのことごとくが共同謀議による侵略計画の段階であったと説きました。児戯に類するストーリーです。検察官たちは、よくぞ笑いもせず、恥ずかしいとも感じずに陳述できたものです。こうした虚構の検察側主張をパール判決文は歯牙にもかけていません。
「本官の意見では、証拠は、予測されなかった出来事が発展してきたことを明示している」
計画も謀議もないということです。予測不可能だったのです。検察の提出した証拠群は、次々に発生する出来事に日本政府が右往左往し、しだいに追いつめられていく様子をこそ明らかにしていました。
そして、いよいよアメリカ合衆国が日本の前に立ちはだかります。アメリカは支那事変に介入して蒋介石を全面的に支援していました。それのみならず義勇軍を編成して支那大陸に送り込み、日本軍と戦闘さえさせていました。通商面では対日禁輸措置を徐々に強化していき、日米通商航海条約を廃棄さえしました。ついに日本は在米資産を凍結され、石油の輸入も途絶しました。こうしたアメリカの措置にイギリスとオランダが追随しました。この経緯を踏まえてパール判決文は言います。
「終局的に起こった太平洋戦争については、日本ははじめから何等これを企図していなかったことが明瞭に示されている」
そして、重要な指摘をします。
「日本がこの終局における衝突を常に回避しようとしていたことについては明白な証拠が存する」
この点、パール判決文は検察側の立証を完全に否定しています。検察によれば、日本は共同謀議にもとづく侵略戦争を実施するため、対米交渉においてはまったく譲歩しなかったことになっているのです。しかし、パール判事の判断は正反対です。
「本官は、交渉の全過程にわたって、提出された日本側提案中に不誠意に帰し得べきただのひとつの例をも見出すことができない。日本は三国同盟の変更あるいは中国からの撤兵に関する意向についてなんら欺瞞的であるとか偽善的なことを言ったことは一度もない。日米交渉は決裂した。決裂したことは遺憾である。しかし、すくなくとも日本側において、すべてのことは誠意をもってなされたようであり、本官はそのいずれのところにおいても欺瞞の形跡を発見することができない」
パール判事はむしろアメリカ政府の態度にこそ謀略の臭いを嗅ぎとり、そのことを婉曲に書いています。
「もし交渉が、当事者の準備の時間を稼ぐ目的だけに図られたと見なし得るならば、時間を稼いだのは日本ではなく、米国であったと言わざるを得ない。両国のそれぞれの資源を思い出してみれば、日本は時間の経過によって得るものは何もなかった」
昭和一六年十一月二十六日付のハル覚書について論ずるため、パール判決文はアメリカの歴史家アルバート・ジェイ・ノックの言葉を引用します。
「今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも合衆国にたいして戈をとって起ちあがったであろう」
そのうえでパール判事は自身の見解を次のように述べています。
「本官の所信によれば、侵略は必ずしもいつでも容易にそれと識別することのできるものではない」
じつに意味深長な一文です。
「日本はアメリカとの衝突を避けようと全力をつくしたけれども、次第に展開してきた事態のために、万やむを得ずついにその運命の措置をとるに至った。このことは、証拠に照らして本官の確信するところである」
真珠湾攻撃についてのパール判事の判断は次のとおりです。
「日本がハワイを攻撃しようとしていた事実について、アメリカが事前知識を持っていたことは、いまや証拠によって充分に立証されている。アメリカは、どの地点が最初の攻撃目標となるかについて知らなかっただけである。たとい日本側に背信的企図があったとしても、その企図は失敗に帰した。アメリカは事前知識を持っていたのである。ゆえに結果として生じた戦争行為は、それが遂行されたときには交戦行為であった」
ハワイ駐屯アメリカ軍にとっては奇襲でしたが、アメリカ政府中枢つまりルーズベルト大統領やハル国務長官にとっては奇襲でも何でもなく、予定どおりの展開だったのです。
パール判事の判決文はきわめて長文にわたりますが、その結論は次の一文によって了解出来るでしょう。
「本官は、各被告はすべて起訴状中の各起訴事実全部につき無罪と決定されなければならず、またこれらの起訴事実の全部から免除されるべきであると強く主張する」
パール判決文の最後は、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスの言葉でしめくくられています。
「時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面をはぎとった暁には、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」
アメリカ連合国とは、南北戦争時の南軍側政府です。パール判事はアメリカ合衆国に対して痛烈な皮肉をかましたといえるでしょう。
残念ながら、パール判決文は法廷において朗読されませんでした。それどころか、日本国民に対しては厳重に隠蔽されました。占領中、日本国民はパール判決をまったく知りませんでした。昭和二十七年、日本はようやく主権を回復しましたが、このときを待ってパール判決文の存在を日本国民に知らしめたのは田中正明という人物です。
戦後七十年以上が経過して、たしかに熱狂と偏見はやわらぎました。ただし、理性は虚偽からその仮面をはぎとってはいないようです。正義の女神はまだ現れていません。秤は平衡を保っていません。いまなお極東裁判における検察側の起訴状が戦後日本の正統史観となっているのです。これに対する歴史修正史観はまだまだ劣勢です。




