『Les femmes qui complotent 企む、女たち』第五話
第五話 満席という名の、もうひとつの台本
東京芸術劇場。
オーディション会場には、八人の女がいた。
富士やよい。
天野ユリ。
田所マナミ。
澤ユキノ。
倉木リカコ。
霜田キコ。
そして、朝倉莉子と白石芽衣。
八人の手元には、同じ台本がある。
『女という名の業』。
ミシェル・サウンは、彼女たちを順番に見渡した。
その視線には、昨日までとは少し違うものがあった。
演技を見極める目。
人間を見抜こうとする目。
そして、まだ誰にも明かしていない計算をしている目。
「では、始めましょう」
ミシェルが言った。
「昨日、皆さんにお願いしたのは、同じ場面を、違う女として演じることでした。今日は、そこから一歩進みます」
彼女は台本を開いた。
「オリエが十年ぶりに東京へ帰ってきた夜。夫のジュンと再会し、彼の口から、自分が知らなかった十年間を聞かされる場面です」
富士やよいが、静かにうなずいた。
天野ユリは、台本の該当箇所に視線を落とす。
倉木リカコは、口元に薄い笑みを浮かべていた。
霜田キコは、まだ何も表情に出していない。
「ただし、今日は一つ、条件を加えます」
ミシェルは、全員を見た。
「泣かないでください」
田所マナミが顔を上げた。
「泣いてはいけない?」
「はい」
「オリエが傷ついている場面ですよね?」
「そうです」
「それなのに?」
「それなのに、です」
ミシェルは、少しだけ笑った。
「泣くことは、観客に感情を伝える方法の一つです。でも、泣くことだけが感情ではありません。声が震えなくても、息が乱れなくても、人は深く傷つくことがあります」
彼女は台本を閉じた。
「そして、これは朗読劇です。舞台装置はありません。観客に見せるための家も、窓も、夜景もない。皆さんが声にしなければ、東京の夜さえ存在しないのです」
部屋が静かになった。
「だからこそ、言葉を急がないでください。沈黙を怖がらないでください。何も言わない時間に、何が起きているのか。それを聴かせてください」
ミシェルは、最初の候補者を見た。
「富士さん。お願いします」
*
やよいの声は、最初の一言から落ち着いていた。
「……十年、ね」
その三文字の後に、わずかな間があった。
「長かったでしょう、ジュン」
彼女は続けた。
「あなたも、私も」
夫の告白が始まる。
ジュンは、この十年間、オリエを待っていただけではなかった。
彼女の帰りを信じることも、彼女のいない人生を生きることも、どちらもできなかった。
そして、ある若い男と出会った。
自分が何者なのかを、もう隠し続けられないと知った。
ジュンの台詞が終わる。
やよいは、すぐには答えなかった。
息を吸う。
ほんの少し、止める。
「……そう」
それだけだった。
ミシェルは、目を細めた。
やよいのオリエは、夫の告白を理解しようとしていた。
怒りよりも先に、理解しようとしている。
それは美しい。
だが、ミシェルには一つ、気になることがあった。
この女は、あまりにも早く、理解することができてしまう。
理解できることと、許せることは違う。
許せることと、傷つかないことも違う。
その境界が、もう少し聴きたかった。
「ありがとうございます」
ミシェルは言った。
やよいは台本を閉じた。
「次は天野さん」
*
ユリは、ジュンの告白を聞き終えた後、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに口を開く。
「あなたは、私を愛していたのね」
一拍。
「それは、嘘じゃなかった」
もう一拍。
「でも、あなたは、私の知らないあなたを生きていた」
ミシェルの指が、台本の端で止まった。
ユリは、決して泣かなかった。
声を荒らげることもなかった。
ただ、言葉と言葉の間に、説明されない時間を置いた。
「私は……」
彼女は、そこで言葉を切った。
次の一言が、すぐには出てこない。
その沈黙には、怒りがあった。
悲しみがあった。
それ以上に、今まで信じていた自分の人生を、もう一度読み直さなければならない女の戸惑いがあった。
「私は、あなたのことを、知っているつもりだった」
最後の一言は、ほとんど独り言のようだった。
ユリが台本を閉じる。
ミシェルは、しばらく黙っていた。
「ありがとうございます」
そして、次の候補者を指名する。
*
マナミのオリエは、告白を聞いた瞬間、言葉を失った。
だが、その沈黙は長くなかった。
「……どうして、言ってくれなかったの」
声に、かすかな熱があった。
「どうして、十年も」
彼女は、ジュンを責めている。
けれど、その声の奥には、別の問いが隠れていた。
十年もの間、自分が帰る場所だと思っていたところは、本当に帰る場所だったのか。
夫が待っていると信じた自分は、何を信じていたのか。
マナミは、最後の台詞を言い終えると、長く息を吐いた。
ミシェルはうなずいた。
「ありがとう。次は澤さん」
ユキノは、ジュンの告白を最後まで聴いた。
そして、こう言った。
「あなたが、あなた自身を偽って生きることは、もうできないのね」
その声には、責める響きがなかった。
だからこそ、次の言葉が痛かった。
「でも、私は、あなたと生きてきた十年を、どうすればいいの?」
ユキノの声は、最後まで崩れなかった。
それでも、最後の疑問符だけは、どこにも着地しなかった。
リカコは、少し違った。
彼女は、ジュンの告白の後、短く笑った。
乾いた笑いだった。
「……なるほど」
その一言に、十年間の疲労と、理解できないものへの怒りと、ようやく見えた真実への苦さが混ざっていた。
「あなたは、私を裏切ったのね」
彼女は、すぐに続けた。
「でも、あなたが誰を愛する人なのか、それだけで、あなたを責めるつもりはないわ」
わずかな沈黙。
「私が許せないのは、あなたが私に何も知らせず、私の人生まで、あなたの秘密の一部にしてしまったことよ」
ミシェルは、初めて少し身を乗り出した。
キコは、最後まで、ほとんど声の調子を変えなかった。
「あなたは、あなたの人生を生きなければならなかった」
静かな声だった。
「私も、私の人生を生きなければならなかった」
そこで、間が空いた。
「私たちは、そのことを、十年かけて、ようやく知ったのね」
その言葉には、諦めがあった。
しかし、諦めだけではなかった。
もう一度生き直すために、何かを手放そうとする女の声だった。
六人の演技が終わった。
ミシェルは、すぐには感想を言わなかった。
誰が一番よかったのか。
誰がオリエに近いのか。
そんなことを、簡単に口にするつもりはなかった。
「皆さん、ありがとうございます」
彼女は言った。
「同じ台詞なのに、六人のオリエがいました」
リカコが、にやりと笑った。
「監督。それは、褒め言葉ですか?」
「もちろん」
「では、誰が一番?」
「まだ言いません」
「意地悪ねえ」
「演出家ですから」
会場に笑いが起きた。
やよいも笑った。
ユリは肩をすくめた。
マナミは、ほっとしたように台本を置いた。
そのときだった。
「私も、もう一度やっていいですか」
莉子だった。
全員の視線が、若い女優に集まった。
莉子は、少し緊張していた。
それでも、視線をそらさなかった。
「さっきの場面、もう一度やってみたいんです」
ミシェルは尋ねた。
「何を変えるの?」
「オリエは、ジュンを理解しようとすると思います。でも、理解しようとすることを、少しだけやめてみたいんです」
「どうして?」
「理解しようとしたら、きっと、彼をかばってしまうから」
莉子は台本を見た。
「彼が苦しんでいたことは分かる。でも、私も苦しかった。そこを、同じくらい大切にしたいんです」
誰も、すぐには口を開かなかった。
ミシェルがうなずく。
「やってみて」
莉子は、ジュンの告白を聞いた。
そして、長い沈黙の後、言った。
「……あなたが苦しかったことは、分かったわ」
一拍。
「でも、それで、私の苦しみがなくなるわけじゃない」
もう一拍。
「私を愛していたことと、私を置き去りにしたことは、別の話よ」
莉子は、それ以上、何も言わなかった。
声は震えていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、最後の沈黙に、彼女がまだ言葉にできないものが残っていた。
ミシェルは、台本を見た。
そして、莉子を見た。
「ありがとう」
その声は、先ほどまでより、少し低かった。
*
「では、芽衣さん」
芽衣は、台本を両手で持った。
彼女が演じるのは、オリエがジュンに離婚届を渡す場面だった。
長い旅の終わり。
帰ってきた女が、もう戻れない場所を知る場面。
芽衣は、台詞をゆっくりと読んだ。
「あなたを、嫌いになれたらよかった」
そこで、少し間が空いた。
「そうしたら、もっと簡単だったのに」
彼女は、ジュンへの言葉を続けた。
「でも、あなたを嫌いになるために、あなたの人生を否定したくはない」
息を吸う。
「私も、あなたも、これからは、自分の人生を生きましょう」
最後の台詞を言い終えた後、芽衣は顔を上げた。
「……以上です」
ミシェルは、しばらく芽衣を見つめていた。
「芽衣さん。あなたは、この場面をどう考えたの?」
芽衣は、少し考えた。
「オリエは、ジュンを許したんじゃないと思います」
「では、憎んでいる?」
「それも、違うと思います」
「どうして?」
「だって、許すか、憎むか。それだけで決めたら、ジュンの人生が、オリエのためだけにあることになってしまうから」
芽衣は、少しだけ言い直した。
「オリエは、自分の人生を取り戻すんだと思います。ジュンをどう思うかとは別に」
ミシェルは、台本を閉じた。
そして、ゆっくりと言った。
「ありがとう、芽衣さん」
その言葉には、演技への評価以上のものが含まれていた。
芽衣は、まだ学生だった。
大きな舞台を経験しているわけでもない。
観客を呼べるスターでもない。
それでも、彼女は、物語の中心にある問いを見つけていた。
ミシェルは、それを見逃さなかった。
*
休憩時間。
用意された茶を飲みながら、八人の女たちは、それぞれの時間を過ごしていた。
やよいは、ユリと何かを話している。
マナミは、莉子に台本の読み方について尋ねられ、丁寧に答えていた。
ユキノは、芽衣の隣に座り、先ほどの台詞について静かに話している。
リカコは、キコに顔を寄せた。
「ねえ。あなた、どう思った?」
「何が?」
「莉子ちゃんよ」
キコは、茶を一口飲んだ。
「面白いと思ったわ」
「でしょう?」
「でも、面白いことと、主演にふさわしいことは、同じじゃない」
リカコは笑った。
「そうよね。私たち、そこを忘れちゃいけないわ」
その言葉を、ミシェルは少し離れた場所で聞いていた。
彼女は、手元の資料に視線を落とした。
そして、次の瞬間。
会場の扉が開いた。
入ってきたのは、制作プロデューサーだった。
彼は、ミシェルのそばに立ち、手にしていた資料を机に置いた。
「少し、お時間をいただけますか」
「もちろん」
プロデューサーは、八人の女優を見た。
それから、ミシェルに向き直った。
「そろそろ、芸術的な話だけでは済まなくなります」
ミシェルは、黙って聞いていた。
「今回の公演は、東京芸術劇場コンサートホール。私たちの計画では、一日一公演、十四日間です。最終日はJCBカード会員向けの貸切公演」
彼は、資料を開いた。
「一公演あたり、想定座席数は一九九九席」
ミシェルは、すぐに答えた。
「十四日間で、二万七千九百八十六席」
「そうです」
プロデューサーは、うなずいた。
「もちろん、関係者席などで実際に販売できる数は変わります。しかし、私たちが目指す規模は、そのくらいです」
彼は、少し間を置いた。
「予約販売で、早期完売を狙いたい」
ミシェルは、資料を見なかった。
「つまり、スターが必要だと?」
「スターだけではありません。作品の評判、宣伝、価格設定、販売計画。すべてが必要です。ただし、どれほど素晴らしい朗読劇でも、観客がその作品を知らなければ、チケットは売れません」
「分かっています」
「ならば、率直に申し上げます」
プロデューサーは、声を落とした。
「この八人の中から、演技力だけで主演を決めるわけにはいきません」
会場の空気が、変わった。
莉子が、台本を持つ手に力を入れた。
芽衣は、黙ってプロデューサーを見ていた。
ベテラン女優たちは、誰も口を挟まなかった。
「私たちは、観客に来てもらわなければならない。JCBとの協業もあります。会員向けの販売施策、告知、インタビュー、出演者による広報活動。契約の範囲内で、できることを組み立てる必要があります」
プロデューサーは、ミシェルを見た。
「そのためには、出演者自身に、人を呼ぶ力が必要です」
ミシェルは、ゆっくりとうなずいた。
「では、あなたは、誰を選ぶのですか?」
「私が選ぶのは、売れる名前だけではありません」
プロデューサーは答えた。
「ただ、売れない名前だけで公演を成立させることもできない。それが、私の仕事です」
ミシェルは、初めて微笑んだ。
「いい答えです」
「ありがとうございます」
「でも、一つだけ、私からも言わせてください」
ミシェルは、資料を閉じた。
「スターを二人並べれば、必ず満席になるわけではありません」
「承知しています」
「名前でチケットを買った観客が、終演後に、来てよかったと思わなければならない。声だけで物語を届ける朗読劇です。舞台装置も、豪華な衣装も、俳優の表情を遠くから見せる仕掛けもありません」
彼女は、八人を見渡した。
「あるのは、声と言葉と、沈黙だけです」
そして、プロデューサーに視線を戻した。
「だから、私は、スターを探します。けれど、スターという理由だけで選ぶつもりはありません」
「では、どうするのです?」
ミシェルは、静かに答えた。
「二人の主演候補を、考えています」
誰かが、息を呑んだ。
「ダブルキャストですか?」
「可能性の一つです」
ミシェルは、まだ決定ではないと強調するように言った。
「ただし、片方を本命、もう片方を代役にするつもりはありません。二人とも、それぞれのオリエを生きられる人でなければ意味がない」
プロデューサーは、少し考えた。
「二人とも、観客を呼べる女優である必要がありますね」
「そうです」
「そして、二人とも、この作品を成立させられる」
「そうです」
「簡単ではありませんよ」
「簡単な仕事なら、あなたも私も、ここにはいないでしょう」
リカコが、小さく吹き出した。
「監督、なかなか言うわね」
「本当のことですから」
笑いが起きた。
しかし、その笑いは、すぐに静まった。
プロデューサーが、資料をもう一度開いたからだ。
「それならば、次の審査では、もう一つ確認したいことがあります」
「何ですか?」
「出演者が、作品の宣伝を担えるかどうかです。インタビューに応じる。作品について自分の言葉で話す。観客に、なぜこの舞台を観るべきなのかを伝える」
彼は、莉子と芽衣を見た。
「若いお二人にも、機会を与えるべきだと思います。ただし、それは、主演に選ぶという意味ではありません」
莉子は、うなずいた。
芽衣も、うなずいた。
ミシェルは、二人を見てから、プロデューサーに答えた。
「異論はありません」
そして、彼女は、八人の女たちに向き直った。
「次回は、皆さんに同じ質問をします」
やよいが尋ねた。
「演技ではなく?」
「演技もです。でも、それだけではありません」
ミシェルは、ゆっくりと言った。
「あなたは、なぜ、オリエを演じたいのですか?」
誰も、すぐには答えなかった。
「そして、もし観客から、なぜこの作品を観るべきなのかと尋ねられたら、あなたは何と答えますか?」
沈黙。
今度の沈黙は、台本の中のものではなかった。
八人の女たちは、それぞれ、自分自身の答えを探し始めていた。
スターとしての自分。
俳優としての自分。
一人の人間としての自分。
その三つは、必ずしも同じではない。
ミシェルは、彼女たちの顔を見つめた。
そして、心の中でつぶやいた。
――観客は、あなたたちの名前を買う。
――けれど、最後まで耳を傾けるかどうかは、あなたたちの声にかかっている。
興行という名の現実。
芸術という名の理想。
その二つの間に、まだ誰も知らないオリエが立っていた。
彼女は、十年間、帰る場所を探していた。
そして今、八人の女たちが、その場所を探し始めていた。
満席という名の、もうひとつの台本。
それは、まだ、誰の手にも渡っていなかった。




