『Les femmes qui complotent 企む、女たち』第四話
第四話 無名の女優
東京芸術劇場のリハーサル室には、妙な静けさが漂っていた。
六人の女優たちは、先ほどまで同じ台詞を演じていた。
同じ脚本。
同じ役。
同じ相手役の名前。
それなのに、舞台の上に現れたオリエは、演じる女優によってまるで別の人間になった。
富士やよいは、帰還を信じる女。
天野ユリは、帰還を疑わない女。
田所マナミは、帰還することを自分に言い聞かせる女。
澤ユキノは、帰還という言葉の中に、すでに喪失を感じている女。
倉木リカコは、帰還を当然の権利として要求する女。
霜田キコは、帰還したあとに何を失うのか、まだ知らない女。
ミシェル・サウンは、六人の顔を順番に見た。
「ありがとう。ここまでで、皆さんの違いは十分に見えました」
十分。
その言葉に、何人かの女優がわずかに反応した。
十分、とは何に対して十分なのか。
六人全員が合格水準に達したという意味か。
それとも、六人の違いを確認する作業が終わったという意味か。
演出家の言葉は、時として、沈黙よりも多くの疑問を生む。
ミシェルは手元の資料を閉じた。
「それでは、次の審査に移ります。その前に、一つ、お伝えしておくことがあります」
女優たちの視線が集まった。
「ジュン役については、すでに配役が決定しています」
部屋の空気が、ほんの少しだけ動いた。
「嶋田トシアキさんです」
富士やよいが、ゆっくりと頷いた。
「なるほど。もう決まっているのね」
「はい」
「ということは、今日はオリエ役の審査に集中できるわけね」
倉木リカコが、笑顔で言った。
その笑顔は、いかにも物分かりがよかった。
物分かりがよすぎた、と言ってもいい。
「そういうことです」
ミシェルは淡々と答えた。
天野ユリが腕を組んだ。
「嶋田さんがジュンなら、相手役との呼吸も大切になるわね」
「もちろんです」
「ジュンは、ただの夫ではないものね」
その言葉に、澤ユキノが小さく頷いた。
ジュンは、オリエが十年かけて帰ってくる場所にいる男だ。
待っている男であり、待ちきれなかった男でもある。
愛していた男であり、愛し続けることだけでは自分を守れなかった男でもある。
そして、オリエが帰ってきたとき、彼は彼女の知らない十年を生きている。
その十年を、どう演じるのか。
六人の女優たちは、すでにそれぞれのジュンを想像していた。
「それから」
ミシェルは、扉のほうを見た。
「本日の審査には、若手女優と、演劇を学んでいる学生にも参加してもらいます」
今度の沈黙は、先ほどよりも明確だった。
田所マナミが、手元の台本を置いた。
「学生さんも、ですか?」
「ええ」
「この役の審査に?」
「この役の審査です」
ミシェルは、同じ言葉を繰り返した。
「経験年数を審査するのではありません。オリエを演じる可能性を見ます」
倉木が、口元に手を当てた。
「まあ、楽しみね」
そう言ってから、彼女は小さく咳払いをした。
「こほん」
誰も反応しなかった。
倉木は、もう一度咳払いをした。
「こほん、こほん」
今度は富士やよいが彼女を見た。
「風邪?」
「いいえ。少し喉がね」
「大切にしないと。オーディションの最中に声が出なくなったら大変だもの」
富士は心配そうな顔をした。
心配そうな顔をすることにかけて、富士は経験豊富だった。
「ありがとう。気をつけるわ」
倉木が微笑んだ。
その瞬間、天野ユリがくしゃみをした。
「ハクション!」
見事な一発だった。
演技としてなら、かなり自然である。
「失礼」
天野はティッシュを取り出した。
田所マナミが、すかさず言った。
「花粉かしら?」
「この季節に?」
「何かのアレルギーということもあるでしょう」
「そうね」
天野は鼻を押さえながら、平然と答えた。
「若い才能に対するアレルギーでなければいいけれど」
一瞬、誰もが黙った。
そして澤ユキノが、思わず吹き出した。
「ちょっと、ユリさん」
「何?」
「それ、わざと言っているでしょう」
「くしゃみは自然現象よ」
「咳払いも?」
澤が倉木を見た。
「もちろん」
倉木は涼しい顔で答えた。
「女優は、いつだって自然に見えるものなの」
その一言で、部屋の空気がようやく緩んだ。
ミシェルだけは笑わなかった。
彼女は六人のやり取りを見ていた。
誰が緊張しているのか。
誰が余裕を演じているのか。
誰が他人の出方を探っているのか。
そして、誰が自分の行動を、まだ演技だと認めていないのか。
女優たちは舞台の上だけで演じるわけではない。
待合室でも、廊下でも、審査員の前でもない場所でも、彼女たちは演じる。
ただし、そこには台本がない。
だからこそ、面白い。
「では、最初の参加者をお願いします」
スタッフが扉を開けた。
入ってきたのは、二十代半ばの女優だった。
朝倉莉子。
テレビドラマでは脇役をいくつか経験し、小劇場の舞台では主演も務めている。知名度はまだ高くないが、演技力を評価する演出家の間では、少しずつ名前が知られ始めていた。
黒いパンツスーツ。
飾り気のない白いブラウス。
髪は後ろでまとめている。
彼女は六人の先輩女優を見て、深く頭を下げた。
「朝倉莉子です。本日はよろしくお願いいたします」
「どうぞ、座って」
ミシェルが椅子を示した。
莉子は座った。
背筋が伸びている。
緊張しているのは明らかだった。しかし、緊張を隠そうとして笑顔を作ることはしなかった。
「この作品について、どう思いましたか?」
ミシェルが尋ねた。
莉子は少し考えた。
「最初は、強い女性が、さまざまな困難を乗り越えて帰ってくる話だと思いました」
「今は?」
「強い女性が、帰ってきたあとに、もう一度、自分の人生を選び直す話だと思っています」
ミシェルの目が、わずかに細くなった。
「なぜ、そう思ったの?」
「十年も帰れなかった人が、ようやく家に戻ってきたのに、そこが以前と同じ場所ではなくなっているからです」
莉子は、膝の上で手を重ねた。
「帰ることが目的だったのに、帰った瞬間に、別の選択を迫られる。そこが、この役の一番怖いところだと思いました」
富士やよいが、初めて莉子を正面から見た。
倉木リカコは、台本の端を指で叩いていた。
ミシェルが言った。
「では、電話の場面を演じてください。ジュンに連絡する場面です」
「はい」
「相手の台詞はこちらで読みます」
ミシェルはスタッフに目配せし、ジュンの台詞を読み始めた。
「もしもし?」
莉子は、台本を見なかった。
「ジュン。聞こえる?」
「聞こえるよ。どうした?」
「ロサンゼルス。明日の便に乗れそうなの」
「本当か?」
莉子は笑った。
ほんの少しだけ。
「うん。まだ、いくつか片づけなきゃいけないことはあるけれど」
「無理をするなよ」
「してないわ」
その返事は、強がりにも、甘えにも聞こえなかった。
ただ、相手を安心させたい人の声だった。
「帰ったら、話したいことがある」
ミシェルが、ジュンの台詞を続けた。
「どんな話?」
莉子は、そこで初めて言葉を止めた。
台本には、次の台詞がある。
しかし彼女は、すぐには口を開かなかった。
「……帰ってから話す」
「莉子さん」
ミシェルが声をかけた。
「はい」
「今、何を考えたの?」
莉子は、少し困った顔をした。
「ジュンに、話したいことがあると言ったら、きっと彼も何か話したいことがあるんじゃないかと思って」
「それで?」
「だから、聞きたくなったんです。でも、電話では聞かなかった」
「どうして?」
「声だけで聞くのが、怖かったからです」
室内が静かになった。
莉子は、慌てて付け加えた。
「すみません。台本の解釈から離れてしまったかもしれません」
「いいえ」
ミシェルは首を振った。
「離れていないわ。あなたは、オリエがまだ知らないことを、知っているふりはしなかった。ただ、何かが変わる予感を持たせた」
それから、少し間を置いた。
「その予感を、最後まで信じていた?」
莉子は答えなかった。
いや、答えられなかったのかもしれない。
「ありがとう。次の方をお願いします」
莉子は立ち上がり、六人に向かって頭を下げた。
扉へ向かう直前、天野ユリが声をかけた。
「朝倉さん」
「はい」
「本番でも、その沈黙を使うつもり?」
莉子は振り返った。
「わかりません。今日、ここで初めて出てきたものなので」
「そう」
天野は笑った。
「それなら、忘れないほうがいいわね」
莉子はもう一度頭を下げて、部屋を出た。
扉が閉まった。
「なかなか、いいわね」
澤ユキノが言った。
「ええ」
霜田キコも頷いた。
だが倉木リカコは、まだ台本を見ていた。
「沈黙は便利よね」
彼女は言った。
「台詞を言わなくても、何かを表現したように見える」
「リカコさん」
富士やよいが、静かに呼んだ。
「もちろん、沈黙にも技術は必要よ」
倉木は笑顔を崩さなかった。
「ただ、沈黙しただけで評価されるなら、私たちはずいぶん楽になるわ」
天野ユリが、くしゃみをする代わりに、小さく鼻を鳴らした。
「ハクションは、もういいの?」
「今度は本物が出そうだから、やめておくわ」
「それがいいわね」
ミシェルは、会話を止めなかった。
彼女は六人の反応を見ていた。
若手の演技を評価することと、若手に自分の居場所を脅かされること。
その二つは、必ずしも同じではない。
だが、同じ部屋で起きることはある。
「次の方をお願いします」
扉が開いた。
入ってきたのは、まだ二十歳になったばかりの女性だった。
白いシャツに、少し大きめのジャケット。
手には、使い込まれた台本。
髪は肩のあたりで揺れていた。
「白石芽衣です。大学で演劇を学んでいます。本日はよろしくお願いします」
声が少し震えていた。
彼女は六人の女優を見て、もう一度頭を下げた。
六人は、彼女を見た。
若い。
あまりにも若い。
まだ名前も知られていない。
大きな舞台に立った経験も、ほとんどない。
ここにいる誰もが、彼女より多くの経験を持っていた。
「白石さん」
ミシェルが尋ねた。
「どうして、このオーディションを受けようと思ったの?」
芽衣は、台本を握り直した。
「オリエを演じたいと思ったからです」
「どうして?」
「この人が、帰ってきたあとに、泣くかどうかを知りたいからです」
倉木リカコの指が止まった。
「泣くかどうか?」
ミシェルが聞き返した。
「はい」
芽衣は頷いた。
「十年もかけて帰ってきて、会社も、夫婦の関係も、全部変わっていたら。私なら、泣くと思います」
「あなたなら、ね」
天野ユリが言った。
声は柔らかかった。
けれど、質問の芯は鋭かった。
「オリエも泣くと思う?」
芽衣は、すぐには答えなかった。
六人の視線が、彼女に集まる。
やがて、芽衣は言った。
「わかりません」
霜田キコが、わずかに首を傾けた。
「わからない?」
「はい。私はオリエではないので」
芽衣は、少しだけ顔を上げた。
「でも、泣かないと決めている人が、泣いてしまう瞬間を演じてみたいです」
ミシェルは、椅子の背にもたれた。
「では、最後の場面を演じましょう」
「最後の場面、ですか?」
「ええ。オリエが、ジュンに離婚の書類を渡す場面」
芽衣の表情が変わった。
台本を開く。
何度も読んだ場面だろう。
紙の端が少し丸まっていた。
「相手役は?」
芽衣が尋ねた。
「私が読むわ」
ミシェルが答えた。
「始めて」
芽衣は、ジュンの前に立つオリエを想像した。
十年。
帰るために戦った十年。
帰るために耐えた十年。
帰れば、すべてが元に戻ると思っていたわけではない。
それでも、何かが残っていると信じていた。
その何かが、もうない。
ミシェルが読み始めた。
「これは、離婚の書類だ」
芽衣は、書類を差し出す仕草をした。
「読んで」
「君は、本当にこれでいいのか?」
芽衣は、すぐには答えなかった。
視線を落とす。
それから、ジュンを見る。
「よくないわ」
声が、かすれた。
「よくないに決まっているでしょう」
六人の誰も、動かなかった。
「私は、あなたと帰る家が欲しかった。十年前と同じ家じゃなくてもよかった。家具が変わっていても、壁の色が変わっていても、息子が大きくなっていても」
芽衣は一度、息を吸った。
「あなたが、そこにいてくれたらよかった」
ミシェルは、ジュンの台詞を続けた。
「オリエ……」
「でも、あなたは、もう違う人生を生きている」
芽衣は、書類を握る手に力を入れた。
「私が知らない十年を、あなたは生きた。私がいない場所で、あなたは苦しんで、迷って、それでも自分の人生を見つけた」
そこで、芽衣は顔を上げた。
「それを、私が帰ってきたからって、なかったことにはできない」
声は震えていた。
しかし、涙は流れなかった。
「あなたを憎みたいわ」
芽衣は言った。
「憎んでしまえたら、楽なのに」
長い沈黙。
「でも、私は、あなたの人生まで奪いたくない」
最後の言葉を言ったとき、芽衣の目から涙が一筋だけ落ちた。
彼女は、それを拭わなかった。
演技は、そこで終わった。
誰も拍手をしなかった。
公開オーディションの会場で、拍手が起きないことは、必ずしも悪い意味ではない。
時に、拍手をすることさえ、早すぎる。
芽衣は不安そうにミシェルを見た。
「すみません。少し、感情が入りすぎたかもしれません」
ミシェルは、ゆっくりと首を振った。
「いいえ」
そして、尋ねた。
「白石さん。あなたは今、オリエがジュンを許したと思う?」
芽衣は、目を伏せた。
「わかりません」
「では、憎んでいる?」
「それも、わかりません」
「どうして?」
芽衣は、しばらく考えた。
「許すことと、憎むことだけで、この人の気持ちを決めたくないからです」
ミシェルは、何も言わなかった。
芽衣は続けた。
「オリエは、きっと傷ついていると思います。でも、傷ついたからといって、ジュンの人生を否定したいわけではないと思うんです。自分が帰るために戦ってきたように、ジュンにも、自分の人生を生きてほしいんじゃないでしょうか」
彼女は、言い終えてから、慌てて頭を下げた。
「すみません。生意気なことを言って」
「生意気?」
ミシェルは初めて笑った。
「どうして?」
「皆さんは、すごい女優さんですから」
芽衣は六人を見た。
「私、まだ何もわかっていないので」
富士やよいが、静かに口を開いた。
「何もわかっていない人が、何もわかっていないと言えるのは、悪いことではないわ」
天野ユリが頷いた。
「でも、わからないままで終わらせてはいけない。役を演じるなら、その先まで考えないと」
「はい」
芽衣は、真剣な顔で答えた。
倉木リカコは、まだ黙っていた。
やがて、彼女は台本を閉じた。
「白石さん」
「はい」
「あなた、今の場面で、どうして泣かなかったの?」
芽衣は、驚いたように倉木を見た。
「泣きました」
「最後に一筋だけね」
倉木は言った。
「もっと泣くこともできたでしょう。声を上げて、崩れ落ちることもできた」
「はい」
「どうして、しなかったの?」
芽衣は少し考えた。
「オリエが泣きたかったかどうか、わからなかったからです」
倉木の目が、ほんの少しだけ動いた。
「でも、涙は出た」
「はい」
「それは、どうして?」
芽衣は、困ったように笑った。
「そこは……私にも、まだわかりません」
今度こそ、澤ユキノが笑った。
「正直ねえ」
霜田キコも微笑んだ。
「でも、舞台では、それが一番困ることもあるわね。自分でもわからないものを、毎回出せるとは限らないから」
「はい」
芽衣は頷いた。
「だから、もっと勉強したいです」
ミシェルは、彼女をしばらく見つめていた。
それから、スタッフに言った。
「白石さんの資料を、もう一度確認しておいて」
「はい」
「それから、次の審査にも参加してもらいます」
芽衣が顔を上げた。
「次も、ですか?」
「ええ」
ミシェルは、六人の女優に向き直った。
「皆さんにも、もう一度、同じ場面を演じてもらいます」
富士やよいが、微笑んだ。
「なるほど。学生さんの演技を見たあとで、もう一度」
「そうです」
「なかなか、意地の悪い審査ね」
天野ユリが言った。
「演出家ですから」
ミシェルは平然と答えた。
倉木リカコが、また小さく咳払いをした。
「こほん」
今度は誰も、風邪を心配しなかった。
天野ユリがティッシュを差し出した。
「どうぞ。必要でしょう?」
「何が?」
「若さに対するアレルギーのお薬」
倉木はティッシュを受け取った。
「ありがとう。でも、私のアレルギーは、そんなに簡単には治らないの」
六人が笑った。
芽衣も、つられて笑った。
その笑顔を、ミシェルは見逃さなかった。
緊張が解けたとき、人は何を見せるのか。
審査のために作った顔ではない。
役のために用意した表情でもない。
その人自身が、そこにいる。
ミシェルは思った。
オリエを演じる女優を探している。
しかし、オリエという役が、女優たちの中から何を引き出すのかも見ている。
経験は、武器になる。
技術も、知識も、積み重ねた失敗も、すべてが武器になる。
けれど、武器を持っていることと、その武器をいつ使わないかを知っていることは、同じではない。
ミシェルは、六人の女優と、若手の莉子、そして学生の芽衣を見渡した。
「次の審査では、皆さんに一つだけお願いがあります」
誰もが、彼女を見た。
「オリエを、強い女性として演じようとしないでください」
その言葉に、富士やよいが眉を上げた。
「強い女性として、演じない?」
「ええ」
ミシェルは答えた。
「オリエは、強い人です。でも、強く見せようとしている人ではありません」
彼女は、台本を手に取った。
「強い人が、弱さを隠す場面を演じるのではない。弱さを持った人が、それでも自分の人生を選ぶ場面を演じてほしいのです」
窓の外では、池袋の街が夕方の光に包まれ始めていた。
六人の女優たちは、台本を開いた。
若手の莉子は、スタッフに呼ばれて、もう一度部屋へ戻ってきた。
学生の芽衣は、緊張したまま、椅子に座り直した。
そして倉木リカコは、今度こそ本当にくしゃみをした。
「ハクション!」
全員が彼女を見た。
倉木は、少しだけ目を潤ませて言った。
「……今のは、本物よ」
天野ユリが、即座に答えた。
「そこは、誰も疑っていないわ」
笑い声が起きた。
その笑い声の中で、ミシェルだけは、次の場面を考えていた。
同じ台詞を、もう一度。
今度は、誰が変わるのだろう。
そして、誰が変わらないのだろう。
オーディションは、まだ始まったばかりだった。




