『Les femmes qui complotent 企む、女たち』第三話
第三話 同じ台詞、違う女
「では、交代しましょう」
ミシェル・サウンが言った。
富士やよいと天野ユリが席に戻り、田所マナミと澤ユキノが立ち上がった。
「同じ場面です。台詞も変えません。お二人の解釈で演じてください」
田所が脚本を開いた。
「澤さん、よろしくお願いします」
「こちらこそ。お手柔らかに」
「オーディションですから、手加減はなしで」
「まあ、怖い」
澤が笑った。
そのやり取りに、会場の空気が少し緩む。
ミシェルは腕時計を見た。
「始めてください」
田所は、夫ジュンの役だった。
澤がオリエを演じる。
「ジュン。聞こえる?」
澤の声は、思いのほか明るかった。
「聞こえるよ。オリエ? 今、どこにいるの?」
「ロサンゼルス。明日の便に乗れそうなの」
「本当に?」
「ええ。今度こそ、帰れると思う」
澤は、笑った。
電話の向こうにいる夫の顔が、見えているかのようだった。
「よかった。ずっと待っていたんだ」
田所は、そこで少し間を置いた。
「……私も、帰りたい」
澤の声から、笑みが消えた。
「オリエ。帰ったら、話したいことがある」
「何?」
「帰ってから話そう」
「今じゃ、だめなの?」
田所は、視線を落とした。
「今は、まだ話せない」
澤は、すぐに答えなかった。
そして、軽く息を吐いた。
「わかった。帰ったら、話そう」
場面が終わった。
「ありがとうございます」
ミシェルは二人に椅子を勧めた。
「田所さん。ジュンは、なぜ今、話せないのでしょう?」
「自分の気持ちを整理できていないからです。オリエを傷つけるとわかっている。でも、帰ってきた彼女を前にしたら、話さずにはいられない」
「では、澤さん。オリエは、何かを察したのでしょうか?」
「いいえ。まだ、何も知らないと思います。ただ、ジュンの声がいつもと違う。そのことが、少し気になった」
「なるほど」
ミシェルは、それ以上説明を求めなかった。
「お二人とも、ありがとうございます」
田所と澤が席に戻る。
富士やよいが、澤に小声で話しかけた。
「ずいぶん明るいオリエだったわね」
「そう?」
「ええ。帰るのが、本当に嬉しそうだった」
澤は、少し考えてから答えた。
「だって、十年ぶりなんでしょう? 帰れるとわかったら、嬉しいじゃない」
「そのあと、何が待っているかもしれないのに?」
「まだ知らないんですもの」
澤は微笑んだ。
「これから不幸になる人に、最初から不幸そうな顔をさせる必要はないでしょう?」
富士は、返事をしなかった。
その言葉を、少し気に入ったようだった。
「次は、倉木さんと霜田さん」
ミシェルの声が響いた。
倉木リカコが立ち上がった。
「はい」
霜田キコも脚本を持って立ち上がる。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
倉木は、椅子に座る前に、ミシェルを見た。
「ひとつ、確認してもいいですか?」
「どうぞ」
「この場面のジュンは、本当にオリエを愛しているんですよね?」
ミシェルは答えた。
「脚本には、そう書かれています」
「でも、彼には別の愛する人がいる」
「そうです」
倉木は少し考えた。
「わかりました」
霜田が、横から口を挟んだ。
「倉木さん、ジュンの役をやるのは私ですよ」
「あら、ごめんなさい。つい、ジュン本人に質問している気になってしまったわ」
「本番前に、夫婦喧嘩を始めないでくださいね」
会場に笑いが起こった。
ミシェルも口元を緩めた。
「では、今度こそ始めましょう」
霜田がオリエ、倉木がジュンを演じる。
「ジュン。聞こえる?」
「聞こえるよ。オリエ? 今、どこにいるの?」
「ロサンゼルス。明日の便に乗れそうなの」
「本当に?」
「ええ。今度こそ、帰れると思う」
「よかった。ずっと待っていたんだ」
倉木の声は、穏やかだった。
霜田は、しばらく黙っていた。
「……私も、帰りたい」
その言葉は、ほとんど独り言のようだった。
「オリエ。帰ったら、話したいことがある」
霜田は、わずかに首を傾けた。
「何?」
「帰ってから話そう」
「今じゃ、だめなの?」
倉木は、少しだけ声を強くした。
「今は、まだ話せない」
霜田は、相手の言葉を受け止めるように、静かにうなずいた。
「わかった。帰ったら、話そう」
そこで、場面が終わった。
ミシェルは、すぐには口を開かなかった。
霜田が尋ねた。
「何か、まずかったですか?」
「いいえ」
「では、よかった?」
「それも、まだ言えません」
霜田は苦笑した。
「演じる側より、見る側のほうが大変そうですね」
「見る側は、逃げられませんから」
ミシェルは、倉木に向き直った。
「倉木さん。あなたは、なぜあの台詞を少し強く言ったのですか?」
「ジュンは、帰ってきたオリエに話さなければならないことがある。でも、今は言えない。だから、彼女にそれ以上聞かれたくなかったのだと思いました」
「それで、声を強くした?」
「はい。弱く言ったら、彼女に踏み込まれてしまいそうだったから」
「霜田さんは?」
「私は、ジュンが何かを隠しているとは、まだ思っていません。ただ、彼が話したいことがあると言ったので、少し心配になった」
ミシェルは、うなずいた。
「ありがとうございます」
倉木が席に戻ろうとしたとき、富士が声をかけた。
「倉木さん」
「何か?」
「あなた、ジュンを悪者にしたくないのね」
倉木は、少し驚いた顔をした。
「そう見えた?」
「ええ」
倉木は、脚本を閉じた。
「悪者にするのは簡単です。でも、悪者にしたら、オリエが最後に別れを選ぶ意味まで変わってしまう気がするの」
富士は、黙ってうなずいた。
天野ユリが、二人の会話に加わった。
「でも、ジュンがいい人だったら、オリエは余計につらいんじゃないかしら」
「そうね」
倉木は答えた。
「いい人だから、別れなくていいとは限らないものね」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
それまで黙っていた田所マナミが、ぽつりと言った。
「この作品、夫婦喧嘩の話だと思っていました」
「違うの?」
霜田が尋ねた。
「もっと大きな話なのかもしれません。誰かを愛していることと、その人と一緒に生きられることは、同じじゃない」
「そうね」
澤ユキノが、静かに言った。
「でも、そんなことを簡単に認められる人ばかりじゃないでしょうね」
ミシェルは、彼女たちの会話を聞いていた。
止める必要はなかった。
女優たちは、まだ演技をしていない時間にも、オリエについて考え始めている。
それは、悪くない兆候だった。
ただし、ここでひとつ問題があった。
六人とも、うまいのだ。
台詞を正確に言う。相手の言葉を受け取る。沈黙を作る。人物の気持ちを考える。
そのどれもが、きちんとできる。
しかし、ミシェルが探しているのは、ただ上手な女優ではなかった。
彼女は、台本を一度閉じた。
「皆さん」
六人が顔を上げる。
「今の場面を見て、ひとつわかったことがあります」
「何でしょう?」
天野が尋ねた。
「皆さん、ジュンのことを考えていますね」
誰も否定しなかった。
「彼は何を隠しているのか。なぜ話せないのか。本当にオリエを愛しているのか。皆さんは、そこを考えている」
ミシェルは、テーブルに指を置いた。
「でも、忘れないでください。オリエは、まだ何も知りません」
彼女は、六人を順番に見た。
「彼女は、十年ぶりに家へ帰ろうとしている。愛する夫が待っていると信じている。その彼女を演じるとき、皆さんは、未来の悲劇を知っている観客になってはいけないのです」
倉木が、静かにうなずいた。
「主人公自身の時間を生きる、ということですね」
「そうです」
ミシェルは答えた。
「物語の結末を知っていることと、その人物の人生を生きられることは、違います」
壁の時計が、午後の時間を刻んでいた。
「今日は、ここまでにしましょう」
ミシェルが言うと、会場のあちこちから、小さな息が漏れた。
緊張していたのは、女優たちだけではなかったらしい。
霜田キコが、ようやく紙コップを手に取った。
「今度こそ、お茶を飲んでもいいですか?」
「どうぞ」
ミシェルは笑った。
霜田は一口飲み、顔をしかめた。
「冷たい」
「電子レンジは、あちらです」
「ありがとうございます。次の課題は、お茶を温める演技ですか?」
「いいえ。次は、もっと難しい課題です」
霜田は、カップを持ったまま動きを止めた。
「……お茶より難しいんですか?」
「ええ」
ミシェルは、微笑んだ。
「次は、オリエが夫の秘密を知ったあとの場面です」
今度こそ、誰も笑わなかった。
紙コップを持つ手が、そっとテーブルに戻された。
オーディションは、まだ始まったばかりだった。




