『Les femmes qui complotent 企む、女たち』第二話
第二話 女という名の業
「皆さん、台本はお持ちですね?」
ミシェル・サウンが尋ねた。
「はい」
返事は、きれいには揃わなかった。
一斉に声を出すことに慣れていない者もいれば、あえて声を出さなかった者もいる。
ミシェルは気にした様子もなく、テーブルの上の水を一口飲んだ。
「では、まず作品の説明をします。すでに脚本を読んでくださった方もいるでしょう。でも、私がこの作品をどう考えているのか、最初にお伝えしておきたいのです」
会場の空気が引き締まった。
富士やよいは背筋を伸ばした。天野ユリは台本を閉じ、田所マナミはペンを置いた。澤ユキノはミシェルの顔を見つめ、倉木リカコは腕を組んだ。霜田キコは、冷めかけたお茶を手に取って、また置いた。
飲むタイミングを逃したら、もう最後まで飲めないような気がした。
「作品のタイトルは『女という名の業』。英語の副題は、The Burden Called Woman。現代版のオデュッセイアです」
「オデュッセイア、ですか」
若い女優の一人が、小さく繰り返した。
「はい。長い旅を終え、故郷へ帰ろうとする人間の物語です。ただし、今回の主人公は英雄ではありません。女性の起業家です」
ミシェルは、台本の表紙に指を置いた。
「主人公のオリエは、シリコンバレーで人工知能の会社を経営しています。長年にわたる法廷闘争と買収合戦を乗り越え、ようやく東京へ帰ろうとする。夫のジュンと、幼い息子が待っているからです」
「仕事で十年も帰れなかった、ということですか?」
田所が尋ねた。
「そうです。正確には、仕事だけが理由ではありません。彼女は何度も帰る機会を失い、敵に行く手を阻まれ、やがて帰ることそのものが難しくなってしまう」
ミシェルは、少し間を置いた。
「彼女の旅には、古代の物語に登場する怪物や魔女に相当する人々が現れます。ただし、こちらの世界では、怪物が牙をむくとは限りません」
「高級スーツを着ているとか?」
霜田が言った。
ミシェルは、彼女に視線を向けた。
「そのとおりです。しかも、名刺を差し出してくる」
小さな笑いが起きた。
霜田は、お茶を飲もうとした。けれど、口元まで運んだところで、ミシェルが話を続けたので、結局またカップを置いた。
「最初にオリエを待ち受けるのは、キクロプスと呼ばれる巨大投資家です。彼は資金援助を持ちかけますが、実際にはオリエの会社を支配しようとしている。オリエはデータと論理で彼を退けます。しかし、彼の背後には強力な人脈があり、彼女は資金や交通の道まで塞がれてしまう」
「力で負けたわけではないのに、別の場所から攻められる」
天野が言った。
「ええ。ひとつ勝てば、すべてが解決するわけではありません」
ミシェルは続けた。
「次に彼女が遭遇するのは、ハリウッドの大物プロデューサー、サーシーです。華やかなパーティーと、誰もが成功できるという投資話。オリエの部下たちは、その世界に夢中になり、仕事への判断力を失っていきます。オリエは彼らを連れ戻そうとする」
「誘惑されるのは、お金だけじゃないんですね」
澤が言った。
「そうです。自分が特別な人間だと思わせてくれる場所も、人を縛ることがあります」
ミシェルは、会場を見渡した。
「さらに、彼女はソーシャルメディアの称賛と攻撃に翻弄されます。称賛されれば、もっと称賛されたい。批判されれば、すべてに反論したくなる。オリエは、とうとう電話を機内モードにして、自分が何をすべきなのかを考え直します」
倉木が口を開いた。
「つまり、彼女は誘惑に負けない、強い女性なんですね」
「そう見えるでしょうね」
ミシェルは、すぐには否定しなかった。
「でも、強い女性という言葉は便利です。そう呼んでおけば、その人が何に傷つき、何を諦め、何を恐れているのかを説明しなくても済みますから」
倉木は、わずかに眉を動かした。
「最後の誘惑は、地中海の島で待っています。莫大な富を持つ男が、オリエに永遠の安楽を差し出す。仕事をしなくてもいい。責任を負わなくてもいい。誰にも追われず、好きなものに囲まれて暮らせる」
「普通なら、そこに住みたくなりますけど」
若い女優が言った。
「私もそう思います」
ミシェルは真顔で答えた。
「ただし、この作品では、彼女は帰ることを選びます。安楽な暮らしよりも、自分の会社と、自分の人生を取り戻すことを選ぶのです」
ミシェルは、台本を閉じた。
「そして、十年ぶりに東京へ帰ったオリエを待っていたのは、失われた時間だけではありません」
会場は静かだった。
「彼女の会社は、買収を企む男たちに占拠されている。彼らはオリエが死んだも同然だという噂を流し、会社の資産を利用していた。そして、彼女の夫ジュンも、かつての夫ではなくなっていた」
ミシェルの声が、少しだけ低くなった。
「ジュンは、男性を愛する自分を隠し続けることができなくなっていたのです。そして今、彼には愛する若い男性がいる。その男は、オリエの会社を奪おうとする側の中心人物でもある」
富士やよいが、台本に目を落とした。
「それを、オリエは許せるんでしょうか」
「許せるかどうかは、彼女自身にもわからないでしょう」
ミシェルは答えた。
「ただ、私はジュンの性的指向を罪として描きたいわけではありません。彼が誰を愛するか、それ自体は罪ではない。オリエが傷つくのは、愛していた人と、自分が信じていた家庭が、十年のあいだに変わってしまったからです」
「では、ジュンも被害者なんですか?」
田所が尋ねた。
「彼もまた、自分の人生を生きられなかった人間です。でも、被害者であることと、誰かを傷つけないことは、同じではありません」
ミシェルは、田所の目を見た。
「オリエも、ジュンも、相手を傷つけたくて生きてきたわけではない。それでも、二人は傷つけ合うことになる」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
「物語の最後で、オリエは会社を奪おうとする者たちと対決します。彼女が作り上げた、指紋認証と固有コードで動くセキュリティシステム。その名は『弓』。彼女は自分の会社を取り戻し、不正の証拠を公開する」
「そして、夫とは別れる」
澤が言った。
「ええ。離婚の書類を渡します。さらに、ジュンが独立して生きていけるよう、資金も用意する」
「ずいぶん潔いですね」
倉木の言葉には、感心と疑問が半分ずつ混じっていた。
「潔いというより、彼女は決めたのです。愛していたことと、これからも一緒にいることは、同じではないと」
ミシェルは、ゆっくりと言った。
「オリエは泣きます。平気なふりをするわけではありません。けれど、泣きながらでも、自分の人生を選ぶ。最後に彼女は東京の夜景を見下ろし、自分の未来へ向かって歩き出します」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、霜田キコが手を挙げた。
「ひとつ、いいですか?」
「もちろん」
「オリエは、十年間も帰れなかった。それでも最後には、自分の会社を取り戻して、夫にもお金を渡して別れる。……ものすごく大変な目に遭ったわりに、最後まで仕事ができる人ですね」
会場の何人かが笑った。
ミシェルも笑った。
「そうですね。だから、私は彼女を完璧な人間として演じてほしくないのです。彼女は優秀です。でも、優秀だからといって、心の痛みまで効率よく処理できるわけではありません」
「なるほど」
霜田はうなずいた。
「私なんか、冷めたお茶ひとつ、まだ処理できていません」
今度は、先ほどより少し大きな笑いが起きた。
ミシェルは、ようやく会場に生まれた笑いを、邪魔しなかった。
笑えるということは、まだ余裕があるということだ。
しかし、その余裕も長くは続かない。
ミシェルは、テーブルの上に置かれた脚本を一冊、手に取った。
「さて。あらすじの説明は、ここまでです」
彼女は、応募者たちを見渡した。
「皆さんは、すでに脚本を読んでいるはずです。これからは、その脚本に書かれている場面を演じていただきます。私が求めているのは、あらすじを上手に説明することではありません。オリエという人間が、実際にその場にいたとき、何を言い、何を言わずにいるのか。それを見たいのです」
富士やよいが、静かにうなずいた。
「最初の課題は、脚本の冒頭の場面です」
ミシェルは、台本のページを開いた。
「オリエが、長い旅の途中で、ようやく夫ジュンに電話をかけられる場面。彼女は疲れていますが、帰国の日が近づいたことを伝えようとする。ジュンは、彼女を心配している。少なくとも、表面上は」
「表面上は、ですか」
天野ユリが聞き返した。
「脚本を読んでください。そこに書かれていることを、まずはそのまま受け止めてください」
ミシェルは、手元の紙を確認した。
「最初は富士さんと天野さん。富士さんがオリエ、天野さんがジュンを演じてください」
天野が顔を上げた。
「私が、ジュンですか?」
「はい。性別を入れ替えることに、問題はありませんね?」
「ありません」
天野は、すぐに答えた。
富士が立ち上がり、中央の椅子に座る。天野は少し離れた場所に立った。
二人とも、脚本を開いている。
「始めてください」
ミシェルが言った。
富士は、ひと呼吸置いてから、台詞を口にした。
「ジュン。聞こえる?」
天野が答える。
「聞こえるよ。オリエ? 今、どこにいるの?」
「ロサンゼルス。明日の便に乗れそうなの」
「本当に?」
「ええ。今度こそ、帰れると思う」
富士の声は、落ち着いていた。
天野は、脚本に目を落とす。
「よかった。ずっと待っていたんだ」
富士は、すぐには返事をしなかった。
「……うん。私も、帰りたい」
その一言のあと、富士は黙った。
台本には、短い沈黙の指示がある。
彼女はその沈黙を、ただの間として処理しなかった。
帰りたい。
その言葉の中に、十年分の疲れと、ようやく帰れるという安堵を込めようとした。
天野は、相手の顔を見た。
「オリエ。帰ったら、話したいことがある」
富士の表情が、ほんのわずかに変わった。
「……何?」
「帰ってから話そう」
「今じゃ、だめなの?」
天野は、少し迷ったように息を吸った。
「今は、まだ話せない」
ミシェルは、二人の演技を見つめていた。
富士は、次の台詞を口にする前に、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「わかった。帰ったら、話そう」
「うん」
場面が終わった。
「ありがとうございます」
ミシェルは言った。
富士と天野が、椅子から離れる。
「富士さん」
「はい」
「今の場面で、あなたは何を感じていましたか?」
富士は少し考えた。
「帰れることが嬉しい。でも、ジュンの声に、何か引っかかるものがあった。だから、聞き返したくなったんだと思います」
「天野さんは?」
「私は、オリエに話したいことがある。でも、電話では言えない。だから、帰ってくるのを待っている……そう考えました」
ミシェルは、うなずいた。
「ありがとう。お二人の解釈は、よくわかりました」
彼女は、次の応募者へ視線を移した。
「では、次は田所さんと澤さん。今度は同じ場面を、別の解釈で演じてください。正解はありません。ただし、脚本に書かれた言葉を、勝手に変えないでください」
田所と澤が立ち上がった。
会場の空気が、再び張り詰める。
ミシェルは、椅子に腰を下ろした。
「始めてください」
六人の実力派女優。
同じ脚本。
同じ台詞。
それでも、オリエという女性は、演じる者によって違う顔を見せるはずだった。
そしてミシェルは、その違いの中に、まだ誰も気づいていない何かが現れるのを待っていた。




