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青とホットミルク

 もう一度匂いを吸い込んでみる。


 血なまぐささも異臭もない、柑橘系の香りを再現した匂いを体に満たした。二回目に会ったときはアルコールの匂いだった。


 でも一番似合っているのはやはりこの爽やかなものだ。


(俺が生み出した、俺がずっと求めていた〝完璧なもの〟を一瞬で破壊したひどい人。なのに、また会いたくなった)


 目の前でミンチになった怪獣の上に君臨した彼の姿が忘れられなくなって、結局墓穴を掘った。逃げ出したのに戻ってきて、いまは彼の手中にいる。


(壊されたときは嫌だったし悔しかった。でも、心のどこかはすかっとしていた。完璧じゃない俺が生み出したものは、結局完璧とは程遠いんだ。切られていくたびになにかが本当に消えていくあの感覚は、自分が切り刻まれていくみたいだった)


 この病気のせいで生み出した怪獣はきっと破壊衝動がもっと激しくなるはずだ。祐基が望む限り、世界を壊し続ける。


 母からは二度と家に帰ってくるな、もう家族ではないと拒絶された。


 もちろん就職も取消になり、これまでに築いた輝かしい功績も無駄になった。もう人間としての価値を失ってしまった。


 だったら怪獣が暴れて全部が俺と同じくなくなればいい。みんなが完璧なあの存在に破壊されたらきっと気持ちよくなれる。


(そんなの望んでない。でもどこかで願ってる。だから俺は、その衝動を止めるために俺自身を殺すか、壊してもらいたかった。できれば、太陽みたいなこの人に、俺のぜんぶをめちゃくちゃにしてほしい)


 ぼう、と目の下がかすかに明るくなる。ウィルの腕の中に青い光の線がうっすらと見えていた。


 青いのに冷たく感じないのは、ウィルの体温が高いおかげだろうか。触れるとくぐもっているがリンと涼やかな音が鳴る。


 ドキドキと心臓が高鳴り始める。それは祐基の中にあるものと共鳴している。


 音を聞いているうちにだんだん心地がよくなってきて、この部屋に来る前に感じていた不安も恐怖も熱にしわりと溶かされていく。


 骨に沿うように光っているのは、もしやこれが彼の言っていた〝骨〟なのかもと察した。


「光ってる、きれい……」


 もう一度なぞろうとした手が止められた。あ、と顔を上げるとウィルが目を丸くして驚いていた。まさか祐基がそばで寝ているとは思いもしなかったらしい。枕の下に手が入れられている。そこに銃があるのが見えた。


 けれどウィルはすぐに枕から手を出して祐基の頭を撫でた。


「眠れなかった? 妙に疲れちまって反応ができてなかった。嫌な夢でも見たならあったかい物でも作ろうか」


「あったかいもの?」


 そう、とウィルは起き上がって頬を掻いてから部屋の電気を点ける。まぶしさに一瞬目を細めた。触れてくる言葉もすべてが柔らかく、じくじくと背中が痺れる。


「ホットミルクとかが定番だろ。たしか牛乳は買っておいたから、すぐ用意できるよ。一応薬も飲んでおく?」


 別に寝れなくなったわけではないが、彼の脳内では勝手にそういうものだと決まって話が進んでいく。


 どう返せばいいか迷う。家で水以外を飲んだこともないし、温めた牛乳にどんな意味があるかもわからない。まごついた口では返事がうまくできず、思わず指でLを作っていた。


「うん? 二杯欲しいってこと?」


「あ、」と慌てて手を隠してうなずいた。「一個でいい、一個だけ飲みたい」


「ラジャー、サー。なら俺の分も作るか。はちみつ買っておけばよかったな。そうだ、明日は買い物に行こう。必要そうな物でも考えてれば眠くもなるだろうし」


「あなたが持ってきたものでほとんど揃ってると思うけど。食事だってあんなにはいらない。決まったものを食べるだけでいい」


「なに言ってんだよ、そんなのつまらないだろ。食事を一番大事にするべきだ。俺はこのために生まれたんだって叫びたくなるほど楽しみにしてるんだよ。好物はドーナツ。それもオールドスタイルの小麦粉がぎゅっとしてるやつ!」


「食べたことない」


「へぇ⁉ ドーナツだぞ、全人類の夢だろ! だめだ、明日絶対に食べに行こう。アメリカの店が日本にも結構来てるから、なにがいいかな、やっぱりオールドファッションかな」


 顎に手を当てて真剣に悩んだかと思えば、ウィルはわざわざ携帯のメモを開いて素早く文字を打ち始める。


 その間にチン、と電子レンジが出来上がりを告げたから、彼は急いでマグカップを二つ取り出した。慌ただしいなと祐基は眉をひそめた。出来は上々らしく、「どうぞ」と目の前にカップが置かれた。


「火傷しないようにね。そうだなぁ、祐基の好きなものを見つけるのと楽しいことも覚えてもらわないとだから、いろいろ出かけるのが手っ取り早いか。行きたいところはある?」


「急に言われても、あちっ。あ、でもあったかい……。あっためただけなのにこんなにおいしいんだ」


「はは、だから気をつけた方がいいんだ。そのあったかさがホットミルクの恩恵だよ。さて、いままで家族にどんなところに連れてってもらったか教えてくれ。一番覚えてる旅行は?」


「だから、ないんだってば。俺は家族からそういうことしてもらったこと一度もない。いちいち押し付けないで」


 わずかに声が大きくなった。火傷した舌がびりびりと痛み、口を手で覆う。あとで水か氷で冷やしておかないとしばらく痛みそうだ。


 祐基の反論を浴び、ウィルは少しの間、口を開けて固まっていた。まさかそんな人間がこの世にいるとは思っていなかったのか、頭の上にローディングマークが浮かびそうなほど考え込んでから、「その」と姿勢を正す。


 また真剣な顔をされて祐基もいい加減苛立ちを覚えてくる。


「悪気はなかったんだ……」


「あなたは素晴らしい家族に恵まれたんだと思う。休日には庭でバーベキューして、ホリディには旅行、クリスマスにはサンタさんが欲しいものをくれるような、愛情たっぷり育ったからそんなに発育もいいんだろうし」


「なんでわかって、あ、あー、そういうことなんだな」


「でも俺は、違うんです。本当に知らないんだ。家でしゃべるのも禁止されて、全部ジェスチャーでしかコミュニケーションが取れなくて、毎日決まった食事が用意されていて、なにか間違えれば部屋に閉じ込められるような生活だった!」


 ウィルが絶句したのを感じたが、祐基はたまらず吐き出したかったものをすべてさらけ出してやりたくなった。勢いをつけて立ったせいで、背後で倒れた椅子が床にぶつかりガタンとけたたましく音を立てる。


 気おされたようにウィルが椅子を後ろに引いた。


「俺はこんなに人と話したこともなかった。誰かのベッドにもぐりこんで寝たいとか、セックスしたいとかキスしたいとか、初めて考えたんだ。だってそう考える気力さえなかったから! ホットミルクがこんなにおいしいのも、アメリカから来ているっていう店も! 本当ならそういうのは親に教えてもらうものなの……?」


 指先が震える。マグカップを触ろうとしたが、電流が走ったみたいに痺れるような痛みがしてすぐに引っ込めた。


 そのせいでウィルがゆっくりと立ち上がり、隣に来ていたことに気づけなかった。


 突然抱きしめられ足元のバランスが崩れる。しっかりと支えられていたら倒れはしなかった。


 目を覆われて周りが真っ暗になる。覆ってきた手は大きくて温かい。それで体温が冷えていたのがわかった。咳が出る一歩手前まで来ていたらしい。


「シー。大丈夫、そんなすぐに咳は出させないよ。俺はたしかにきみの想像通りの家庭で育った。俺の基準で考えすぎてたな。家庭環境については資料がなかったんだ。もう十分理解した。苦しい気持ちを思い出せてごめん」


「うっ、うぃる、痛い、締め付けすぎ」


「パートナーとして最大限きみたち患者に尽くす。それが俺の役割だ。でも慣れてなくって、これからもいろいろ間違えると思う。そのときは違うって教えてくれる?」


「わ、わかんないよ、間違ってるかどうかも」


「じゃあ覚えていかないとな」と力が緩んで肩を掴まれた。


 やっと明るくなった視線の先には情けなく眉を下げて笑うウィルがいた。


 またリン、と聞こえてきて腕に目をやれば光っている。青い光の筋がきれいだ。


 なぜだか泣きそうになって、ウィルのシャツを握って顔を胸に埋めていた。背中に手が回ってきてまた抱き留められる。


 教えて、とは素直に言えなかった。いまさら優しさを求めたって過去の自分が許してくれるとは考えられず、それが胸をじくじくと痛痒くさせていたのだ。


 でももうここには家族はいない。縁を切られた以上は自由になった。


(病気だって治したい。この人が仕事で俺に接してくれているのはわかってる。でも、)


「ドーナツ食べたい」


「ほかには?」


「キスしたい」


「いや、だからそれはダメだ」


「セックスは!」


「しない!」


「どうしたら抱いてくれるんだよ。もっと同情を誘うように泣いてみせればいい? それともこのまま体を押しつければその気になる?」


「前言撤回しそうだ。いいからもう寝てくれ……。明日は早くに起きるんだよ。バイクに乗ったことは?」


 首を横に振る。ウィルがいたずらっぽく口角をあげると、頬をぺちぺちと叩かれる。


「パートナーとして自信を持って楽しいものだと勧めるよ。きっと気に入る」


 どうだか、と肩をすくめた。なにせ彼と祐基はまったく違う境遇で生きてきたといま判明したばかりだ。


 でも、少しは信じてみようと思う気持ちもある。


 それくらいホットミルクは美味しくて、腹が温かいということはたしかに眠気を誘うものだった。


 やれやれと片づけを始めたウィルの服のすそを引っ張る。つんのめった彼が抗議のために振り向いたが、その口を奪ってやるために体を近づけた。だが難なく防がれてしまう。


「せめて一緒に寝させてよ。その方が落ち着くから。あなたの骨が光るの、ずっと見てたい」


「……断ったら怪獣を出すとか脅さないよな」


「お望みならいまこの場で一体、」


「いい! ストップ! わかった、寝るだけだからな」


 わがままって気持ちいいかも。ため息を吐いて部屋に向かったウィルのあとを、軽い足取りで祐基はついていった。

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