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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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第九話 敵地への道

戦争が長引くと、人は敵を顔のない存在として扱うようになる。


 敵兵。


 敵軍。


 敵国民。


 その一言で片付ける。


 そうしなければ引き金を引けなくなるからだ。


 目の前にいる相手にも家族がいて、友人がいて、帰りを待つ誰かがいると考えてしまえば、人は簡単には人を殺せなくなる。


 だから戦争は敵を記号へ変える。


 人間ではなく標的へ変える。


 兵士ではなく数字へ変える。


 だが、その嘘は長く戦場にいるほど剥がれ落ちていく。


 カイ・アーヴィングはまだ知らなかった。


 敵地へ足を踏み入れた先で、自分がその現実を思い知ることになることを。



 出発は翌日の深夜だった。


 第七小隊に与えられた任務は敵後方に存在するとされる捕虜収容所の偵察。


 共和国軍の捕虜が収容されている可能性が高く、今後の作戦立案のためにも情報収集が必要だと判断されたらしい。


 表向きはそういう話だった。


 だが現場の兵士たちは理解している。


 偵察任務ほど予定通りに終わらないものはない。


 敵地へ入る。


 何かを発見する。


 問題が起きる。


 戦闘になる。


 そして帰還できない者が出る。


 それが戦争だった。


 今回は少数精鋭での潜入となった。


 レオ。


 ミラ。


 カイ。


 そして二名の偵察兵。


 合計五名。


 トマスは負傷のため後方待機。


 エリクは当然ながら病院にいる。


 出発前、第七小隊の空気はどこか静かだった。


 誰も余計なことを話さない。


 緊張しているのだ。


 ベテランも新人も関係ない。


 敵地潜入は誰だって怖い。


 失敗すれば助けは来ない。


 捕まれば終わりだ。


 戦死よりも悲惨な結末を迎える可能性もある。


 それでも命令だから行く。


 兵士だから行く。


 それだけだった。



 灰色地帯東部。


 共和国軍と帝国軍の支配地域を隔てる境界線。


 そこは地図上では単なる線でしかない。


 だが実際には違う。


 地雷原。


 監視哨。


 狙撃ポイント。


 無人偵察機。


 ありとあらゆる殺意が詰め込まれた空間だった。


 五人は夜陰に紛れて進んでいく。


 話し声はない。


 足音もほとんどない。


 訓練された兵士たちの移動だった。


 カイはライフルを抱えながら周囲を警戒する。


 呼吸を整える。


 視線を巡らせる。


 戦場へ来たばかりの頃より確実に成長していた。


 それが嬉しいとは思えない。


 成長とはつまり、戦争に適応しているということだからだ。


 やがて最初の危険地帯へ到達する。


 地雷原だった。


 目印はない。


 看板もない。


 ただ死だけが埋まっている。


 先頭を歩く偵察兵が慎重に進む。


 一歩。


 また一歩。


 全員がその後を辿る。


 緊張で汗が流れる。


 たった一度のミスで終わる。


 爆発。


 負傷。


 敵への位置露見。


 そして全滅。


 静かな死だった。


 幸い問題は起きなかった。


 地雷原を抜ける。


 監視哨を迂回する。


 敵哨戒部隊との接触もない。


 順調すぎるほど順調だった。


 だからこそレオは警戒を強めていた。


 カイはそれに気付く。


 小隊長は何かを警戒している。


 言葉にはしないが。


 経験から来る違和感なのだろう。



 夜明け前。


 彼らは帝国軍支配地域へ到達した。


 そこは共和国側と何も変わらなかった。


 砲撃で崩れた街。


 焼け焦げた建物。


 放置された車両。


 死んだ都市。


 違うのは旗だけだった。


 帝国軍の軍旗が風に揺れている。


 それ以外は同じだ。


 戦争が奪うものに国境など存在しない。


 レオたちは廃墟を進む。


 敵の補給路を避けながら。


 監視網を抜けながら。


 慎重に。


 静かに。


 そして昼前。


 ようやく目的地を発見した。


 捕虜収容所だった。


 古い工場施設を改造した巨大な建物。


 高いフェンス。


 監視塔。


 機関銃座。


 帝国軍兵士たち。


 厳重な警備体制だった。


 ミラが双眼鏡を覗く。


 レオが地図と照らし合わせる。


 そしてカイも施設を観察する。


 その時だった。


 胸の奥が妙にざわつく。


 理由は分からない。


 ただ視線がある一点へ引き寄せられた。


 施設中央。


 捕虜たちが作業をさせられている場所。


 共和国軍兵士が並んでいる。


 痩せ細った男たち。


 疲弊した顔。


 絶望した目。


 その中に。


 一人だけ年若い少年がいた。


 十代半ば。


 痩せている。


 だが首から下げたペンダントが見えた。


 小さな銀色の飾り。


 どこかで見た気がした。


 カイは目を細める。


 そして思い出した。


 ノアだ。


 あの少女がいつも握り締めているペンダント。


 形が同じだった。


 心臓が大きく脈打つ。


「……まさか」


 思わず呟く。


 隣のミラが怪訝そうに見る。


 だがカイの視線は少年から離れなかった。


 ノアの兄。


 偶然か。


 それとも。


 考えるまでもなかった。


 あのペンダントは対になっていたのだ。


 家族の証だったのだろう。


 少年は生きていた。


 本当に。


 敵地の収容所で。



 偵察は成功だった。


 本来ならここで帰還する。


 位置を確認した。


 警備体制も把握した。


 十分な成果だ。


 だが問題があった。


 カイも。


 ミラも。


 レオも。


 誰もがあの少年を見てしまった。


 ノアの兄だと知ってしまった。


 知らなければよかった。


 知らなければ帰れた。


 だが知ってしまった。


 だから空気が重い。


 レオは施設を見つめたまま黙っている。


 決断を迫られているのだ。


 命令通り帰るか。


 あるいは――。


「中尉」


 カイが口を開く。


 自分でも何を言うつもりなのか分かっていた。


 だが最後まで言えなかった。


 レオが手を上げたからだ。


 静かに。


 だが確実に。


「言うな」


 低い声だった。


 カイは黙る。


 レオは収容所を見つめ続ける。


 その横顔は苦しそうだった。


 命令は偵察。


 救出ではない。


 だが目の前に救えるかもしれない命がある。


 戦争ではそういう瞬間が必ず訪れる。


 規則と良心。


 命令と人間性。


 そのどちらを選ぶのか。


 そして。


 その答えは。


 彼らに与えられる時間よりも早く訪れた。


 収容所内部で警報が鳴ったのだ。


 サイレン。


 怒号。


 兵士たちの動き。


 何かが起きた。


 捕虜たちが騒いでいる。


 帝国兵が走る。


 銃声が響く。


 収容所の中で何かが始まった。


 そしてレオは小さく舌打ちした。


「最悪だ」


 その声には諦めが混じっていた。


 なぜなら全員が理解していたからだ。


 偵察任務は終わった。


 ここから先は。


 もう巻き込まれる。


 間違いなく。

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