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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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第十話 収容所の火種

戦場では偶然が人を殺す。


 砲弾が一メートルずれる。


 足元に埋まっていた地雷に気付かない。


 狙撃手がたまたまこちらを見る。


 そうした偶然の積み重ねが人間の生死を決める。


 だが時として、偶然は戦争そのものの流れすら変えてしまう。


 後から歴史書に記されるような大きな出来事も、その始まりは驚くほど小さい。


 一人の兵士の判断。


 一発の銃弾。


 一つの選択。


 そして今、第七小隊が見下ろしている敵軍捕虜収容所でもまた、そんな偶然が起ころうとしていた。



 帝国軍捕虜収容所。


 かつて重工業施設だった巨大工場跡地。


 高い鉄条網。


 監視塔。


 複数の機関銃陣地。


 周囲を巡回する武装兵。


 共和国軍兵士が収容されている施設としては異常なほど厳重だった。


 レオたちは工場群の外れにある崩壊したビルの上階から様子を監視していた。


 任務は本来なら終了している。


 収容所の位置は確認した。


 警備体制も把握した。


 後は帰還して報告するだけだった。


 だが事態は変わった。


 収容所内部で警報が鳴ったのだ。


 サイレンが施設全体へ響き渡る。


 帝国兵たちが慌ただしく動き始める。


 監視塔の兵士が周囲を警戒する。


 サーチライトが点灯する。


 何かが起きていた。


「暴動か」


 ミラが双眼鏡を覗いたまま呟く。


 レオは答えなかった。


 その視線は収容所中央へ向いている。


 カイも同じ方向を見る。


 捕虜たちが集められていた。


 帝国兵が怒鳴っている。


 銃を向けている。


 そして。


 一人の若い捕虜が地面へ引き倒された。


 あの少年だった。


 ノアの兄。


 間違いない。


 銀色のペンダントが首元で揺れている。


 周囲の捕虜たちが叫ぶ。


 兵士が殴る。


 さらに叫び声。


 混乱が広がっていく。


「何があった」


 カイは思わず呟く。


 その答えはすぐに見えた。


 少年の手の中に何かがある。


 小さな紙切れだった。


 地図か。


 脱出経路か。


 あるいは連絡文か。


 詳細は分からない。


 だが帝国軍が激怒している理由だけは理解できた。


 脱走計画。


 それを見つけられたのだ。



 状況は急速に悪化した。


 帝国軍士官が現れる。


 黒い外套を羽織った男だった。


 高級将校らしい。


 周囲の兵士たちの態度からもそれが分かる。


 男は何か命令する。


 その瞬間。


 捕虜たちの顔色が変わった。


 少年も。


 周囲の兵士たちも。


 絶望したような顔をしている。


 嫌な予感がした。


 非常に嫌な予感だった。


 そして。


 帝国兵が捕虜を数人引きずり出した。


 その中にはノアの兄もいた。


「公開処刑か」


 ミラの声は低かった。


 誰も否定しない。


 それしか考えられなかった。


 見せしめ。


 反抗した者への罰。


 戦争では珍しくない。


 むしろよくあることだった。


 だが。


 分かっていても受け入れられるものではない。


 カイの拳が震える。


 ノアの顔が浮かぶ。


 兄を探していた少女。


 毎晩帰りを待っていた少女。


 その兄が今まさに殺されようとしている。


 目の前で。


 何もできないまま。



 長い沈黙が流れた。


 誰も口を開かない。


 言葉にすれば終わるからだ。


 言葉にした瞬間、選択を迫られる。


 命令を守るか。


 人を助けるか。


 どちらかだ。


 両方は選べない。


 やがてミラが小さく息を吐いた。


「見捨てるか?」


 その一言だった。


 レオは答えない。


 だが誰もが理解していた。


 今の質問はカイに向けられたものではない。


 自分自身への問いだった。


 そして第七小隊全員への問いだった。


 沈黙が続く。


 遠くでは帝国兵たちが準備を進めている。


 時間がない。


 決断の時間だった。


「中尉」


 カイは言う。


 今度は止まらなかった。


「俺たちは兵士です」


 レオが視線を向ける。


「命令も大事です」


 喉が渇く。


 心臓が速い。


 だが続けた。


「でも」


 収容所を見る。


 ノアの兄を見る。


「もし見捨てたら」


 言葉が震える。


「俺はたぶん、ずっと後悔します」


 それは兵士として失格の言葉かもしれなかった。


 合理性はない。


 損得勘定もない。


 ただの感情論だった。


 だが。


 レオは目を閉じた。


 数秒。


 静かな時間。


 やがて。


 小隊長は深く息を吐いた。


「俺もだ」


 その一言で決まった。



 作戦立案にかかった時間は五分もなかった。


 時間がない。


 敵は多い。


 戦力差も大きい。


 だから正面突破は論外だった。


 レオは収容所の構造を確認する。


 監視塔。


 電源設備。


 巡回経路。


 そして工場地下へ続く搬入口。


「停電を起こす」


 短く言う。


「混乱に乗じて侵入」


 ミラが頷く。


「私が監視塔を潰す」


 狙撃手の役割だ。


 最も危険で。


 最も重要な役目。


「俺とカイは地下から入る」


 レオは続ける。


「捕虜を回収して離脱」


 単純だった。


 だからこそ危険だった。


 誰も生還を保証できない。


 だが全員が受け入れていた。


 今さらだった。


 戦争では何度も死地を越えてきた。


 今回もその一つに過ぎない。



 夕暮れが近付く。


 収容所では処刑準備が進んでいる。


 帝国兵たちが集まる。


 捕虜たちは跪かされている。


 ノアの兄もその中にいた。


 時間切れが迫っていた。


 レオが時計を見る。


 そして静かに呟く。


「始めるぞ」


 ミラが狙撃銃を構える。


 カイはライフルを握る。


 鼓動が速い。


 呼吸が浅い。


 怖い。


 当然だった。


 だがそれ以上に。


 助けたいと思っていた。


 兵士としてではなく。


 一人の人間として。


 そして。


 夕陽が沈み始めた瞬間。


 ミラの引き金が引かれた。


 乾いた銃声が戦場へ響く。


 監視塔の兵士が崩れ落ちる。


 同時に変電設備が爆発した。


 収容所全体が暗闇に包まれる。


 悲鳴。


 怒号。


 警報。


 混乱。


 全てが一斉に始まる。


 そしてレオは小さく笑った。


「さて」


 その目は獣のようだった。


「命令違反の時間だ」


 カイは頷く。


 そして二人は敵地の闇へ飛び込んだ。

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