第五話 狙撃手の見る景色
戦争は人を変える。
それは劇的な出来事によって一瞬で変わるわけではない。むしろその逆だった。毎日のように積み重なる恐怖と疲労と喪失が、少しずつ人間を削り、削られた部分を戦場向きの何かへ作り変えていく。
昨日まで死体を見るたびに吐き気を催していた兵士が、ある日気付けば食事をしながら戦死者の回収作業を見ている。
昨日まで砲撃の音に身を竦ませていた兵士が、いつの間にか砲弾の落下位置を音だけで判断するようになる。
昨日まで眠れなかった夜に眠れるようになる。
それは強くなったわけではない。
ただ慣れてしまっただけだ。
生き残るために。
壊れないために。
人間という生き物が持つ適応能力がそうさせる。
そしてカイ・アーヴィングは、自分自身にもその変化が起き始めていることを感じていた。
前線へ送られてからまだ十日も経っていない。
それなのに、初日に感じた恐怖が少しずつ薄れている。
それが何より恐ろしかった。
◇
トマスが後方病院へ搬送されてから三日が過ぎていた。
第七小隊は再び灰色地帯最前線へ戻っている。
補充兵は来なかった。
連隊全体で人員不足が深刻化しているらしい。
長引く戦争は兵士を消耗させる。
死者。
負傷者。
脱走者。
精神を病む者。
それら全てを補えるほどの若者はもう残っていない。
戦争が長く続けば続くほど軍は痩せ細っていく。
それは共和国軍も帝国軍も同じだった。
第七小隊も今では八名しかいない。
本来なら二十名近くいるはずの部隊だった。
それでも任務は減らない。
むしろ増えている。
前線が押され始めているからだ。
その日の任務は敵補給路の偵察だった。
少人数で行う潜入任務。
同行者はミラ・クロウ軍曹。
第七小隊最古参の狙撃手だった。
夜明け前。
二人は陣地を出発した。
朝靄の中を歩きながら、カイは周囲へ視線を巡らせる。
灰色地帯は相変わらず死んでいた。
かつて工業都市だった場所には崩れた工場が並び、煙突は途中から折れ、巨大な鉄骨は錆びついたまま横たわっている。
戦争が始まる前、この場所には何万人もの人々が暮らしていたらしい。
工員が働き。
子供が学校へ通い。
家族が夕食を囲む。
そんな当たり前の日常があったはずだった。
だが今は違う。
聞こえるのは風の音と遠くの砲声だけだ。
都市は死んでいた。
そして死んだ都市の中を兵士たちだけが歩いている。
まるで墓場を彷徨う亡霊のようだった。
先を歩くミラはほとんど音を立てない。
崩れた瓦礫を避け、射線を確認し、敵が潜みそうな場所を自然に警戒している。
その動きには一切の無駄がなかった。
長年戦場で生き延びてきた兵士の動きだった。
やがて二人は廃工場地帯の中央にある給水塔へ辿り着く。
高所。
視界良好。
偵察には最適な場所だった。
ミラは慣れた様子で双眼鏡を構えた。
カイも隣へ伏せる。
遠方には帝国軍の野営地が見えた。
補給車両。
歩兵部隊。
弾薬庫。
装甲車両。
以前見た時より明らかに規模が大きい。
敵軍は増強されている。
それは素人のカイにも分かった。
「増えてるな」
思わず呟く。
ミラは短く頷いた。
「嫌な増え方だ」
その声には警戒が滲んでいた。
補給部隊だけではない。
戦闘部隊もいる。
しかも精鋭らしい兵士の姿が見える。
何か大きな作戦が近いのかもしれない。
その時だった。
ミラの動きが止まる。
双眼鏡を覗いたまま固まっている。
異変だった。
彼女はどんな状況でも冷静だった。
そのミラが動かない。
カイは視線を向ける。
遠方に一人の将校がいた。
帝国軍の高級将校らしい男だった。
周囲には護衛兵。
装備も他の兵士とは違う。
重要人物なのは間違いない。
ミラはゆっくりと双眼鏡を置く。
そして狙撃銃を構えた。
空気が変わる。
狙撃手が獲物を捉えた時の空気だった。
スコープを覗く。
呼吸を整える。
風を読む。
距離およそ八百メートル。
普通の兵士なら不可能な距離。
だがミラなら届く。
彼女の腕なら間違いなく仕留められる。
カイもそう思った。
だが。
いつまで経っても銃声は鳴らなかった。
ミラは撃たない。
いや、撃てない。
その横顔を見た瞬間、カイは初めて彼女が迷っていることに気付いた。
数秒。
いや数十秒だったかもしれない。
やがてミラはゆっくりと銃口を下ろした。
そして小さく舌打ちする。
「クソが」
珍しく感情が滲んでいた。
◇
帰還後。
ミラは一人で煙草を吸っていた。
夕暮れの廃墟。
崩れた壁の上。
彼女の定位置だった。
カイは少し迷ったが近付く。
聞いてはいけない気もした。
だが聞かなければ後悔する気もした。
「今日の敵将校」
ミラは煙を吐く。
赤く染まる空を見上げたまま答えた。
「あいつが弟を殺した」
その一言で全てが繋がった。
ミラが戦争で家族を失ったことは知っている。
弟がいたことも。
だが相手までは知らなかった。
「七年前だ」
ミラは続ける。
「弟は十五歳だった」
共和国軍は人手不足だった。
若者も老人も戦場へ送られた。
十五歳の少年すら例外ではなかった。
「初陣だった」
煙草の火が揺れる。
「部隊は全滅した」
その声は静かだった。
怒鳴りもしない。
泣きもしない。
だがだからこそ重かった。
「生き残りが言ってた」
ミラは目を閉じる。
「あの将校が指揮していたってな」
長年抱え続けた憎しみだった。
七年間。
彼女はその男を探し続けていたのかもしれない。
そして今日。
ようやく見つけた。
復讐の相手を。
「撃てば終わってた」
ミラが呟く。
「私は外さない」
事実だった。
誰も否定できない。
だが彼女は撃たなかった。
「どうしてです?」
カイは聞く。
ミラはしばらく黙っていた。
やがて煙草を地面へ落とす。
「子供がいた」
短い言葉だった。
「将校の近くに」
カイは理解する。
スコープ越しに見えていたのだろう。
捕虜か。
避難民か。
理由は分からない。
だが子供がいた。
「撃てば当たる」
ミラは言う。
「でも外れたら」
その続きを口にする必要はなかった。
子供が死ぬ。
それだけだった。
復讐は果たせる。
だが代償として別の命が失われる。
戦争はいつもそうだ。
誰かを守れば誰かが死ぬ。
誰かを救えば誰かを見捨てる。
正解など存在しない。
「私は弱くなったのかな」
ミラが呟く。
その声は初めて聞くほど弱々しかった。
カイは少し考える。
そして答えた。
「違うと思います」
ミラがこちらを見る。
「まだ人間のままなんです」
風が吹いた。
長い沈黙。
やがてミラは苦笑する。
それは戦場では滅多に見せない表情だった。
「お前」
小さく笑う。
「本当に兵士に向いてないな」
それが褒め言葉なのかどうかは分からなかった。
◇
その夜だった。
警報が鳴り響いたのは。
最初は一つだった。
だが次第に数を増していく。
サイレン。
怒号。
慌ただしく動く兵士たち。
カイは飛び起きた。
異変はすぐに分かった。
空だった。
夜空に無数の光が浮かんでいる。
星ではない。
鳥でもない。
機械だった。
ドローン。
数十。
いや百以上。
夜空を埋め尽くすほどの数。
誰かが絶望したように呟く。
「なんだよ……あれ……」
答えは次の瞬間に示された。
爆発。
爆発。
爆発。
無数の自爆ドローンが共和国軍陣地へ突っ込む。
炎が上がる。
建物が吹き飛ぶ。
悲鳴が響く。
夜が赤く染まる。
新しい戦争だった。
新しい殺し方だった。
そしてその地獄の中で、レオ・ヴァルターの怒声が響く。
「総員戦闘配置!!」
兵士たちが駆け出す。
燃え上がる空の下へ。
さらなる戦場の中へ。
そしてカイはまだ知らない。
この夜の襲撃が、第七小隊の運命を大きく変える戦いの始まりになることを。




