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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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第五話 狙撃手の見る景色

戦争は人を変える。


 それは劇的な出来事によって一瞬で変わるわけではない。むしろその逆だった。毎日のように積み重なる恐怖と疲労と喪失が、少しずつ人間を削り、削られた部分を戦場向きの何かへ作り変えていく。


 昨日まで死体を見るたびに吐き気を催していた兵士が、ある日気付けば食事をしながら戦死者の回収作業を見ている。


 昨日まで砲撃の音に身を竦ませていた兵士が、いつの間にか砲弾の落下位置を音だけで判断するようになる。


 昨日まで眠れなかった夜に眠れるようになる。


 それは強くなったわけではない。


 ただ慣れてしまっただけだ。


 生き残るために。


 壊れないために。


 人間という生き物が持つ適応能力がそうさせる。


 そしてカイ・アーヴィングは、自分自身にもその変化が起き始めていることを感じていた。


 前線へ送られてからまだ十日も経っていない。


 それなのに、初日に感じた恐怖が少しずつ薄れている。


 それが何より恐ろしかった。



 トマスが後方病院へ搬送されてから三日が過ぎていた。


 第七小隊は再び灰色地帯最前線へ戻っている。


 補充兵は来なかった。


 連隊全体で人員不足が深刻化しているらしい。


 長引く戦争は兵士を消耗させる。


 死者。


 負傷者。


 脱走者。


 精神を病む者。


 それら全てを補えるほどの若者はもう残っていない。


 戦争が長く続けば続くほど軍は痩せ細っていく。


 それは共和国軍も帝国軍も同じだった。


 第七小隊も今では八名しかいない。


 本来なら二十名近くいるはずの部隊だった。


 それでも任務は減らない。


 むしろ増えている。


 前線が押され始めているからだ。


 その日の任務は敵補給路の偵察だった。


 少人数で行う潜入任務。


 同行者はミラ・クロウ軍曹。


 第七小隊最古参の狙撃手だった。


 夜明け前。


 二人は陣地を出発した。


 朝靄の中を歩きながら、カイは周囲へ視線を巡らせる。


 灰色地帯は相変わらず死んでいた。


 かつて工業都市だった場所には崩れた工場が並び、煙突は途中から折れ、巨大な鉄骨は錆びついたまま横たわっている。


 戦争が始まる前、この場所には何万人もの人々が暮らしていたらしい。


 工員が働き。


 子供が学校へ通い。


 家族が夕食を囲む。


 そんな当たり前の日常があったはずだった。


 だが今は違う。


 聞こえるのは風の音と遠くの砲声だけだ。


 都市は死んでいた。


 そして死んだ都市の中を兵士たちだけが歩いている。


 まるで墓場を彷徨う亡霊のようだった。


 先を歩くミラはほとんど音を立てない。


 崩れた瓦礫を避け、射線を確認し、敵が潜みそうな場所を自然に警戒している。


 その動きには一切の無駄がなかった。


 長年戦場で生き延びてきた兵士の動きだった。


 やがて二人は廃工場地帯の中央にある給水塔へ辿り着く。


 高所。


 視界良好。


 偵察には最適な場所だった。


 ミラは慣れた様子で双眼鏡を構えた。


 カイも隣へ伏せる。


 遠方には帝国軍の野営地が見えた。


 補給車両。


 歩兵部隊。


 弾薬庫。


 装甲車両。


 以前見た時より明らかに規模が大きい。


 敵軍は増強されている。


 それは素人のカイにも分かった。


「増えてるな」


 思わず呟く。


 ミラは短く頷いた。


「嫌な増え方だ」


 その声には警戒が滲んでいた。


 補給部隊だけではない。


 戦闘部隊もいる。


 しかも精鋭らしい兵士の姿が見える。


 何か大きな作戦が近いのかもしれない。


 その時だった。


 ミラの動きが止まる。


 双眼鏡を覗いたまま固まっている。


 異変だった。


 彼女はどんな状況でも冷静だった。


 そのミラが動かない。


 カイは視線を向ける。


 遠方に一人の将校がいた。


 帝国軍の高級将校らしい男だった。


 周囲には護衛兵。


 装備も他の兵士とは違う。


 重要人物なのは間違いない。


 ミラはゆっくりと双眼鏡を置く。


 そして狙撃銃を構えた。


 空気が変わる。


 狙撃手が獲物を捉えた時の空気だった。


 スコープを覗く。


 呼吸を整える。


 風を読む。


 距離およそ八百メートル。


 普通の兵士なら不可能な距離。


 だがミラなら届く。


 彼女の腕なら間違いなく仕留められる。


 カイもそう思った。


 だが。


 いつまで経っても銃声は鳴らなかった。


 ミラは撃たない。


 いや、撃てない。


 その横顔を見た瞬間、カイは初めて彼女が迷っていることに気付いた。


 数秒。


 いや数十秒だったかもしれない。


 やがてミラはゆっくりと銃口を下ろした。


 そして小さく舌打ちする。


「クソが」


 珍しく感情が滲んでいた。



 帰還後。


 ミラは一人で煙草を吸っていた。


 夕暮れの廃墟。


 崩れた壁の上。


 彼女の定位置だった。


 カイは少し迷ったが近付く。


 聞いてはいけない気もした。


 だが聞かなければ後悔する気もした。


「今日の敵将校」


 ミラは煙を吐く。


 赤く染まる空を見上げたまま答えた。


「あいつが弟を殺した」


 その一言で全てが繋がった。


 ミラが戦争で家族を失ったことは知っている。


 弟がいたことも。


 だが相手までは知らなかった。


「七年前だ」


 ミラは続ける。


「弟は十五歳だった」


 共和国軍は人手不足だった。


 若者も老人も戦場へ送られた。


 十五歳の少年すら例外ではなかった。


「初陣だった」


 煙草の火が揺れる。


「部隊は全滅した」


 その声は静かだった。


 怒鳴りもしない。


 泣きもしない。


 だがだからこそ重かった。


「生き残りが言ってた」


 ミラは目を閉じる。


「あの将校が指揮していたってな」


 長年抱え続けた憎しみだった。


 七年間。


 彼女はその男を探し続けていたのかもしれない。


 そして今日。


 ようやく見つけた。


 復讐の相手を。


「撃てば終わってた」


 ミラが呟く。


「私は外さない」


 事実だった。


 誰も否定できない。


 だが彼女は撃たなかった。


「どうしてです?」


 カイは聞く。


 ミラはしばらく黙っていた。


 やがて煙草を地面へ落とす。


「子供がいた」


 短い言葉だった。


「将校の近くに」


 カイは理解する。


 スコープ越しに見えていたのだろう。


 捕虜か。


 避難民か。


 理由は分からない。


 だが子供がいた。


「撃てば当たる」


 ミラは言う。


「でも外れたら」


 その続きを口にする必要はなかった。


 子供が死ぬ。


 それだけだった。


 復讐は果たせる。


 だが代償として別の命が失われる。


 戦争はいつもそうだ。


 誰かを守れば誰かが死ぬ。


 誰かを救えば誰かを見捨てる。


 正解など存在しない。


「私は弱くなったのかな」


 ミラが呟く。


 その声は初めて聞くほど弱々しかった。


 カイは少し考える。


 そして答えた。


「違うと思います」


 ミラがこちらを見る。


「まだ人間のままなんです」


 風が吹いた。


 長い沈黙。


 やがてミラは苦笑する。


 それは戦場では滅多に見せない表情だった。


「お前」


 小さく笑う。


「本当に兵士に向いてないな」


 それが褒め言葉なのかどうかは分からなかった。



 その夜だった。


 警報が鳴り響いたのは。


 最初は一つだった。


 だが次第に数を増していく。


 サイレン。


 怒号。


 慌ただしく動く兵士たち。


 カイは飛び起きた。


 異変はすぐに分かった。


 空だった。


 夜空に無数の光が浮かんでいる。


 星ではない。


 鳥でもない。


 機械だった。


 ドローン。


 数十。


 いや百以上。


 夜空を埋め尽くすほどの数。


 誰かが絶望したように呟く。


「なんだよ……あれ……」


 答えは次の瞬間に示された。


 爆発。


 爆発。


 爆発。


 無数の自爆ドローンが共和国軍陣地へ突っ込む。


 炎が上がる。


 建物が吹き飛ぶ。


 悲鳴が響く。


 夜が赤く染まる。


 新しい戦争だった。


 新しい殺し方だった。


 そしてその地獄の中で、レオ・ヴァルターの怒声が響く。


「総員戦闘配置!!」


 兵士たちが駆け出す。


 燃え上がる空の下へ。


 さらなる戦場の中へ。


 そしてカイはまだ知らない。


 この夜の襲撃が、第七小隊の運命を大きく変える戦いの始まりになることを。

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