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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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第四話 初陣の代償

人は守るものができた時、本当の意味で戦う理由を得る。


 そして同時に、失うことへの恐怖も知る。


 カイ・アーヴィングがその事実を理解したのは、敵国の少女ノアを保護してから数日後のことだった。


 灰色地帯の朝は今日も砲声と共に始まった。


 遠くで砲撃が続いている。空は厚い雲に覆われ、太陽の姿は見えない。爆発で舞い上がった灰が風に乗って流れ、戦場全体を薄い霧のように覆っていた。


 カイは崩れた建物の窓際から外を眺めていた。


 共和国軍第七小隊の仮設陣地となっているこの廃校舎にも、少しずつ日常のようなものが生まれ始めている。


 ノアがその中心にいた。


 最初は怯えきっていた少女も、今では少しだけ表情を見せるようになった。まだ笑うことは少ないが、エリクの差し出す食事を素直に受け取り、トマスが話しかければ小さく返事をするようになっている。


 戦場の中で生まれた小さな変化だった。


 それだけのことなのに、どこか救われる気持ちになる。


 だが戦争はそんなささやかな平穏を長く許してはくれなかった。


 通信機が鳴ったのは午前九時過ぎだった。


 トマスが受信し、数秒後には顔色を変えてレオへ視線を向ける。


 嫌な予感しかしなかった。


 これまでの経験で分かる。


 前線で届く命令に良い知らせなど存在しない。


 レオは無言で通信を受け取った。


 短い会話。


 短い沈黙。


 そして通信終了。


 小隊長の表情はほとんど変わらなかったが、それでも僅かな緊張が滲んでいた。


「第三防衛線が突破された」


 その一言で空気が変わる。


 誰も声を上げない。


 だが誰もが事態の深刻さを理解していた。


 第三防衛線は灰色地帯東部の重要拠点だ。そこが破られたということは、敵軍が共和国軍の後方補給路へ接近できるという意味だった。


「敵は機甲部隊を投入したらしい」


 レオは地図を広げる。


 その指が示したのは旧鉄道基地だった。


「本隊が到着するまでここを防衛する」


 誰も質問しない。


 なぜなら答えは分かっている。


 人数不足。


 火力不足。


 それでもやるしかない。


 それが前線部隊の仕事だからだ。


 カイは地図を見つめながら唾を飲み込んだ。


 戦場へ来てまだ数日。


 それでも理解できる。


 この任務は危険だ。


 かなり危険だ。


 そして誰もそれを口にしない。


 危険であることなど当たり前だからだった。



 旧鉄道基地は戦争によって死んだ場所だった。


 かつて大陸中へ物資を運んでいた巨大施設は、今では砲撃によって半壊し、線路は捻じ曲がり、貨車は黒く焼け焦げている。


 それでも軍事的価値は高かった。


 視界が広い。


 高所が多い。


 防衛陣地を構築しやすい。


 つまり攻める側にとっても守る側にとっても重要拠点だった。


 第七小隊は到着と同時に防衛準備へ取り掛かった。


 土嚢を積む。


 射線を確保する。


 退避経路を確認する。


 全員が慣れた動きで作業を進めていく。


 カイも指示に従って動いていたが、内心は落ち着かなかった。


 胸の奥がざわついている。


 何かが起きる。


 そんな予感が離れない。


 やがてミラが双眼鏡を下ろした。


「来た」


 その一言で全員が動きを止める。


 地平線の彼方。


 灰色の大地を黒い影が進んでいた。


 敵軍だった。


 歩兵。


 装甲車両。


 輸送車。


 砂煙を上げながら一直線に迫ってくる。


 数は明らかに第七小隊を上回っていた。


 十人足らずの部隊が相手にする規模ではない。


 それでも退却命令は出ていない。


 つまり戦うしかない。


「配置につけ」


 レオの声は静かだった。


 だからこそ全員が従う。


 カイはライフルを握る。


 手の震えは以前より小さい。


 だが消えてはいない。


 恐怖はまだそこにある。


 戦争に慣れたわけではない。


 ただ恐怖を抱えたまま動く方法を少しずつ覚え始めているだけだった。


 それが良いことなのか悪いことなのか、カイにはまだ分からなかった。



 砲撃は正午ちょうどに始まった。


 敵砲弾が基地全体へ降り注ぐ。


 轟音が連続する。


 地面が揺れる。


 鉄骨が吹き飛ぶ。


 爆風が身体を叩く。


 まるで世界そのものが崩壊していくような光景だった。


 カイは土嚢の陰へ身を伏せながら必死に耐えた。


 耳が痛い。


 肺が震える。


 心臓が暴れる。


 それでも逃げ場はない。


 砲撃は十分近く続いた。


 そしてようやく止む。


 その意味を全員が理解していた。


 次に来るのは歩兵だ。


「構えろ!」


 レオが叫ぶ。


 敵兵が前進してくる。


 煙の向こうから無数の影が現れる。


 距離三百メートル。


 二百五十。


 二百。


「撃て!!」


 銃声が一斉に響いた。


 ミラの狙撃銃が火を吹く。


 一人。


 二人。


 三人。


 敵兵が倒れる。


 機関銃が吠える。


 弾丸が飛び交う。


 怒号が響く。


 人が倒れる。


 戦争だった。


 純粋な殺し合いだった。


 カイも引き金を引いた。


 以前のような躊躇はなかった。


 敵が近づけば仲間が死ぬ。


 それを知ってしまったからだ。


 照準を合わせる。


 撃つ。


 反動。


 再装填。


 また撃つ。


 敵兵が倒れたかどうかは分からない。


 確認する余裕もない。


 ただ目の前の敵を止めることだけを考える。


 それだけで精一杯だった。


 だが戦場はさらに残酷だった。


「左翼だ!」


 誰かが叫ぶ。


 敵部隊の一部が側面へ回り込んでいた。


 防衛線の薄い部分を突いてきたのだ。


 レオが即座に指示を飛ばす。


 ミラが狙撃位置を変える。


 エリクが弾薬を運ぶ。


 トマスが本部へ支援を要請する。


 誰もが必死だった。


 そして。


 その瞬間はあまりにも突然訪れた。


 銃声。


 一発。


 たったそれだけ。


 トマスの身体が後方へ吹き飛んだ。


 通信機が地面へ転がる。


 血が飛び散る。


 肩口から真っ赤な血が溢れ出していた。


 カイの思考が止まる。


 理解が追いつかない。


 さっきまで隣にいた仲間だった。


 一緒に飯を食った。


 くだらない話をした。


 笑っていた。


 その男が今、血まみれで倒れている。


「トマス!」


 エリクが駆け出す。


 衛生兵の本能だった。


 敵弾が飛び交う中を迷わず走る。


 カイはその光景を見ながら凍り付いていた。


 怖かった。


 死が近すぎた。


 そしてその恐怖は怒りへ変わる。


 敵兵が迫る。


 ライフルを構える。


 引き金を引く。


 一発。


 二発。


 三発。


 気付けば夢中で撃っていた。


 仲間を撃たれた怒り。


 死への恐怖。


 何もかもが混ざり合い、銃弾となって飛んでいく。


 その時だった。


 遠方で新たな砲声が響く。


 敵ではない。


 味方だった。


 共和国軍本隊の支援砲撃だった。


 敵前線が爆炎に呑まれる。


 歩兵隊が後退する。


 攻勢が崩れる。


 そして戦闘は終わった。



 夕暮れ。


 旧鉄道基地には静寂が戻っていた。


 完全な静寂ではない。


 遠くではまだ戦争が続いている。


 だが少なくとも、この場所での戦いは終わった。


 トマスは生きていた。


 奇跡的に。


 銃弾は肩を貫通しただけだった。


 だが前線復帰は難しい。


 後方病院へ送られることになる。


 仲間たちは安堵していた。


 本当に少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 死ななかった。


 それだけで十分だった。


 夜になり、陣地へ戻ったカイを迎えたのはノアだった。


 少女は彼の姿を見るなり駆け寄ってくる。


 そして何も言わず服を掴んだ。


 離さない。


 小さな身体が震えている。


 戦場の音が聞こえていたのだろう。


 帰ってこないかもしれないと思ったのだろう。


 カイはゆっくりと少女の頭を撫でた。


 ノアは俯いたまま何も言わない。


 それでも分かった。


 心配していたのだ。


 待っていてくれたのだ。


 その温もりを感じながら、カイは静かに空を見上げた。


 灰色の空は変わらない。


 戦争も終わらない。


 明日もまた戦うことになるだろう。


 それでも。


 帰りを待ってくれる誰かがいる。


 その事実だけが、兵士になりきれない彼の心を繋ぎ止めていた。

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