第三話 撃てない引き金
少女は最初、一言も喋らなかった。
廃墟から連れ出された後も、帰還する道中も、そして第七小隊の仮設陣地へ到着した後も。
ただ怯えた小動物のように周囲を警戒していた。
それも無理はない。
彼女から見れば、カイたちは家族や故郷を奪った敵兵なのだ。
捕虜になったと思っているのかもしれない。
処刑されると思っているのかもしれない。
実際、この戦場では珍しい話ではなかった。
だから誰も無理に話しかけなかった。
エリクだけは違ったが。
「ほら」
衛生兵は温めたスープを差し出した。
少女は受け取らない。
警戒している。
エリクは困ったように笑った。
「毒なんか入ってないぞ」
当然、伝わらない。
言葉が違うのだ。
それでも彼は諦めなかった。
自分で一口飲む。
そして再び差し出す。
少女はしばらく迷った末、恐る恐る受け取った。
冷え切った指が震えている。
やせ細った身体。
汚れた顔。
戦争が子供から何を奪うのか、その全てがそこにあった。
カイは少し離れた場所からそれを見ていた。
妙な気分だった。
敵国の人間。
本来なら憎むべき相手。
そう教えられてきた。
だが目の前にいるのは兵士でも将軍でもない。
ただの少女だった。
それ以上でもそれ以下でもない。
「優しいな、お前」
不意にミラが隣へ腰を下ろした。
狙撃銃を抱えたまま煙草に火を付ける。
「そうですか?」
「普通は見て見ぬふりする」
紫煙を吐く。
「この戦場じゃな」
カイは返答できなかった。
ミラは少しだけ遠くを見る。
その目はどこか寂しそうだった。
「弟がいた」
突然だった。
カイは思わず彼女を見る。
ミラは煙草を咥えたまま続ける。
「お前と同じくらいの年だった」
静かな声だった。
「戦争が始まった年に死んだ」
それだけ言う。
だがそれだけで十分だった。
彼女がなぜあんな目をしているのか。
なぜ戦場に居続けるのか。
少しだけ理解できた気がした。
「だから助けたのかもしれないな」
ミラは少女へ視線を向けた。
「弟を重ねて」
カイは何も言えなかった。
否定できなかった。
妹の顔が浮かんだからだ。
故郷に残してきた家族の顔が。
◇
夜になった。
砲撃が止むことはない。
ただ昼より少し遠くなっただけだ。
戦場に静寂は存在しない。
誰かが死ぬ音が、どこかで必ず鳴っている。
第七小隊は交代で見張りを行っていた。
カイも初めて夜警を任される。
崩れた建物の屋上。
冷たい風が吹いていた。
遠くで曳光弾が流れる。
夜空を横切る赤い光は、まるで流れ星のようだった。
だが願い事など叶わない。
あれは人を殺す光だ。
「眠れないか」
声がした。
レオだった。
缶コーヒーを持っている。
戦場には似合わない代物だった。
「少しだけだ」
中尉は隣へ腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。
砲声だけが聞こえる。
やがてレオが口を開いた。
「初めて人を殺した時のことを覚えてるか?」
カイは首を振る。
「まだ人を撃ってません」
「そうだったな」
レオは苦笑した。
そして缶コーヒーを一口飲む。
「俺は覚えてる」
視線は遠くを見ていた。
「十七年前だ」
驚いた。
十七年。
カイが生まれるより前から戦っていることになる。
「怖かったですか」
「死ぬほどな」
即答だった。
「吐いた」
少し笑う。
「三回」
その答えが意外だった。
レオは強い。
誰よりも冷静で、誰よりも戦場に慣れている。
そんな男でも。
最初は違ったのだ。
「慣れるんですか」
レオは少し考えた。
「慣れるしかなかった」
そして続ける。
「だが忘れるな」
低い声だった。
「慣れることと、当たり前になることは違う」
カイは黙って聞く。
「撃つ時に迷うな」
レオは言う。
「だが撃った後に悩め」
その言葉だけが妙に胸へ残った。
◇
翌朝。
事件は突然起きた。
監視哨から緊急連絡が入ったのだ。
「接敵!」
通信機越しの怒号。
「敵斥候部隊!」
陣地に緊張が走る。
全員が武器を取った。
レオが即座に指示を飛ばす。
「迎撃準備!」
兵士たちが配置につく。
カイもライフルを握る。
心臓が激しく脈打つ。
昨日とは違う。
今回は砲撃ではない。
敵兵だ。
人間だ。
自分も撃たなければならない。
そう理解していた。
やがて敵影が見えた。
五人。
廃墟の間を移動している。
敵国軍の斥候部隊だった。
「距離二百」
ミラがスコープを覗く。
「いつでもいける」
レオが頷く。
「引き付けろ」
緊張が高まる。
汗が流れる。
指先が震える。
カイは照準を合わせた。
敵兵の顔が見える。
若い。
自分と変わらない。
二十歳前後だろう。
銃を抱えながら必死に周囲を警戒している。
その姿は。
まるで自分だった。
「撃て」
レオの命令。
だが。
指が動かなかった。
引き金を引けない。
人間だ。
敵だ。
撃たなければ仲間が危険になる。
理解している。
それでも。
どうしても撃てない。
次の瞬間だった。
パンッ――
乾いた銃声。
敵兵の頭部が弾け飛ぶ。
ミラだった。
続く二発。
二人目。
三人目。
敵部隊が混乱する。
「伏せろ!」
敵が叫ぶ。
戦闘が始まった。
銃声。
爆音。
怒号。
弾丸が飛び交う。
その混乱の中。
一人の敵兵が瓦礫を回り込み、カイの死角へ現れた。
距離十メートル。
近い。
敵もカイを見た。
若い兵士だった。
驚いた顔をしている。
互いに照準を向ける。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
時間が止まったように感じた。
そして。
相手の方が速かった。
銃口がこちらへ向く。
死ぬ。
そう思った。
だが。
銃声が響いたのは敵の後方だった。
敵兵の胸が弾ける。
身体が崩れる。
ミラの援護射撃だった。
カイは助かった。
だが。
その場から動けなかった。
足が震えている。
恐怖ではない。
理解してしまったからだ。
今、自分は死にかけた。
そして。
自分が撃てなかったせいで。
ミラが代わりに人を殺した。
戦闘は十分後に終わった。
敵斥候部隊は壊滅。
第七小隊に死者はいない。
勝利だった。
だが。
カイの胸には何も残らなかった。
その夜。
彼は一人で座り込んでいた。
ライフルを見つめる。
震える手を握り締める。
自分は兵士になれないのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
その時。
背後から小さな足音が聞こえた。
振り返る。
敵国の少女だった。
彼女は少しだけ迷い。
そして震える声で言った。
「……カイ」
初めてだった。
少女が喋ったのは。
そして。
初めて名前を呼ばれたのも。
カイは目を見開く。
少女は続ける。
「……ありがとう」
拙い共和国語だった。
それでも意味は十分伝わった。
その一言だけで。
少しだけ救われた気がした。
だが同時に。
戦争の残酷さも知る。
守りたい命ができればできるほど。
人は引き金を引かなければならなくなるのだから。




