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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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2/20

第二話 名前の消える場所

戦場では、人は二度死ぬ。


 一度目は肉体が死んだ時。


 二度目は名前が忘れられた時。


 その言葉をカイが聞いたのは、前線到着から半日後のことだった。


 砲撃は昼を過ぎても止まなかった。


 空は相変わらず灰色で、遠くでは断続的に爆発音が響き続けている。第七小隊が身を隠している廃墟も、いつ吹き飛ばされてもおかしくないほどボロボロだった。


 崩れた壁。


 穴だらけの天井。


 割れた窓。


 かつては学校だった建物らしい。


 床には子供用の机や椅子が散乱し、黒板には消えかけた文字が残っていた。


 戦争が始まる前、この場所にも日常があったのだろう。


 そんな当たり前の事実が、妙に胸を締め付けた。


「食え」


 突然、缶詰が投げられる。


 慌てて受け取ると、ミラが壁際に座ったままこちらを見ていた。


「倒れられても困る」


 相変わらず無愛想だった。


 だが昨日より少しだけ声が柔らかい気がした。


 カイは礼を言い、缶を開ける。


 中身は豆と肉を煮込んだものだった。


 冷たい。


 味も薄い。


 だが空腹の胃には十分だった。


 共和国軍に入隊してから何度も食べた戦闘糧食だが、こんなにも美味く感じたことはない。


 生きている。


 それだけで味が変わるらしい。


「慣れたか?」


 隣で通信機を整備していたトマスが話しかけてきた。


 まだ顔色は悪い。


 だが気さくな男だった。


「全然」


「だろうな」


 苦笑する。


「俺も三年経つけど慣れない」


「三年も?」


「徴兵だからな」


 トマスは肩をすくめた。


「気づいたら三年だ」


 その言葉が妙に重かった。


 三年。


 カイはまだ十九歳だ。


 三年前といえば十六歳。


 故郷で畑仕事をしていた頃だ。


 同じ年頃の若者が三年間もこんな場所で戦い続けている。


 それだけで異常だった。


「帰りたいと思わないのか?」


 思わず聞いていた。


 トマスは少し黙った。


「帰りたいさ」


 視線を落とす。


「でも帰れない」


「どうして」


「帰る場所がない」


 その答えにカイは何も言えなくなる。


 戦争は人だけではなく、故郷も奪う。


 当たり前の事実を突き付けられた気がした。


 その時だった。


 建物の奥から声が響く。


「全員集まれ」


 レオだった。


 小隊員たちが動き出す。


 ミラが立ち上がる。


 トマスが通信機を抱える。


 エリクも救急バッグを肩に掛けた。


 自然な動きだった。


 長い時間を共に過ごした者たちの動き。


 カイだけがまだ馴染めない。


 急いで後を追った。


 崩れた教室に集まった小隊員は十名ほど。


 想像より少ない。


 歩兵小隊としては明らかに人数不足だった。


 レオは机の上に地図を広げていた。


「命令が来た」


 誰も喜ばない。


 むしろ顔が曇る。


 命令とは大抵ろくなものではないらしい。


「補給車両が消息を絶った」


 レオは地図の一点を指差した。


「三キロ先の旧市街地だ」


「またか」


 ミラが吐き捨てる。


「今月だけで四回目だ」


「上は敵の襲撃と判断している」


「上は何でも敵のせいにする」


 小さく笑いが起きる。


 だが目は笑っていない。


 レオは続けた。


「俺たちの任務は確認だ。生存者がいれば救出。可能なら補給物資も回収する」


「つまり」


 トマスが顔をしかめる。


「死体探しか」


「そうなるな」


 沈黙が落ちた。


 カイはその空気に戸惑う。


 死体を探しに行く。


 それを当たり前のように話している。


 だが誰も驚いていない。


 戦場ではそれが日常なのだ。


「出発は十分後」


 レオが言う。


「準備しろ」


 作戦会議は終わった。


 誰も文句を言わない。


 言っても無駄だからだ。


 カイはライフルを握り締めた。


 手汗で滑りそうになる。


 心臓が早い。


 昨日より少しだけ落ち着いている自分が嫌だった。


 戦争に慣れ始めている。


 その事実が怖かった。



 旧市街地は死んでいた。


 建物のほとんどが崩壊し、道路は砲撃で抉られている。


 風が吹くたびに灰が舞う。


 誰もいない。


 鳥すらいない。


 まるで世界から生命だけが消えたような光景だった。


 第七小隊は慎重に進む。


 全員が周囲を警戒している。


 物音一つ見逃さない。


 やがて先頭を歩いていたミラが拳を上げた。


 停止の合図。


 全員が身を伏せる。


「見つけた」


 小さな声。


 その先には横転した軍用トラックがあった。


 共和国軍の補給車両だった。


 車体は焼け焦げている。


 周囲には複数の死体。


 兵士たちだった。


 カイの喉が鳴る。


 まだ新しい。


 昨日か一昨日の死体だ。


 レオが前へ出る。


 しゃがみ込む。


 地面を見る。


 車体を見る。


 遺体を見る。


 そして表情を変えた。


「違うな」


「何が?」


 ミラが聞く。


「敵軍じゃない」


 その言葉に空気が変わる。


「銃創がない」


 レオは死体を示した。


「爆発でもない」


 カイも近づく。


 そして気づいた。


 兵士たちの身体には傷が少ない。


 だが顔だけが恐怖に歪んでいた。


 何かを見たような。


 何かから逃げたような。


 そんな表情だった。


「……なんだこれ」


 トマスが呟く。


 誰も答えられない。


 その時だった。


 廃墟の奥から小さな音がした。


 カイだけが聞いた。


 かすかな物音。


 誰かが動いた音。


「待って」


 反射的に声を上げる。


 全員の視線が集まった。


「今、何か……」


 言い終わる前にカイは走り出していた。


 崩れた建物の中へ飛び込む。


 誰かいる。


 そう確信していた。


 瓦礫を越える。


 廊下を進む。


 そして――


 見つけた。


 少女だった。


 十歳くらい。


 痩せ細っている。


 汚れたコートを着ていた。


 怯えた瞳でこちらを見ている。


 敵国の子供だった。


 腕章が証明していた。


 カイは立ち止まる。


 少女も動かない。


 互いに見つめ合う。


 その瞳には憎しみがなかった。


 ただ恐怖だけがあった。


 戦争に巻き込まれた子供の目だった。


 その時、後ろからレオたちが追いつく。


 ミラがライフルを構える。


 反射的な行動だった。


 少女が震える。


 カイは無意識に前へ出ていた。


「待ってください!」


 ミラが眉をひそめる。


「敵国民だ」


「子供です」


「敵国のな」


「それでも」


 言葉が詰まる。


 だが引かなかった。


 少女の目が妹と重なったのだ。


 故郷に残した妹と。


 もし立場が逆だったら。


 もし故郷が戦場になったら。


 同じ目をするだろう。


 レオは黙って二人を見ていた。


 長い沈黙。


 やがて彼は小さく息を吐く。


「保護しましょう」


 ミラが顔をしかめる。


「面倒になるぞ」


「わかっています」


 レオは答える。


「けど見捨てる方が後味が悪いので」


 それだけだった。


 少女は呆然としていた。


 信じられないのだろう。


 敵兵に助けられることが。


 カイも同じだった。


 だがその選択が。


 この少女との出会いが。


 やがて戦争そのものを揺るがすことになるとは。


 まだ誰も知らなかった。

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