第二話 名前の消える場所
戦場では、人は二度死ぬ。
一度目は肉体が死んだ時。
二度目は名前が忘れられた時。
その言葉をカイが聞いたのは、前線到着から半日後のことだった。
砲撃は昼を過ぎても止まなかった。
空は相変わらず灰色で、遠くでは断続的に爆発音が響き続けている。第七小隊が身を隠している廃墟も、いつ吹き飛ばされてもおかしくないほどボロボロだった。
崩れた壁。
穴だらけの天井。
割れた窓。
かつては学校だった建物らしい。
床には子供用の机や椅子が散乱し、黒板には消えかけた文字が残っていた。
戦争が始まる前、この場所にも日常があったのだろう。
そんな当たり前の事実が、妙に胸を締め付けた。
「食え」
突然、缶詰が投げられる。
慌てて受け取ると、ミラが壁際に座ったままこちらを見ていた。
「倒れられても困る」
相変わらず無愛想だった。
だが昨日より少しだけ声が柔らかい気がした。
カイは礼を言い、缶を開ける。
中身は豆と肉を煮込んだものだった。
冷たい。
味も薄い。
だが空腹の胃には十分だった。
共和国軍に入隊してから何度も食べた戦闘糧食だが、こんなにも美味く感じたことはない。
生きている。
それだけで味が変わるらしい。
「慣れたか?」
隣で通信機を整備していたトマスが話しかけてきた。
まだ顔色は悪い。
だが気さくな男だった。
「全然」
「だろうな」
苦笑する。
「俺も三年経つけど慣れない」
「三年も?」
「徴兵だからな」
トマスは肩をすくめた。
「気づいたら三年だ」
その言葉が妙に重かった。
三年。
カイはまだ十九歳だ。
三年前といえば十六歳。
故郷で畑仕事をしていた頃だ。
同じ年頃の若者が三年間もこんな場所で戦い続けている。
それだけで異常だった。
「帰りたいと思わないのか?」
思わず聞いていた。
トマスは少し黙った。
「帰りたいさ」
視線を落とす。
「でも帰れない」
「どうして」
「帰る場所がない」
その答えにカイは何も言えなくなる。
戦争は人だけではなく、故郷も奪う。
当たり前の事実を突き付けられた気がした。
その時だった。
建物の奥から声が響く。
「全員集まれ」
レオだった。
小隊員たちが動き出す。
ミラが立ち上がる。
トマスが通信機を抱える。
エリクも救急バッグを肩に掛けた。
自然な動きだった。
長い時間を共に過ごした者たちの動き。
カイだけがまだ馴染めない。
急いで後を追った。
崩れた教室に集まった小隊員は十名ほど。
想像より少ない。
歩兵小隊としては明らかに人数不足だった。
レオは机の上に地図を広げていた。
「命令が来た」
誰も喜ばない。
むしろ顔が曇る。
命令とは大抵ろくなものではないらしい。
「補給車両が消息を絶った」
レオは地図の一点を指差した。
「三キロ先の旧市街地だ」
「またか」
ミラが吐き捨てる。
「今月だけで四回目だ」
「上は敵の襲撃と判断している」
「上は何でも敵のせいにする」
小さく笑いが起きる。
だが目は笑っていない。
レオは続けた。
「俺たちの任務は確認だ。生存者がいれば救出。可能なら補給物資も回収する」
「つまり」
トマスが顔をしかめる。
「死体探しか」
「そうなるな」
沈黙が落ちた。
カイはその空気に戸惑う。
死体を探しに行く。
それを当たり前のように話している。
だが誰も驚いていない。
戦場ではそれが日常なのだ。
「出発は十分後」
レオが言う。
「準備しろ」
作戦会議は終わった。
誰も文句を言わない。
言っても無駄だからだ。
カイはライフルを握り締めた。
手汗で滑りそうになる。
心臓が早い。
昨日より少しだけ落ち着いている自分が嫌だった。
戦争に慣れ始めている。
その事実が怖かった。
◇
旧市街地は死んでいた。
建物のほとんどが崩壊し、道路は砲撃で抉られている。
風が吹くたびに灰が舞う。
誰もいない。
鳥すらいない。
まるで世界から生命だけが消えたような光景だった。
第七小隊は慎重に進む。
全員が周囲を警戒している。
物音一つ見逃さない。
やがて先頭を歩いていたミラが拳を上げた。
停止の合図。
全員が身を伏せる。
「見つけた」
小さな声。
その先には横転した軍用トラックがあった。
共和国軍の補給車両だった。
車体は焼け焦げている。
周囲には複数の死体。
兵士たちだった。
カイの喉が鳴る。
まだ新しい。
昨日か一昨日の死体だ。
レオが前へ出る。
しゃがみ込む。
地面を見る。
車体を見る。
遺体を見る。
そして表情を変えた。
「違うな」
「何が?」
ミラが聞く。
「敵軍じゃない」
その言葉に空気が変わる。
「銃創がない」
レオは死体を示した。
「爆発でもない」
カイも近づく。
そして気づいた。
兵士たちの身体には傷が少ない。
だが顔だけが恐怖に歪んでいた。
何かを見たような。
何かから逃げたような。
そんな表情だった。
「……なんだこれ」
トマスが呟く。
誰も答えられない。
その時だった。
廃墟の奥から小さな音がした。
カイだけが聞いた。
かすかな物音。
誰かが動いた音。
「待って」
反射的に声を上げる。
全員の視線が集まった。
「今、何か……」
言い終わる前にカイは走り出していた。
崩れた建物の中へ飛び込む。
誰かいる。
そう確信していた。
瓦礫を越える。
廊下を進む。
そして――
見つけた。
少女だった。
十歳くらい。
痩せ細っている。
汚れたコートを着ていた。
怯えた瞳でこちらを見ている。
敵国の子供だった。
腕章が証明していた。
カイは立ち止まる。
少女も動かない。
互いに見つめ合う。
その瞳には憎しみがなかった。
ただ恐怖だけがあった。
戦争に巻き込まれた子供の目だった。
その時、後ろからレオたちが追いつく。
ミラがライフルを構える。
反射的な行動だった。
少女が震える。
カイは無意識に前へ出ていた。
「待ってください!」
ミラが眉をひそめる。
「敵国民だ」
「子供です」
「敵国のな」
「それでも」
言葉が詰まる。
だが引かなかった。
少女の目が妹と重なったのだ。
故郷に残した妹と。
もし立場が逆だったら。
もし故郷が戦場になったら。
同じ目をするだろう。
レオは黙って二人を見ていた。
長い沈黙。
やがて彼は小さく息を吐く。
「保護しましょう」
ミラが顔をしかめる。
「面倒になるぞ」
「わかっています」
レオは答える。
「けど見捨てる方が後味が悪いので」
それだけだった。
少女は呆然としていた。
信じられないのだろう。
敵兵に助けられることが。
カイも同じだった。
だがその選択が。
この少女との出会いが。
やがて戦争そのものを揺るがすことになるとは。
まだ誰も知らなかった。




