第一話 灰色の朝
戦場の朝は、鳥の声ではなく砲声で始まる。
カイ・アーヴィングがその事実を知ったのは、前線に到着してからわずか三分後のことだった。
轟音が空を裂いた。
まるで天そのものが砕けたかのような衝撃に、カイは思わず肩をすくめる。直後、数十メートル先の地面が爆発し、大量の土砂と鉄片が噴き上がった。黒煙が灰色の空へ伸び、遅れて押し寄せた爆風が彼の身体を激しく揺さぶる。
訓練で何度も聞かされた砲撃とはまるで違った。
演習場で鳴る空砲など、子供の遊びだったのだと思い知らされる。
本物の砲撃は空気を震わせる。
本物の砲撃は地面を揺らす。
そして本物の砲撃は、人を殺す。
カイの隣を歩いていた兵士の頭部が消えた。
音は聞こえなかった。
何が起きたのか理解する前に、その兵士の身体だけが二歩、三歩と前へ進み、やがて糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
首から上がなかった。
吹き飛んでいた。
赤黒い血が泥濘へ流れ込んでいく。
ついさっきまで生きていた人間だった。
名前も知らない兵士だった。
だが確かに生きていた。
それが今はもう肉の塊でしかない。
カイは立ち尽くした。
頭が理解を拒絶していた。
農村で生まれ育った十九年間、一度たりとも人の死を見たことはなかった。祖父母ですら穏やかに老衰で亡くなった。血を見る機会など家畜の屠殺くらいしかなく、それですら目を逸らしていた。
そんな青年が、いきなり戦場へ放り込まれたのだ。
耐えられるはずがない。
だが戦場は、誰かの都合で止まってはくれなかった。
「伏せろ、新兵!!」
怒号が飛ぶ。
次の瞬間、強烈な衝撃が背中を襲った。
誰かに突き飛ばされたのだと理解した時には、すでに顔面から泥の中へ突っ込んでいた。
直後、頭上を無数の銃弾が通り過ぎる。
空気を裂く鋭い音。
弾丸が土を穿ち、破片が顔へ降り注ぐ。
反射的に頭を抱え込んだ。
心臓が暴れている。
呼吸がうまくできない。
耳鳴りが止まらない。
硝煙の臭いが肺の奥まで入り込み、胃の中がひっくり返りそうになる。
これが戦争だった。
教本の中の戦争ではない。
新聞の向こう側の戦争でもない。
目の前で人間が死に、自分も次の瞬間には死体になる現実だった。
「顔を上げるな」
低い声が聞こえた。
泥だらけの顔を恐る恐る上げると、一人の将校が塹壕の縁から戦場を見渡していた。
共和国軍の将校用軍服は既に泥と煤で汚れ、本来の色すら分からなくなっている。無精髭の浮いた精悍な顔には古い傷跡が走り、その灰色の瞳だけが異様なほど冷静だった。
まるで砲撃など日常の一部であるかのように。
「お前が補充兵か」
カイは慌てて敬礼しようとしたが、腕が震えてうまく上がらなかった。
「カ、カイ・アーヴィング二等兵です!」
「レオ・ヴァルター中尉だ」
男は短く名乗る。
「死にたくなければ余計なことを考えるな。戦場では考えるより先に身体を動かせ」
それだけ言うと再び双眼鏡を覗いた。
まるで新兵の面倒など見慣れていると言わんばかりだった。
その姿を見て、カイはようやく理解する。
この男は何年も戦場で生き残ってきた兵士なのだと。
自分とは違う。
同じ人間とは思えないほど。
「また新入り?」
不意に別の声がした。
崩れた壁の陰に腰掛けていた女性兵士がこちらを見ている。
長い黒髪を後ろで束ね、膝の上には大型の狙撃銃が置かれていた。
細身の体格とは裏腹に、その眼差しは鋭い。
氷のようだった。
「今回は長生きするといいね」
彼女は皮肉っぽく笑う。
「前の補充兵は半日だった」
軽い口調だった。
だからこそ重かった。
冗談ではないのだろう。
この戦場では実際に半日も生きられない兵士がいる。
それが現実なのだ。
「ミラ・クロウ軍曹だ」
レオが説明する。
「狙撃手だ」
「よろしく、新兵」
歓迎の言葉には聞こえなかった。
だが悪意も感じなかった。
ただ事実を述べているだけだった。
死ぬかもしれない。
だから期待しない。
それがこの部隊の流儀なのかもしれない。
その時だった。
「敵無人機!」
甲高い声が響く。
通信機を抱えた若い兵士が空を指差していた。
顔面蒼白だった。
「上空三時方向! 偵察ドローン!」
カイも空を見上げる。
灰色の雲の下。
小さな黒点が飛んでいた。
最初は鳥かと思った。
だが規則正しく旋回するその動きは機械そのものだった。
敵の目だ。
あれがこちらを発見すれば、数分後には砲弾が降ってくる。
訓練で教わった通りだった。
「トマス」
レオが通信兵を呼ぶ。
「敵砲兵の反応は」
「もう始まってる!」
その返答とほぼ同時だった。
遠くで閃光が走る。
戦場に慣れていないカイでさえ分かった。
あれはまずい。
非常にまずい。
「移動するぞ」
レオが立ち上がる。
声に焦りはない。
だが命令は速かった。
「全員走れ」
その瞬間。
空が再び唸った。
砲弾が飛来する音だった。
カイの全身が凍り付く。
本能が危険を叫んでいた。
「走れえええっ!!」
誰かの怒鳴り声を合図に、第七小隊は塹壕から飛び出した。
泥濘を蹴り上げながら走る。
後方で爆発が起きる。
爆風が背中を押す。
転びそうになる。
だが止まれない。
止まれば死ぬ。
それだけは理解できた。
肺が焼けるように痛い。
足がもつれる。
呼吸が追いつかない。
それでも全力で走る。
やがて崩壊した石造建築へ飛び込んだ時、カイは床へ倒れ込んだ。
息ができない。
心臓が痛い。
手は震え続けていた。
ライフルを握ることすらできない。
そんな彼の前に、一人の兵士がしゃがみ込む。
白衣を着た男だった。
軍服の上から衛生兵用の装備を身に着けている。
包帯や医療器具が詰め込まれたバッグは、既に血で汚れていた。
「初日か」
穏やかな声だった。
カイは無言で頷く。
衛生兵は苦笑した。
「大丈夫。みんな最初はそうだ」
そう言いながら血の付いた包帯を交換している。
誰かを治療した直後なのだろう。
それでも手際は落ち着いていた。
「エリク・ハーンだ」
彼は名乗る。
「衛生兵をやってる」
少しだけ間を置いてから続けた。
「怖いだろう?」
カイは答えられなかった。
怖い。
もちろん怖い。
逃げ出したい。
今すぐ家へ帰りたい。
だがそれを口にしても何も変わらない。
エリクはそんな彼の様子を見て静かに言った。
「安心しろ」
その声は不思議と温かかった。
「戦争が怖くなくなったら、その時はもう人間じゃない」
遠くで再び砲撃が響く。
灰色の空。
灰色の大地。
灰色の煙。
誰もが疲れ果てた顔をしている。
この場所には勝者などいないように見えた。




