第十七話 帰る場所
戦争は人から未来を奪う。
夢を奪う。
日常を奪う。
家族を奪う。
そして時には、ようやく取り戻しかけた希望さえ奪っていく。
それでも人は前へ進まなければならない。
立ち止まれば死ぬからだ。
振り返れば壊れるからだ。
だから兵士は歯を食いしばる。
涙を飲み込む。
喪失を抱えたまま歩き続ける。
それが戦場を生きるということだった。
◇
ルークが倒れた。
その瞬間、カイの世界から音が消えた。
銃声も。
爆発も。
怒号も。
全てが遠くなる。
見えるのは地面へ崩れ落ちる少年の姿だけだった。
ノアの兄。
ようやく見つけた家族。
収容所から救い出した命。
あと少しだった。
本当にあと少しだった。
共和国軍戦線まで辿り着けば。
ノアと再会できれば。
家族は再び一緒になれたはずだった。
なのに。
「ルーク!」
気付けば身体が動いていた。
カイは駆け寄る。
膝をつく。
抱き起こす。
温かい血が掌を濡らした。
胸部だった。
嫌な場所だった。
非常に。
血が止まらない。
◇
「カイ!」
レオの怒声が飛ぶ。
だが聞こえない。
聞こえていても身体が動かない。
ルークは苦しそうに呼吸していた。
血を吐く。
顔色が急速に失われていく。
カイは必死に傷口を押さえる。
止血しようとする。
意味がないと分かっていても。
手を離したら終わってしまう気がした。
「大丈夫だ」
自分でも信じていない言葉だった。
「もう少しだ」
震える声。
「もう少しで帰れる」
ルークは笑った。
苦しそうに。
それでも笑った。
その顔が余計に辛かった。
◇
周囲では戦闘が続いている。
敵軍は混乱している。
だが止まってはいない。
再編が始まっている。
追撃も再開されるだろう。
時間がない。
それなのにカイは動けなかった。
目の前の現実を受け入れられなかった。
収容所から助け出した。
命懸けで。
仲間を犠牲にして。
ここまで連れてきた。
なのに。
結局死ぬのか。
こんなところで。
◇
ルークは震える手で胸元を探る。
そして一枚の写真を取り出した。
何度も見た古びた写真だった。
幼いノアが笑っている。
戦争が始まる前の姿。
「頼む」
掠れた声だった。
カイは何も言えない。
「ノアに」
血が口から零れる。
「渡してくれ」
嫌だった。
聞きたくなかった。
そんな言葉を。
それは別れの言葉だからだ。
◇
「自分で渡せ」
カイは言った。
怒るように。
叫ぶように。
「帰るんだろ」
ルークは笑う。
泣きそうな笑顔だった。
「そうしたかった」
その一言が胸を刺した。
あまりにも重かった。
あまりにも悲しかった。
◇
その時だった。
ルークの身体が大きく震える。
呼吸が乱れる。
目の焦点が揺れる。
カイは理解してしまう。
終わりが近い。
認めたくないのに。
認めてしまう。
◇
「聞いてくれ」
ルークは空を見上げた。
夜空だった。
戦場の煙で曇った空。
星も見えない。
それでも彼は見上げていた。
「ノアは泣き虫なんだ」
小さく笑う。
「昔から」
言葉が途切れる。
呼吸が苦しいのだろう。
「俺がいないと駄目なんだ」
沈黙。
そして。
「だから」
震える声。
「守ってやってくれ」
◇
カイは何も答えられなかった。
そんな資格はないと思った。
守れなかったのだから。
目の前の兄を。
ノアの家族を。
助けられなかったのだから。
◇
ルークは最後に小さく笑った。
本当に小さく。
穏やかに。
「会いたかったな」
その言葉を最後に。
身体から力が抜けた。
◇
静寂。
何も聞こえなかった。
戦場の真ん中なのに。
不思議なほど静かだった。
カイは動けない。
ルークを抱えたまま。
ただ座り込んでいた。
◇
やがて誰かの手が肩へ置かれる。
レオだった。
小隊長も何も言わない。
慰めない。
励まさない。
ただ静かに立っている。
それだけだった。
それで十分だった。
戦場では時に言葉が不要になる。
今がそうだった。
◇
「行くぞ」
しばらくしてレオが言う。
低い声だった。
だが優しかった。
カイは頷く。
ゆっくりと。
ルークの目を閉じる。
写真を握る。
そして立ち上がる。
身体が重い。
鉛のように。
だが歩く。
前へ。
◇
夜明けが近付いていた。
東の空が僅かに白み始めている。
第七小隊は再び移動を開始した。
負傷者を支えながら。
生き残った捕虜たちを連れながら。
共和国軍戦線を目指して。
誰も喋らない。
疲労だけではなかった。
ルークの死が重くのしかかっていた。
救えなかった命。
あと少しだった命。
その喪失が全員の胸に残っている。
◇
一方その頃。
アルベルト・ヴォルフは焼け落ちた保守基地を見下ろしていた。
報告書を受け取る。
損害は大きい。
予想以上に。
だが。
男は笑っていた。
「なるほど」
興味深そうに。
「そういう部隊か」
第七小隊。
仲間のために命令違反をする。
捕虜を救う。
家族のために戦う。
非合理的。
非効率的。
だからこそ扱いやすい。
弱点が明確だからだ。
アルベルトは知っていた。
人間は守りたいものがあるほど脆くなる。
◇
そして男は静かに命じる。
「追撃を継続しろ」
副官が敬礼する。
「一人も逃がすな」
冷たい声だった。
感情はない。
あるのは執着だけ。
獲物を逃さない狩人の執念だけだった。
◇
その頃。
カイはポケットの中の写真を握り締めていた。
ノアへ渡さなければならない。
兄の最期を伝えなければならない。
その現実が重い。
重すぎる。
だが逃げるわけにはいかなかった。
ルークと約束したからだ。
守ってくれと。
帰る場所を守ってくれと。
その願いだけが今のカイを支えていた。
そして彼はまだ知らない。
ルークの死が。
この戦争を見る目を大きく変えることになるのを。
敵を憎むだけでは終われない場所へ。
彼自身が踏み込んでいくことになるのを。




