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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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第十七話 帰る場所

 戦争は人から未来を奪う。


 夢を奪う。


 日常を奪う。


 家族を奪う。


 そして時には、ようやく取り戻しかけた希望さえ奪っていく。


 それでも人は前へ進まなければならない。


 立ち止まれば死ぬからだ。


 振り返れば壊れるからだ。


 だから兵士は歯を食いしばる。


 涙を飲み込む。


 喪失を抱えたまま歩き続ける。


 それが戦場を生きるということだった。



 ルークが倒れた。


 その瞬間、カイの世界から音が消えた。


 銃声も。


 爆発も。


 怒号も。


 全てが遠くなる。


 見えるのは地面へ崩れ落ちる少年の姿だけだった。


 ノアの兄。


 ようやく見つけた家族。


 収容所から救い出した命。


 あと少しだった。


 本当にあと少しだった。


 共和国軍戦線まで辿り着けば。


 ノアと再会できれば。


 家族は再び一緒になれたはずだった。


 なのに。


「ルーク!」


 気付けば身体が動いていた。


 カイは駆け寄る。


 膝をつく。


 抱き起こす。


 温かい血が掌を濡らした。


 胸部だった。


 嫌な場所だった。


 非常に。


 血が止まらない。



「カイ!」


 レオの怒声が飛ぶ。


 だが聞こえない。


 聞こえていても身体が動かない。


 ルークは苦しそうに呼吸していた。


 血を吐く。


 顔色が急速に失われていく。


 カイは必死に傷口を押さえる。


 止血しようとする。


 意味がないと分かっていても。


 手を離したら終わってしまう気がした。


「大丈夫だ」


 自分でも信じていない言葉だった。


「もう少しだ」


 震える声。


「もう少しで帰れる」


 ルークは笑った。


 苦しそうに。


 それでも笑った。


 その顔が余計に辛かった。



 周囲では戦闘が続いている。


 敵軍は混乱している。


 だが止まってはいない。


 再編が始まっている。


 追撃も再開されるだろう。


 時間がない。


 それなのにカイは動けなかった。


 目の前の現実を受け入れられなかった。


 収容所から助け出した。


 命懸けで。


 仲間を犠牲にして。


 ここまで連れてきた。


 なのに。


 結局死ぬのか。


 こんなところで。



 ルークは震える手で胸元を探る。


 そして一枚の写真を取り出した。


 何度も見た古びた写真だった。


 幼いノアが笑っている。


 戦争が始まる前の姿。


「頼む」


 掠れた声だった。


 カイは何も言えない。


「ノアに」


 血が口から零れる。


「渡してくれ」


 嫌だった。


 聞きたくなかった。


 そんな言葉を。


 それは別れの言葉だからだ。



「自分で渡せ」


 カイは言った。


 怒るように。


 叫ぶように。


「帰るんだろ」


 ルークは笑う。


 泣きそうな笑顔だった。


「そうしたかった」


 その一言が胸を刺した。


 あまりにも重かった。


 あまりにも悲しかった。



 その時だった。


 ルークの身体が大きく震える。


 呼吸が乱れる。


 目の焦点が揺れる。


 カイは理解してしまう。


 終わりが近い。


 認めたくないのに。


 認めてしまう。



「聞いてくれ」


 ルークは空を見上げた。


 夜空だった。


 戦場の煙で曇った空。


 星も見えない。


 それでも彼は見上げていた。


「ノアは泣き虫なんだ」


 小さく笑う。


「昔から」


 言葉が途切れる。


 呼吸が苦しいのだろう。


「俺がいないと駄目なんだ」


 沈黙。


 そして。


「だから」


 震える声。


「守ってやってくれ」



 カイは何も答えられなかった。


 そんな資格はないと思った。


 守れなかったのだから。


 目の前の兄を。


 ノアの家族を。


 助けられなかったのだから。



 ルークは最後に小さく笑った。


 本当に小さく。


 穏やかに。


「会いたかったな」


 その言葉を最後に。


 身体から力が抜けた。



 静寂。


 何も聞こえなかった。


 戦場の真ん中なのに。


 不思議なほど静かだった。


 カイは動けない。


 ルークを抱えたまま。


 ただ座り込んでいた。



 やがて誰かの手が肩へ置かれる。


 レオだった。


 小隊長も何も言わない。


 慰めない。


 励まさない。


 ただ静かに立っている。


 それだけだった。


 それで十分だった。


 戦場では時に言葉が不要になる。


 今がそうだった。



「行くぞ」


 しばらくしてレオが言う。


 低い声だった。


 だが優しかった。


 カイは頷く。


 ゆっくりと。


 ルークの目を閉じる。


 写真を握る。


 そして立ち上がる。


 身体が重い。


 鉛のように。


 だが歩く。


 前へ。



 夜明けが近付いていた。


 東の空が僅かに白み始めている。


 第七小隊は再び移動を開始した。


 負傷者を支えながら。


 生き残った捕虜たちを連れながら。


 共和国軍戦線を目指して。


 誰も喋らない。


 疲労だけではなかった。


 ルークの死が重くのしかかっていた。


 救えなかった命。


 あと少しだった命。


 その喪失が全員の胸に残っている。



 一方その頃。


 アルベルト・ヴォルフは焼け落ちた保守基地を見下ろしていた。


 報告書を受け取る。


 損害は大きい。


 予想以上に。


 だが。


 男は笑っていた。


「なるほど」


 興味深そうに。


「そういう部隊か」


 第七小隊。


 仲間のために命令違反をする。


 捕虜を救う。


 家族のために戦う。


 非合理的。


 非効率的。


 だからこそ扱いやすい。


 弱点が明確だからだ。


 アルベルトは知っていた。


 人間は守りたいものがあるほど脆くなる。



 そして男は静かに命じる。


「追撃を継続しろ」


 副官が敬礼する。


「一人も逃がすな」


 冷たい声だった。


 感情はない。


 あるのは執着だけ。


 獲物を逃さない狩人の執念だけだった。



 その頃。


 カイはポケットの中の写真を握り締めていた。


 ノアへ渡さなければならない。


 兄の最期を伝えなければならない。


 その現実が重い。


 重すぎる。


 だが逃げるわけにはいかなかった。


 ルークと約束したからだ。


 守ってくれと。


 帰る場所を守ってくれと。


 その願いだけが今のカイを支えていた。


 そして彼はまだ知らない。


 ルークの死が。


 この戦争を見る目を大きく変えることになるのを。


 敵を憎むだけでは終われない場所へ。


 彼自身が踏み込んでいくことになるのを。

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