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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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第十五話 狼たちの牙

戦争において追い詰められた側が勝つことは少ない。


 物資がない。


 兵力がない。


 退路もない。


 普通なら敗北は時間の問題だ。


 だから軍事教本は包囲されるなと教える。


 退路を確保しろと教える。


 敵より有利な場所で戦えと教える。


 全て正しい。


 全て合理的だ。


 だが戦争の歴史には、その常識を覆した者たちもいる。


 退路を断たれながら戦った兵士。


 圧倒的な兵力差を覆した部隊。


 包囲網を食い破った敗残兵。


 彼らに共通していたものは一つしかない。


 生き残ることを諦めなかったことだ。



 旧鉄道保守基地。


 戦争によって放棄された巨大施設。


 かつて整備工たちが列車を修理していた工場群は、今では砲撃によって半壊し、巨大な鉄骨とコンクリートの残骸だけが残されていた。


 夕陽が沈み始めている。


 赤く染まった鉄骨は、まるで血に濡れた墓標のようだった。


 第七小隊と救出した捕虜たちは、その廃墟の中心部に集まっていた。


 誰もが疲弊している。


 何日もまともに眠っていない。


 食料も不足している。


 負傷者もいる。


 普通なら戦える状態ではなかった。


 それでも誰一人として座り込まなかった。


 敵が来るからだ。


 そして全員が知っている。


 次の戦闘が、この逃走劇最大の山場になることを。



 レオは整備工場の壁へ地図を広げていた。


 周囲にはミラ、カイ、偵察兵たち。


 捕虜の中からも戦闘経験のある者たちが集まっている。


 その中にはルークの姿もあった。


 まだ顔色は悪い。


 だが収容所で見た時とは別人だった。


 生きる目的を取り戻した人間は強い。


 レオは地図へ印を付ける。


「敵は三方向から来る」


 声は落ち着いていた。


 誰も口を挟まない。


「東から追撃部隊」


 印を付ける。


「北から先回り部隊」


 さらに印。


「そして中央」


 最後の一点。


「アルベルト・ヴォルフ」


 その名前を聞いた瞬間、ミラの表情が僅かに変わる。


 狙撃手としての本能だろう。


 危険な相手だと理解している。


「包囲は完成する」


 レオは続ける。


「普通なら終わりだ」


 誰も否定しない。


 事実だからだ。


 だが。


 レオはそこで笑った。


「だから相手もそう思ってる」


 その瞬間。


 カイは理解する。


 何かを仕掛けるつもりだ。


 それも相当危険な何かを。



 レオが指差したのは基地西側だった。


 崖。


 そして崩落した高架鉄道。


 今にも落ちそうな巨大構造物。


 戦闘には向いていない。


 逃走路としても最悪だ。


 だから敵は重視していない。


「ここを使う」


 全員が顔を見合わせる。


 正気ではない。


 そう思った。


 だがレオは真面目だった。


「敵は包囲を完成させることを優先する」


 指で地図をなぞる。


「つまり中央に兵力を集める」


「その隙に抜ける?」


 カイが聞く。


 レオは首を振った。


「違う」


 そして。


 小隊長は静かに言った。


「中央をぶち抜く」


 沈黙。


 誰も言葉が出なかった。


 無茶苦茶だった。


 包囲網の最も厚い場所を突破する。


 普通なら自殺行為だ。


 だが。


 レオは続ける。


「そのために敵を集める」


 そこで全員がようやく理解した。


 囮だ。


 何かを爆破する。


 あるいは崩落させる。


 敵を巻き込む。


 そして混乱の中を突破する。


 レオらしい。


 合理的で。


 無茶で。


 それでいて成功率を最大限に高める方法だった。



 一方その頃。


 アルベルト・ヴォルフは双眼鏡を覗いていた。


 夕陽に照らされた旧鉄道保守基地。


 獲物はそこにいる。


 逃げ場はない。


 時間の問題だった。


「少佐」


 副官が報告する。


「包囲完了まで三十分です」


 アルベルトは頷く。


 そして微笑む。


「優秀だ」


 その笑顔を見て副官は背筋が寒くなった。


 この男は楽しんでいる。


 戦争を。


 追跡を。


 人間を追い詰めることを。


 心から。


「共和国軍第七小隊」


 アルベルトは呟く。


「面白かったよ」


 まるで既に勝ったかのようだった。



 日が沈む。


 夜が訪れる。


 戦場の夜は静かだった。


 少なくとも表面上は。


 だがその静寂の下では無数の殺意が動いている。


 第七小隊も動き始めていた。


 爆薬を設置する。


 射撃位置を決める。


 退避経路を確認する。


 誰も無駄口を叩かない。


 緊張しているのだ。


 当然だった。


 明日がある保証などどこにもない。


 カイは一人で弾倉を確認していた。


 何度も。


 何度も。


 確認する。


 手を動かしていないと落ち着かない。


 その時だった。


 隣へ誰かが座る。


 ルークだった。


「怖いか?」


 不意に聞かれる。


 カイは少し考えた。


 そして答える。


「怖い」


 正直に。


 ルークは笑った。


「俺もだ」


 戦場では珍しい笑顔だった。


「収容所にいた時は思ってた」


 空を見る。


「死ぬなら仕方ないって」


 その目は遠くを見ていた。


「でも今は違う」


 ポケットから何かを取り出す。


 古びた写真だった。


 そこには幼いノアが写っている。


 まだ戦争が始まる前の姿だった。


「帰りたい」


 小さな声だった。


「妹のところへ」


 カイは何も言わない。


 言えなかった。


 その気持ちが痛いほど分かるからだ。


 彼自身も帰りたい。


 故郷へ。


 家族の元へ。


 だが戦争はそれを許さない。


 だから戦うしかない。


 生きて帰るために。



 深夜。


 ついに敵が動き始める。


 偵察兵が走ってくる。


「接近!」


 全員が立ち上がる。


 武器を取る。


 配置に着く。


 夜の闇の向こう。


 無数の光が見えた。


 懐中電灯。


 車両灯。


 敵部隊だった。


 数は多い。


 圧倒的に。


 まるで夜の海を埋め尽くす漁火のようだった。


 アルベルトの包囲網が完成しようとしている。


 だが。


 レオは静かだった。


 恐れていない。


 焦ってもいない。


 ただ獲物を待つ狼のように目を細めている。


 そして。


 敵が射程圏へ入った瞬間。


 小隊長は小さく呟いた。


「始めるぞ」


 それは戦闘開始の号令だった。


 そして同時に。


 アルベルト・ヴォルフとの本当の戦いの始まりでもあった。

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