第十五話 狼たちの牙
戦争において追い詰められた側が勝つことは少ない。
物資がない。
兵力がない。
退路もない。
普通なら敗北は時間の問題だ。
だから軍事教本は包囲されるなと教える。
退路を確保しろと教える。
敵より有利な場所で戦えと教える。
全て正しい。
全て合理的だ。
だが戦争の歴史には、その常識を覆した者たちもいる。
退路を断たれながら戦った兵士。
圧倒的な兵力差を覆した部隊。
包囲網を食い破った敗残兵。
彼らに共通していたものは一つしかない。
生き残ることを諦めなかったことだ。
◇
旧鉄道保守基地。
戦争によって放棄された巨大施設。
かつて整備工たちが列車を修理していた工場群は、今では砲撃によって半壊し、巨大な鉄骨とコンクリートの残骸だけが残されていた。
夕陽が沈み始めている。
赤く染まった鉄骨は、まるで血に濡れた墓標のようだった。
第七小隊と救出した捕虜たちは、その廃墟の中心部に集まっていた。
誰もが疲弊している。
何日もまともに眠っていない。
食料も不足している。
負傷者もいる。
普通なら戦える状態ではなかった。
それでも誰一人として座り込まなかった。
敵が来るからだ。
そして全員が知っている。
次の戦闘が、この逃走劇最大の山場になることを。
◇
レオは整備工場の壁へ地図を広げていた。
周囲にはミラ、カイ、偵察兵たち。
捕虜の中からも戦闘経験のある者たちが集まっている。
その中にはルークの姿もあった。
まだ顔色は悪い。
だが収容所で見た時とは別人だった。
生きる目的を取り戻した人間は強い。
レオは地図へ印を付ける。
「敵は三方向から来る」
声は落ち着いていた。
誰も口を挟まない。
「東から追撃部隊」
印を付ける。
「北から先回り部隊」
さらに印。
「そして中央」
最後の一点。
「アルベルト・ヴォルフ」
その名前を聞いた瞬間、ミラの表情が僅かに変わる。
狙撃手としての本能だろう。
危険な相手だと理解している。
「包囲は完成する」
レオは続ける。
「普通なら終わりだ」
誰も否定しない。
事実だからだ。
だが。
レオはそこで笑った。
「だから相手もそう思ってる」
その瞬間。
カイは理解する。
何かを仕掛けるつもりだ。
それも相当危険な何かを。
◇
レオが指差したのは基地西側だった。
崖。
そして崩落した高架鉄道。
今にも落ちそうな巨大構造物。
戦闘には向いていない。
逃走路としても最悪だ。
だから敵は重視していない。
「ここを使う」
全員が顔を見合わせる。
正気ではない。
そう思った。
だがレオは真面目だった。
「敵は包囲を完成させることを優先する」
指で地図をなぞる。
「つまり中央に兵力を集める」
「その隙に抜ける?」
カイが聞く。
レオは首を振った。
「違う」
そして。
小隊長は静かに言った。
「中央をぶち抜く」
沈黙。
誰も言葉が出なかった。
無茶苦茶だった。
包囲網の最も厚い場所を突破する。
普通なら自殺行為だ。
だが。
レオは続ける。
「そのために敵を集める」
そこで全員がようやく理解した。
囮だ。
何かを爆破する。
あるいは崩落させる。
敵を巻き込む。
そして混乱の中を突破する。
レオらしい。
合理的で。
無茶で。
それでいて成功率を最大限に高める方法だった。
◇
一方その頃。
アルベルト・ヴォルフは双眼鏡を覗いていた。
夕陽に照らされた旧鉄道保守基地。
獲物はそこにいる。
逃げ場はない。
時間の問題だった。
「少佐」
副官が報告する。
「包囲完了まで三十分です」
アルベルトは頷く。
そして微笑む。
「優秀だ」
その笑顔を見て副官は背筋が寒くなった。
この男は楽しんでいる。
戦争を。
追跡を。
人間を追い詰めることを。
心から。
「共和国軍第七小隊」
アルベルトは呟く。
「面白かったよ」
まるで既に勝ったかのようだった。
◇
日が沈む。
夜が訪れる。
戦場の夜は静かだった。
少なくとも表面上は。
だがその静寂の下では無数の殺意が動いている。
第七小隊も動き始めていた。
爆薬を設置する。
射撃位置を決める。
退避経路を確認する。
誰も無駄口を叩かない。
緊張しているのだ。
当然だった。
明日がある保証などどこにもない。
カイは一人で弾倉を確認していた。
何度も。
何度も。
確認する。
手を動かしていないと落ち着かない。
その時だった。
隣へ誰かが座る。
ルークだった。
「怖いか?」
不意に聞かれる。
カイは少し考えた。
そして答える。
「怖い」
正直に。
ルークは笑った。
「俺もだ」
戦場では珍しい笑顔だった。
「収容所にいた時は思ってた」
空を見る。
「死ぬなら仕方ないって」
その目は遠くを見ていた。
「でも今は違う」
ポケットから何かを取り出す。
古びた写真だった。
そこには幼いノアが写っている。
まだ戦争が始まる前の姿だった。
「帰りたい」
小さな声だった。
「妹のところへ」
カイは何も言わない。
言えなかった。
その気持ちが痛いほど分かるからだ。
彼自身も帰りたい。
故郷へ。
家族の元へ。
だが戦争はそれを許さない。
だから戦うしかない。
生きて帰るために。
◇
深夜。
ついに敵が動き始める。
偵察兵が走ってくる。
「接近!」
全員が立ち上がる。
武器を取る。
配置に着く。
夜の闇の向こう。
無数の光が見えた。
懐中電灯。
車両灯。
敵部隊だった。
数は多い。
圧倒的に。
まるで夜の海を埋め尽くす漁火のようだった。
アルベルトの包囲網が完成しようとしている。
だが。
レオは静かだった。
恐れていない。
焦ってもいない。
ただ獲物を待つ狼のように目を細めている。
そして。
敵が射程圏へ入った瞬間。
小隊長は小さく呟いた。
「始めるぞ」
それは戦闘開始の号令だった。
そして同時に。
アルベルト・ヴォルフとの本当の戦いの始まりでもあった。




