第十四話 退路の果て
撤退は敗北ではない。
優れた指揮官ほどそれを理解している。
戦場で重要なのは土地ではない。
兵士だ。
戦える人間が生き残れば、失った陣地は取り返せる。
だが兵士が死ねば終わりだ。
どれほど立派な勝利も、戦う者がいなければ意味を持たない。
だから歴史に名を残した将軍たちは時に退いた。
生き残るために。
次に勝つために。
だが戦場にいる兵士にとって、撤退とは決して楽なものではない。
背を向けるということは、敵へ命を預けるということだからだ。
◇
「撤退する」
レオの命令は短かった。
だが全員が理解した。
ここが限界だと。
敵は増え続けている。
こちらは減る一方だ。
弾薬も体力も尽きかけている。
このまま戦えば全滅する。
だから下がる。
生き残るために。
次の戦いへ繋げるために。
第七小隊は即座に動き出した。
負傷者を支える。
捕虜たちをまとめる。
弾薬を回収する。
誰も文句は言わない。
戦場では命令が全てだった。
それが正しいかどうかではない。
従うかどうかだ。
◇
工場地帯から西へ。
崩壊した鉄道施設が続いている。
戦争前は大陸有数の物流拠点だったらしい。
今では巨大な墓場だった。
朽ちた貨車。
折れ曲がったレール。
横倒しになった機関車。
そして無数の砲弾痕。
文明の残骸が延々と続いている。
その中を一行は進んでいた。
走る。
止まる。
警戒する。
また走る。
単純な行動の繰り返し。
だが神経は削られる。
いつ敵が現れるか分からない。
いつ狙撃されるか分からない。
いつ砲撃が飛んでくるか分からない。
それが追われる側の恐怖だった。
カイはルークを支えながら進む。
少年の体力は限界に近かった。
収容所生活の影響は大きい。
まともに食事も与えられていなかったのだろう。
身体は痩せ細り、顔色も悪い。
それでも倒れない。
妹の元へ帰る。
その想いだけで動いているように見えた。
「大丈夫か」
何度目か分からない問いだった。
ルークは苦笑する。
「それ、何回目だ?」
「何回でも聞く」
「過保護だな」
そう言いながらも少し嬉しそうだった。
人は誰かに気にかけられるだけで救われる。
戦場ならなおさらだった。
◇
先頭を歩くレオは地図を確認していた。
目的地は共和国軍前線ではない。
そこまで辿り着くには距離がありすぎる。
まずは中継地点。
旧鉄道保守基地。
戦争初期に放棄された施設だ。
今は誰も使っていない。
だが防衛に適した地形をしている。
そこで追撃を振り切る。
あるいは迎撃する。
どちらかだった。
レオは考える。
アルベルト・ヴォルフ。
あの男の存在が気になっていた。
追撃が速すぎる。
正確すぎる。
偶然ではない。
優秀な指揮官がいる。
それもかなり危険な部類の。
戦争は兵士だけでは決まらない。
優れた指揮官一人で戦局が変わることもある。
そしてアルベルトは間違いなくその類だった。
◇
昼を過ぎた頃だった。
ミラが足を止める。
異変に気付いたのだ。
彼女は即座に高所へ登る。
崩壊した信号塔。
そこから双眼鏡を覗く。
数秒。
十秒。
そして舌打ちした。
「最悪だ」
その一言で全員が察する。
良い知らせではない。
ミラが地上へ降りてくる。
「前にもいる」
沈黙。
「何だって?」
レオが聞き返す。
「追撃部隊だけじゃない」
ミラは地図を指差した。
「先回りされてる」
空気が凍る。
つまり。
包囲され始めている。
◇
アルベルトは読んでいた。
彼らの進路を。
逃げる方向を。
地形を利用することも。
全て。
先回り部隊を配置し、逃走経路を狭めている。
追うだけではない。
誘導しているのだ。
まるで狩りだった。
獲物を少しずつ追い詰める。
逃げ道を消す。
焦らせる。
疲れさせる。
そして仕留める。
戦術としては正しい。
だからこそ恐ろしかった。
◇
その頃。
アルベルト本人は装甲車両の中にいた。
地図を広げている。
副官が報告する。
「先遣隊が接触しました」
「損害は」
「軽微です」
アルベルトは頷く。
予想通りだった。
彼は最初から殲滅を目的にしていない。
まだ。
もっと追い詰めたい。
もっと選択肢を奪いたい。
そう考えていた。
「少佐」
副官が恐る恐る聞く。
「なぜそこまで執着するのです?」
普通なら既に十分な成果だった。
脱走捕虜は重要ではない。
収容所も機能している。
だがアルベルトは笑った。
楽しそうに。
本当に楽しそうに。
「彼らが面白いからだ」
副官は何も言えなくなる。
理解できなかった。
だがアルベルトは本気だった。
共和国軍第七小隊。
少数で収容所へ潜入した連中。
命令違反を承知で捕虜を救った連中。
合理的ではない。
効率的でもない。
だから興味深い。
アルベルトはそういう人間が好きだった。
壊す時に面白いからだ。
◇
夕方。
第七小隊は旧鉄道保守基地へ到着する。
巨大な整備工場。
半壊した車庫。
無数の線路。
防衛には適している。
だが。
同時に逃げ場も少ない。
レオは周囲を確認する。
西。
崖。
東。
敵追撃部隊。
南。
湿地帯。
北。
先回り部隊。
状況は悪かった。
想像以上に。
追い詰められている。
そして。
その時だった。
遠くでエンジン音が響く。
複数。
かなり近い。
ミラが双眼鏡を覗く。
表情が険しくなる。
「来た」
短く言う。
「全部だ」
敵追撃部隊。
先回り部隊。
そして。
アルベルト・ヴォルフ直属部隊。
全てが集まり始めていた。
包囲網が完成する。
もう逃げ場はない。
誰もがそれを理解した。
だがレオだけは違った。
彼は地図を見つめる。
そして。
ゆっくり笑った。
初めてだった。
この状況で。
「なら利用する」
その目は獣だった。
追い詰められた獣ではない。
獲物を噛み殺そうとする獣だった。
カイはその横顔を見る。
何か考えている。
とんでもない何かを。
そして。
戦局をひっくり返すための賭けが始まろうとしていた。




