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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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第十三話 後ろへは下がれない

兵士が最も恐れるものは死ではない。


 死は平等だ。


 誰にでも訪れる。


 どれほど強い兵士にも。


 どれほど優れた将軍にも。


 どれほど幸運な人間にも。


 必ず訪れる。


 だから本当に恐ろしいのは死ではない。


 自分のせいで誰かが死ぬことだ。


 守れたはずの命を守れなかった時、人は死よりも深い傷を負う。


 そして今、第七小隊の前には、その恐怖が現実として迫っていた。



 銃声は一発だった。


 だが、その一発だけで全員が理解した。


 敵はすぐ近くまで来ている。


 偵察兵が息を切らしながら飛び込んでくる。


 顔色は青白く、額には冷や汗が浮かんでいた。


「接敵!」


 声が掠れている。


「南東側! 敵先遣隊!」


 休息していた捕虜たちが一斉に立ち上がる。


 空気が変わる。


 疲労も眠気も消し飛ぶ。


 戦場では危険の気配が全てを塗り潰す。


 レオは即座に地図を開いた。


 周囲の地形を確認する。


 崩壊した工場群。


 錆びた貯蔵タンク。


 鉄骨の残骸。


 隠れる場所はある。


 だが逃げ切るには厳しい。


「数は」


「二十以上」


 偵察兵が答える。


「後続もいます」


 レオは舌打ちした。


 先遣隊だけで二十人。


 つまり本隊はさらに後ろにいる。


 ミラの予想通りだった。


 二個中隊規模。


 まともに戦えば押し潰される。



 カイはライフルを握り締める。


 手の震えはもうなかった。


 初めて前線へ来た頃とは違う。


 敵がいる。


 戦わなければならない。


 その現実を身体が理解している。


 だが慣れたわけではない。


 慣れたくもなかった。


 戦争に慣れるということは、人の死に慣れるということだからだ。


 ルークも立ち上がっていた。


 顔色は悪い。


 だが目には力がある。


 収容所にいた頃とは別人だった。


 妹に会う。


 その目的が彼を支えている。


「下がれ」


 カイは言う。


「まだ無理だ」


 だがルークは首を振った。


「俺も戦う」


 その声は静かだった。


 無理をしているのは分かる。


 それでも引く気はないらしい。


 戦争は人を変える。


 収容所生活もまた同じだった。


 人を強くする。


 あるいは壊す。


 ルークは前者だった。



 最初の敵兵が見えたのは数分後だった。


 工場群の向こう側。


 崩れた鉄骨の隙間。


 帝国軍兵士たちが慎重に前進している。


 索敵しながら。


 包囲しながら。


 逃げ道を潰しながら。


 動きが良かった。


 普通の歩兵ではない。


 追撃専門部隊。


 そういう印象だった。


 レオも同じことを考えたらしい。


「厄介だな」


 低く呟く。


 ミラは既に狙撃位置へ移動している。


 高所。


 崩壊した給水塔。


 彼女の居場所だった。


 スコープを覗く。


 呼吸を止める。


 そして。


 発砲。


 乾いた銃声が朝の空気を裂く。


 先頭を歩いていた帝国兵が崩れ落ちた。


 即死だった。


 混乱。


 怒号。


 伏せる兵士たち。


 そして戦闘が始まる。



 工場跡地全体へ銃声が響き渡る。


 第七小隊は防御陣地を構築していた。


 簡易的なものだ。


 長くは持たない。


 だが時間は稼げる。


 今必要なのはそれだった。


 捕虜たちを逃がす時間。


 共和国軍戦線へ辿り着く時間。


 それだけでいい。


「右!」


 誰かが叫ぶ。


 カイは反射的に照準を向ける。


 帝国兵が鉄骨の陰から現れる。


 距離五十メートル。


 近い。


 引き金を引く。


 銃声。


 敵兵が倒れる。


 もう躊躇はない。


 だが喜びもない。


 ただ一つの事実だけが残る。


 生き残った。


 それだけだ。


 戦争とはそういうものだった。



 だが敵は止まらない。


 次々に現れる。


 数が違う。


 こちらが一人倒せば、向こうは二人出てくる。


 まるで波だった。


 終わりが見えない。


 その時だった。


 敵兵の一人が手榴弾を投げる。


「伏せろ!」


 レオが叫ぶ。


 爆発。


 衝撃。


 鉄片が飛び散る。


 カイの頬を何かが掠めた。


 熱い。


 血が流れる。


 だが浅い。


 問題ない。


 問題ないはずだった。


 しかし隣から悲鳴が聞こえる。


 捕虜の一人だった。


 腹部を押さえている。


 血が止まらない。


 破片が刺さったのだ。


 エリクがいれば。


 そんな考えが頭をよぎる。


 だがいない。


 今ここに衛生兵はいない。


 だから誰かが代わりをやるしかない。


 カイは駆け寄る。


 止血を試みる。


 訓練で習った通りに。


 だが血は止まらない。


 男は苦しそうに息をしている。


 その目を見た瞬間、カイは理解した。


 助からない。


 戦場では分かってしまう。


 そういう瞬間がある。



 遠くで再び狙撃銃が響く。


 ミラだった。


 一人。


 二人。


 三人。


 正確に敵を削っていく。


 だが彼女の表情は険しかった。


 敵の動きが変わったからだ。


 明らかに統率されている。


 無駄がない。


 突撃と後退。


 援護と包囲。


 全てが計算されている。


 誰かが指揮している。


 優秀な誰かが。


 そして。


 ミラは双眼鏡越しにその人物を見つける。


 遠方。


 装甲車の横。


 一人の将校。


 銀縁眼鏡。


 整った軍服。


 穏やかな表情。


 まるで散歩でもしているかのような余裕。


 アルベルト・ヴォルフ少佐だった。



「見つけた」


 ミラは小さく呟く。


 スコープを向ける。


 距離は十分。


 射線もある。


 撃てる。


 だが。


 アルベルトはまるで気付いているかのようにこちらを見ていた。


 あり得ない。


 距離は八百メートル近い。


 普通なら見えるはずがない。


 だが男は笑っていた。


 そして。


 軽く帽子へ触れる。


 まるで挨拶するように。


 ミラの背筋が冷たくなる。


 直後。


 轟音。


 砲撃だった。


 給水塔の一部が吹き飛ぶ。


 コンクリート片が飛散する。


 ミラは咄嗟に飛び退いた。


 狙撃位置が露見していたのだ。


 偶然ではない。


 敵は最初から彼女を狙っていた。


「クソ野郎」


 珍しく感情が滲む。


 あの男は危険だ。


 本能がそう告げていた。



 一方その頃。


 アルベルト・ヴォルフは双眼鏡を下ろしていた。


 砲撃結果を確認する。


 狙撃手は生きている。


 予想通りだった。


 少し残念そうに笑う。


「面白い」


 副官が困惑した顔をする。


「少佐?」


「久しぶりだ」


 アルベルトは楽しそうだった。


 本当に。


 心から。


「まともな相手は」


 そして再び前線を見る。


 第七小隊。


 捕虜たち。


 共和国軍兵士。


 全てが獲物だった。


 狩人の目だった。



 その頃、レオは決断を下していた。


 このままでは押し潰される。


 時間の問題だった。


 だから。


「撤退する」


 短く言う。


 全員が顔を上げる。


「西側廃線跡へ向かう」


 逃げるのではない。


 生き残るための後退だ。


 だがそれでも危険だった。


 敵は追ってくる。


 確実に。


 そしてその先には。


 さらに大きな戦いが待っていた。

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