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『灰色の戦線』  作者: 釣鐘銅鑼


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第十三話 後ろへは下がれない

兵士が最も恐れるものは死ではない。


 死は平等だ。


 誰にでも訪れる。


 どれほど強い兵士にも。


 どれほど優れた将軍にも。


 どれほど幸運な人間にも。


 必ず訪れる。


 だから本当に恐ろしいのは死ではない。


 自分のせいで誰かが死ぬことだ。


 守れたはずの命を守れなかった時、人は死よりも深い傷を負う。


 そして今、第七小隊の前には、その恐怖が現実として迫っていた。


◇


 銃声は一発だった。


 だが、その一発だけで全員が理解した。


 敵はすぐ近くまで来ている。


 偵察兵が息を切らしながら飛び込んでくる。


 顔色は青白く、額には冷や汗が浮かんでいた。


「接敵!」


 声が掠れている。


「南東側! 敵先遣隊!」


 休息していた捕虜たちが一斉に立ち上がる。


 空気が変わる。


 疲労も眠気も消し飛ぶ。


 戦場では危険の気配が全てを塗り潰す。


 レオは即座に地図を開いた。


 周囲の地形を確認する。


 崩壊した工場群。


 錆びた貯蔵タンク。


 鉄骨の残骸。


 隠れる場所はある。


 だが逃げ切るには厳しい。


「数は」


「二十以上」


 偵察兵が答える。


「後続もいます」


 レオは舌打ちした。


 先遣隊だけで二十人。


 つまり本隊はさらに後ろにいる。


 ミラの予想通りだった。


 二個中隊規模。


 まともに戦えば押し潰される。


◇


 カイはライフルを握り締める。


 手の震えはもうなかった。


 初めて前線へ来た頃とは違う。


 敵がいる。


 戦わなければならない。


 その現実を身体が理解している。


 だが慣れたわけではない。


 慣れたくもなかった。


 戦争に慣れるということは、人の死に慣れるということだからだ。


 ルークも立ち上がっていた。


 顔色は悪い。


 だが目には力がある。


 収容所にいた頃とは別人だった。


 妹に会う。


 その目的が彼を支えている。


「下がれ」


 カイは言う。


「まだ無理だ」


 だがルークは首を振った。


「俺も戦う」


 その声は静かだった。


 無理をしているのは分かる。


 それでも引く気はないらしい。


 戦争は人を変える。


 収容所生活もまた同じだった。


 人を強くする。


 あるいは壊す。


 ルークは前者だった。


◇


 最初の敵兵が見えたのは数分後だった。


 工場群の向こう側。


 崩れた鉄骨の隙間。


 帝国軍兵士たちが慎重に前進している。


 索敵しながら。


 包囲しながら。


 逃げ道を潰しながら。


 動きが良かった。


 普通の歩兵ではない。


 追撃専門部隊。


 そういう印象だった。


 レオも同じことを考えたらしい。


「厄介だな」


 低く呟く。


 ミラは既に狙撃位置へ移動している。


 高所。


 崩壊した給水塔。


 彼女の居場所だった。


 スコープを覗く。


 呼吸を止める。


 そして。


 発砲。


 乾いた銃声が朝の空気を裂く。


 先頭を歩いていた帝国兵が崩れ落ちた。


 即死だった。


 混乱。


 怒号。


 伏せる兵士たち。


 そして戦闘が始まる。


◇


 工場跡地全体へ銃声が響き渡る。


 第七小隊は防御陣地を構築していた。


 簡易的なものだ。


 長くは持たない。


 だが時間は稼げる。


 今必要なのはそれだった。


 捕虜たちを逃がす時間。


 共和国軍戦線へ辿り着く時間。


 それだけでいい。


「右!」


 誰かが叫ぶ。


 カイは反射的に照準を向ける。


 帝国兵が鉄骨の陰から現れる。


 距離五十メートル。


 近い。


 引き金を引く。


 銃声。


 敵兵が倒れる。


 もう躊躇はない。


 だが喜びもない。


 ただ一つの事実だけが残る。


 生き残った。


 それだけだ。


 戦争とはそういうものだった。


◇


 だが敵は止まらない。


 次々に現れる。


 数が違う。


 こちらが一人倒せば、向こうは二人出てくる。


 まるで波だった。


 終わりが見えない。


 その時だった。


 敵兵の一人が手榴弾を投げる。


「伏せろ!」


 レオが叫ぶ。


 爆発。


 衝撃。


 鉄片が飛び散る。


 カイの頬を何かが掠めた。


 熱い。


 血が流れる。


 だが浅い。


 問題ない。


 問題ないはずだった。


 しかし隣から悲鳴が聞こえる。


 捕虜の一人だった。


 腹部を押さえている。


 血が止まらない。


 破片が刺さったのだ。


 エリクがいれば。


 そんな考えが頭をよぎる。


 だがいない。


 今ここに衛生兵はいない。


 だから誰かが代わりをやるしかない。


 カイは駆け寄る。


 止血を試みる。


 訓練で習った通りに。


 だが血は止まらない。


 男は苦しそうに息をしている。


 その目を見た瞬間、カイは理解した。


 助からない。


 戦場では分かってしまう。


 そういう瞬間がある。


◇


 遠くで再び狙撃銃が響く。


 ミラだった。


 一人。


 二人。


 三人。


 正確に敵を削っていく。


 だが彼女の表情は険しかった。


 敵の動きが変わったからだ。


 明らかに統率されている。


 無駄がない。


 突撃と後退。


 援護と包囲。


 全てが計算されている。


 誰かが指揮している。


 優秀な誰かが。


 そして。


 ミラは双眼鏡越しにその人物を見つける。


 遠方。


 装甲車の横。


 一人の将校。


 銀縁眼鏡。


 整った軍服。


 穏やかな表情。


 まるで散歩でもしているかのような余裕。


 アルベルト・ヴォルフ少佐だった。


◇


「見つけた」


 ミラは小さく呟く。


 スコープを向ける。


 距離は十分。


 射線もある。


 撃てる。


 だが。


 アルベルトはまるで気付いているかのようにこちらを見ていた。


 あり得ない。


 距離は八百メートル近い。


 普通なら見えるはずがない。


 だが男は笑っていた。


 そして。


 軽く帽子へ触れる。


 まるで挨拶するように。


 ミラの背筋が冷たくなる。


 直後。


 轟音。


 砲撃だった。


 給水塔の一部が吹き飛ぶ。


 コンクリート片が飛散する。


 ミラは咄嗟に飛び退いた。


 狙撃位置が露見していたのだ。


 偶然ではない。


 敵は最初から彼女を狙っていた。


「クソ野郎」


 珍しく感情が滲む。


 あの男は危険だ。


 本能がそう告げていた。


◇


 一方その頃。


 アルベルト・ヴォルフは双眼鏡を下ろしていた。


 砲撃結果を確認する。


 狙撃手は生きている。


 予想通りだった。


 少し残念そうに笑う。


「面白い」


 副官が困惑した顔をする。


「少佐?」


「久しぶりだ」


 アルベルトは楽しそうだった。


 本当に。


 心から。


「まともな相手は」


 そして再び前線を見る。


 第七小隊。


 捕虜たち。


 共和国軍兵士。


 全てが獲物だった。


 狩人の目だった。


◇


 その頃、レオは決断を下していた。


 このままでは押し潰される。


 時間の問題だった。


 だから。


「撤退する」


 短く言う。


 全員が顔を上げる。


「西側廃線跡へ向かう」


 逃げるのではない。


 生き残るための後退だ。


 だがそれでも危険だった。


 敵は追ってくる。


 確実に。


 そしてその先には。


 さらに大きな戦いが待っていた。

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