5 消えないで
第四話を読んでいただき、ありがとうございました。
初めてのおでかけを楽しんだ二人。
少しずつ笑顔を取り戻し始めた主人公と、人間の世界を全力で楽しむハル。
そんな穏やかな時間が続くと思われた矢先、ハルの身体に小さな異変が現れます。
今回の第五話では、今まで見えていなかった「不安」と向き合うことになります。
二人の日常に訪れた変化を、ぜひ最後まで見届けていただければ幸いです。
それでは第五話をお楽しみください。
「元に戻るのか……?」
思わず口から漏れた言葉。
ハルは自分の手を見つめていた。
さっきまで人間の手だったはずなのに、一瞬だけ猫の前足に変わった。
俺も見た。
見間違いじゃない。
ハル自身も気づいている。
「ご主人……」
不安そうな声だった。
初めて聞く声だった。
いつも明るくて、何も気にしていないように見えたハルが、今はまるで捨てられた日の子猫みたいな顔をしている。
「大丈夫だ」
気づけばそう言っていた。
「え?」
「……たぶん」
全然説得力がなかった。
それでもハルは少しだけ笑った。
「ご主人も不安そう」
「うるさい」
図星だった。
帰り道。
ハルはいつもより静かだった。
さっきまで魚だの段ボールだの騒いでいたのに、今は俺の隣を黙って歩いている。
何度か話しかけようとした。
でも何を言えばいいのか分からなかった。
俺自身、何も知らない。
なぜ猫が人間になったのか。
なぜ今になって変化が起きたのか。
何一つ分からない。
だから励ます言葉も見つからなかった。
アパートへ戻る。
買った食材を冷蔵庫へしまう。
ハルはソファに座ったまま動かなかった。
珍しい。
いつもなら家中を探検しているはずなのに。
「……ハル」
呼ぶ。
反応がない。
近づくと膝を抱えて座っていた。
その姿は妙に小さく見えた。
「怖いか?」
ハルは少しだけ迷ったあと頷いた。
「うん」
その一言が胸に刺さる。
「また猫になるのかな」
「……」
「ご主人と話せなくなるのかな」
答えられなかった。
俺にも分からない。
分からないからこそ怖い。
ハルは俯いたまま続ける。
「せっかく人間になったのに」
「……」
「ご主人と一緒にいられるようになったのに」
その言葉に胸がざわつく。
ほんの数日前まで、俺は一人だった。
誰とも話さず。
誰とも笑わず。
明日を迎えるつもりもなかった。
だけど今は違う。
この部屋にはハルがいる。
騒がしくて。
落ち着きがなくて。
魚を見ると我を忘れて。
段ボールに入りたがる変な猫。
それなのに。
もし突然いなくなったら。
そう考えた瞬間。
胸の奥が苦しくなった。
「ご主人?」
ハルが顔を上げる。
俺は少し考えたあと、ソファの隣へ座った。
「もし戻ったとしても」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
「俺がお前を捨てることはない」
ハルが目を丸くする。
「本当?」
「ああ」
「猫に戻っても?」
「戻っても」
「ずっと?」
「ずっとだ」
ハルは数秒固まった。
そして。
ぽろっ。
涙がこぼれた。
「え」
今度は俺が固まる。
ハル本人も驚いていた。
「なんで?」
自分の頬に触れる。
「なんで水出るの?」
「涙だ」
「なみだ?」
「悲しい時とか嬉しい時に出る」
ハルは目をぱちぱちさせた。
そしてまた一粒こぼれる。
「変なの」
そう言って笑った。
涙を流しながら。
その日の夜。
ハルは俺の隣で眠っていた。
正確にはソファで寝ていたはずなのに、気づいたら隣にいた。
猫だから仕方ない。
たぶん。
寝息が聞こえる。
規則正しい呼吸。
俺は天井を見上げた。
部屋の隅。
まだロープが置いてある。
数日前の俺なら、それだけを見ていた。
だけど今は違う。
視線は自然と隣へ向く。
ハルがいる。
失いたくない。
ふと、そんなことを思った。
その瞬間だった。
胸の奥で何かが動いた気がした。
消えていたはずの感情。
諦めていたはずの未来。
その欠片が。
少しだけ戻ってきた気がした。
翌朝。
事件は突然起きる。
「ご主人ーー!!」
ハルの叫び声で目が覚めた。
何事かと飛び起きる。
慌ててリビングへ向かう。
そして固まった。
そこには――
猫耳が生えていた。
頭を抱えるハルの姿があった。
「……」
「……」
沈黙。
「増えた」
ハルが涙目でそう言った。
ハルの頭には猫耳が生えていた。
紛れもなく猫耳だった。
白くてふわふわしている。
しかもピクピク動いていた。
「……」
「……」
沈黙。
ハルが涙目で俺を見る。
「ご主人」
「なんだ」
「増えた」
「見れば分かる」
「どうしよう」
「俺が聞きたい」
本当に聞きたい。
昨日までは人間だった。
今日になったら猫耳が増えていた。
意味が分からない。
ハルは恐る恐る耳に触れた。
ピクッ。
耳が反応する。
「ひゃっ!」
「動いたな」
「動いた!」
「お前の耳だからな」
「怖い!」
「お前の耳だからな!?」
ハルは慌てて鏡の前へ走った。
そして絶叫する。
「みみぃぃぃぃ!!」
「落ち着け」
「無理!」
「落ち着け!」
「ご主人も生えて!」
「生えない!」
ハルは半泣きだった。
だが俺は気づいていた。
耳だけじゃない。
様子がおかしい。
「ハル」
「なに?」
「さっきから耳動いてるぞ」
「え?」
ピクッ。
また動く。
しかも玄関の方を向いた。
その瞬間。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「……」
「……」
俺とハルの視線が重なる。
「聞こえた」
ハルが呟く。
「鳴る前に?」
「うん」
「……」
どうやら猫の能力まで強くなっているらしい。
俺は玄関へ向かった。
宅配だった。
荷物を受け取って戻る。
するとハルがソファの後ろに隠れていた。
「何してる」
「人」
「宅配だ」
「知らない人」
「だから宅配だ」
「怖い」
完全に猫だった。
初対面の人間を警戒している。
昨日まであれだけ元気だったのに。
「もう帰ったぞ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
ハルは恐る恐る顔を出した。
猫耳だけ先に見える。
なんかずるい。
可愛い。
……いや違う。
何考えてるんだ俺は。
昼過ぎ。
ハルはようやく落ち着きを取り戻した。
テーブルの上に突っ伏している。
耳だけがしょんぼり垂れていた。
「ご主人」
「なんだ」
「私、人間じゃなくなる?」
その言葉に俺は黙った。
昨日までなら即答できた。
「知らない」と。
でも今は違う。
知らないままでは駄目な気がした。
「調べよう」
「え?」
「原因」
ハルが顔を上げる。
「人間になった理由も」
「耳が生えた理由も」
「戻る方法も」
ハルはしばらく俺を見つめた。
そして小さく笑う。
「うん」
その笑顔は少し安心したように見えた。
俺はスマホを取り出す。
検索画面を開く。
そして真顔で入力した。
【猫 人間になった 猫耳 生えた】
当然ながらまともな結果は出なかった。
「ご主人」
「なんだ」
「何て書いてある?」
「世の中には変な人がたくさんいるらしい」
「?」
「気にするな」
頭が痛い。
だが一つだけ分かったことがある。
ハルの異変は偶然じゃない。
何か理由がある。
そして。
その理由を知らなければ、いつか本当にハルを失うかもしれない。
その考えが胸を締め付ける。
数日前なら考えもしなかった感情だった。
その時だった。
ピクッ。
ハルの耳が動く。
「ご主人」
「ん?」
「誰か来る」
「また宅配か?」
「違う」
ハルの表情が曇る。
耳が緊張したように立っている。
「知らない匂い」
部屋の空気が変わった気がした。
次の瞬間。
コンコン――
玄関のドアがノックされた。
インターホンは鳴らない。
ただ静かに二回。
俺とハルは顔を見合わせた。
そしてもう一度。
コンコン――
まるで最初から、ここに誰かいることを知っているかのように。
第五話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回は今までの賑やかな日常とは少し違い、ハル自身が不安を抱える回となりました。
人間になれたことを当たり前のように受け入れていたハルですが、身体に現れた異変によって初めて「元に戻ってしまうかもしれない」という恐怖を感じます。
そして主人公もまた、そんなハルの姿を見て初めて気づきました。
自分がハルとの時間を大切に思っていること。
失いたくないと思っていること。
数日前まで生きることを諦めていた彼にとって、それは大きな変化だったのかもしれません。
また、物語の終盤では新たな異変として猫耳が現れました。
可愛らしい見た目とは裏腹に、その意味はまだ分かりません。
果たしてハルの身体に何が起きているのか。
そして二人の前に現れた謎の来訪者は何者なのか。
少しずつ物語も核心へ近づいていきます。
次回もぜひお付き合いいただけると嬉しいです。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。




