4 初めてのおでかけ
第三話を読んでいただき、ありがとうございました。
名前をもらい、「ハル」として新しい一歩を踏み出した彼女。
そして主人公もまた、少しずつですが前を向き始めています。
今回の第四話では、そんな二人が初めて一緒に外へ出かけます。
猫だったハルから見た人間の世界は、驚きと発見でいっぱいです。
賑やかで少し騒がしいおでかけを、どうぞ楽しんでいただければ幸いです。
それでは第四話をお楽しみください。
「お腹すいた」
真顔でそう言ったハルを見て、俺は思わず吹き出した。
「さっき朝飯食っただろ」
「食べた」
「じゃあなんで腹減るんだよ」
「猫だから」
「便利な言葉だな」
ハルは胸を張る。
なぜか誇らしげだった。
グゥゥゥゥ……。
再び腹の音が鳴る。
「ほら」
「ほらじゃない」
「お腹すいた」
「分かったから」
俺は財布を手に取った。
冷蔵庫の中身はほとんど空だ。
昨日の時点では買い足すつもりもなかった。
今日を迎えるつもりがなかったから。
「買い物行くぞ」
そう言った瞬間だった。
ハルの目が輝いた。
「行く!」
「近い近い」
「外!?」
「外だ」
「ほんとに!?」
「ほんとだ」
次の瞬間。
ハルは部屋中を走り回り始めた。
「外だー!」
「落ち着け!」
「鳥さんいる!?」
「いる」
「魚も!?」
「いる」
「行く!」
子供みたいだった。
いや、猫だから仕方ないのかもしれない。
俺は小さくため息をついた。
だが不思議と嫌じゃなかった。
十分後。
玄関の前。
俺は固まっていた。
ハルも固まっていた。
お互い無言。
理由は単純だった。
「靴」
「靴だな」
ハルは床に並んだスニーカーを見つめている。
まるで未知の生物を見るような目だった。
「履いたことない」
「だろうな」
「どうするの?」
「履くんだよ」
「足に?」
「そうだよ」
「なんで?」
「人間だからだ」
「難しいね人間」
ハルは真剣な顔で頷いた。
そして五分後。
右足に左の靴を履いていた。
「逆だ」
「難しい」
「難しくない」
ようやくアパートを出る。
ハルは立ち止まった。
空を見上げる。
雲の隙間から青空が覗いていた。
風が吹く。
ハルの髪が揺れた。
「すごい」
小さく呟く。
「何がだ?」
「空」
当たり前のような答えだった。
でもその目は本気だった。
まるで初めて見る景色みたいに。
「昨日もあったぞ」
「猫の時はこんなに見えなかった」
そう言われて俺も空を見上げる。
いつ以来だろう。
空なんて見ていなかった。
仕事へ行く時も。
帰る時も。
下ばかり見て歩いていた気がする。
「きれい」
ハルが笑う。
俺は何も言わなかった。
ただ少しだけ胸がざわついた。
スーパーへ向かう途中。
事件は起きた。
「あっ」
ハルが立ち止まる。
「どうした」
「箱」
「箱?」
視線の先。
コンビニの横に積まれた段ボール。
次の瞬間。
ハルが吸い寄せられるように近づいていく。
嫌な予感がした。
「おい」
「……」
「おい」
「……」
ハルは段ボールを見つめていた。
真剣な顔だった。
まるで運命の相手に出会ったみたいな。
そして。
スポッ。
入った。
「何やってんだ!!」
「落ち着く」
「落ち着くな!」
「落ち着く」
「出てこい!」
ハルは段ボールから顔だけ出した。
「ここ住む」
「住まない」
「ダメ?」
「ダメだ」
「むぅ」
完全に猫だった。
なんとか段ボールから引きずり出し、スーパーへ到着する。
その瞬間。
ハルの動きが止まった。
鼻がひくひく動く。
そして。
「魚……」
低い声で呟いた。
嫌な予感しかしない。
「魚……!」
目が輝く。
「おい待て」
「魚ぁぁぁぁぁぁ!!」
全力疾走だった。
鮮魚コーナーへ。
俺は慌てて追いかける。
スーパー中に響く俺の声。
「走るなハル!!」
だが彼女は止まらない。
魚に向かって一直線だった。
その日。
俺は久しぶりに走った。
久しぶりに大声を出した。
久しぶりに人前で笑った。
少しだけ。
本当に少しだけだったけれど。
昨日まで終わらせるはずだった今日を。
俺は確かに生きていた。
「魚ぁぁぁぁぁぁ!!」
鮮魚コーナーへ向かって一直線に駆け出すハル。
「待てぇぇぇぇ!!」
俺は慌てて追いかけた。
朝から何をやっているんだ。
昨日まで人生を終わらせるつもりだった人間の行動とは思えない。
そんなことを考える暇もなく、スーパーの通路を走る。
幸いハルは魚売り場の前で立ち止まっていた。
氷の上に並べられた魚たちを前に、目を輝かせている。
「すごい……」
感動したような声だった。
「全部魚……」
「魚売り場だからな」
「天国?」
「違う」
「天国だ……」
違わないかもしれない。
少なくともハルにとっては。
すると鮮魚コーナーの店員が笑いながら声をかけてきた。
「魚好きなの?」
ハルは勢いよく振り返る。
「大好き!」
即答だった。
店員が思わず吹き出す。
「そりゃよかった」
ハルは真剣な顔で魚を見つめていた。
その視線は完全に獲物を狙う猫だった。
「食べていい?」
「ダメだ」
「なんで?」
「まだ会計してない」
「かいけい?」
「説明が面倒だ……」
店員は肩を震わせながら笑っている。
「お兄さん、大変そうだねぇ」
「ええ……」
本当に。
買い物は予想以上に時間がかかった。
野菜売り場。
「これ何?」
果物売り場。
「これ何?」
パン売り場。
「これ何?」
調味料売り場。
「これ何?」
「全部聞くな」
「だって知らないんだもん」
そう言われると何も言えなくなる。
ハルは本当に何も知らない。
昨日まで猫だったのだから当然だ。
けれど。
何もかもが新鮮で。
何を見ても楽しそうで。
その姿を見ていると、世界が少し違って見えた。
会計を済ませ、スーパーを出る。
昼前の空は青く晴れていた。
雨だった昨日とはまるで別世界だ。
「ご主人」
「ん?」
「笑ったね」
突然言われた。
「笑ってない」
「笑った」
「気のせいだ」
「魚売り場で」
ハルがにやにやしている。
俺は視線を逸らした。
確かに少しだけ笑った。
だが認めるのは癪だった。
「勘違いだ」
「ふーん」
絶対信じていない顔だった。
帰り道。
小さな公園の前を通りかかる。
子供たちの笑い声が聞こえる。
ブランコが揺れている。
俺は無意識に足を止めた。
いつからだろう。
こういう景色を見なくなったのは。
毎日仕事に追われて。
家と会社を往復して。
空を見上げる余裕すらなくなっていた。
「ご主人」
ハルが袖を引っ張る。
「座ろう」
近くのベンチを指差していた。
「疲れたのか?」
「ううん」
ハルは空を見上げる。
「気持ちいいから」
風が吹く。
木々が揺れる。
子供たちの笑い声が遠く響く。
俺たちはしばらく何も話さなかった。
それでも不思議と居心地が悪くなかった。
その時だった。
グラッ。
ハルの身体がふらついた。
「ハル?」
様子がおかしい。
顔色が少し青い。
「おい、大丈夫か」
ハルは自分の手を見つめていた。
指先が微かに震えている。
そして。
一瞬だけ。
白い猫の前足が見えた。
「……え?」
思わず目を疑う。
しかし次の瞬間には元に戻っていた。
見間違いじゃない。
確かに見えた。
ハルも不安そうな顔をしている。
「ご主人……」
声が震えていた。
「私……なんか変」
胸がざわつく。
今まで忘れていた。
当たり前のことを。
ハルが人間になった理由は分からない。
どうして人間になったのか。
いつまで人間でいられるのか。
何も知らない。
そしてもし――。
「元に戻るのか……?」
思わず呟く。
ハルの表情が曇る。
風が止んだ。
子供たちの笑い声だけが遠く聞こえる。
俺は気づいてしまった。
この賑やかな日常が。
ずっと続くとは限らないことに。
第四話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回はハルにとって初めての「おでかけ」のお話でした。
空を見上げたり、段ボールに入りたがったり、魚売り場で大興奮したり。
見た目は人間でも、中身はやっぱり猫なんだなと感じていただけたのではないでしょうか。
一方で主人公も、そんなハルに振り回されながら、少しずつ変わり始めています。
笑うこと。
誰かと話すこと。
何気ない日常を楽しむこと。
彼にとっては、どれも久しぶりのことなのかもしれません。
しかし、物語の終盤では少し不穏な出来事も起こりました。
ハルの身体に現れた異変。
人間になった理由も分からないまま、今度は新たな謎が生まれてしまいます。
この変化が何を意味するのか。
そして二人の日常はこれからどうなっていくのか。
少しずつ明かしていければと思っています。
次回もぜひお付き合いいただけると嬉しいです。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
もしこの物語を読んで、
「ハルかわいいな」
「主人公ちょっと頑張れ」
と思っていただけたなら、とても嬉しいです。
これからも二人の物語を温かく見守っていただければ幸いです。
それでは、また次のお話でお会いしましょう。




