3 名前
第二話を読んでいただき、ありがとうございました。
突然人間になってしまった猫と、そんな現実を受け入れざるを得なくなった主人公。
まだまだ混乱の最中ですが、少しずつ二人の距離も縮まり始めています。
今回の第三話では、人間になった猫にとって大切な「名前」がテーマになっています。
名前を持つこと。
誰かに呼ばれること。
それが彼女にとってどんな意味を持つのか、楽しみながら読んでいただけたら嬉しいです。
それでは第三話をお楽しみください。
朝食は意外とうまかった。
味噌汁は少し薄かったし、卵焼きはところどころ焦げていた。
焼き魚も片側だけ焼きすぎている。
だが――。
「おいしい?」
向かいに座る女性が身を乗り出してくる。
期待に満ちた目。
まるで飼い主の反応を待つ猫みたいだった。
「……まあ、食えなくはない」
素直に褒めるのが気恥ずかしくてそう答える。
すると女性は満面の笑みを浮かべた。
「やった!」
分かりやすい。
本当に分かりやすい。
俺は小さく息を吐いた。
こんな賑やかな朝はいつ以来だろう。
いや、思い出せない。
そもそも誰かと朝食を食べた記憶自体、何年も前のことだった。
「そういえば」
ふと気付く。
「お前、名前は?」
女性は首を傾げた。
「なまえ?」
「名前だよ」
「猫」
「それは種類だ」
「猫」
「だからそれは――」
話が進まない。
女性は困ったように考え込み、やがて言った。
「なかった」
「名前が?」
「うん」
野良猫だったのだろう。
昨日拾うまで、誰にも呼ばれたことがなかったのかもしれない。
そう思うと少し胸が痛んだ。
女性はテーブルに頬杖をつく。
「ご主人がつけて」
「俺が?」
「うん!」
目が輝いている。
完全に期待している顔だった。
「いや急に言われても……」
考える。
白と黒の毛並み。
琥珀色の瞳。
雨の日に出会った猫。
いくつか候補が浮かぶ。
だがどれもしっくりこない。
すると女性がこちらを見ながら言った。
「ご主人が呼びたい名前がいい」
その言葉に少しだけ驚く。
呼びたい名前。
そう言われると責任が重い。
しばらく考えた末、俺は口を開いた。
「……ハル」
「はる?」
「春のハル」
女性――いや、ハルは瞬きをした。
「なんで?」
「お前が来てから、少しだけ部屋が明るくなった気がするから」
言った瞬間、恥ずかしくなった。
何を言ってるんだ俺は。
しかしハルはぱっと笑顔になる。
「ハル!」
嬉しそうに自分の名前を繰り返した。
「ハル!」
まるで宝物を見つけた子供みたいだった。
「ありがとう、ご主人!」
次の瞬間。
ハルは勢いよく立ち上がった。
椅子が倒れる。
「うおっ!」
そしてそのまま俺に飛びついてきた。
「名前もらった!」
「ちょっ、おい!」
「ハル!」
「分かったから離れろ!」
「ハル!」
「近い近い近い!」
顔が近い。
距離感がおかしい。
猫の時の感覚のままなのだろう。
ハルは嬉しそうに笑い続けている。
その笑顔を見ていると、不思議と振り払う気にはなれなかった。
ふと視線が部屋の隅に向く。
そこには昨夜買ったロープが置かれていた。
昨日の自分は、それを使うつもりだった。
今も悩みが消えたわけじゃない。
生きる理由が見つかったわけでもない。
だけど――。
「ご主人!」
「なんだ」
「今日は何するの?」
無邪気な声。
期待に満ちた瞳。
俺は少し考えた。
昨日までなら「何もしない」が答えだった。
だが今日は違う。
「……とりあえず」
ハルを見る。
「お前が何者なのか調べる」
「猫だよ?」
「それ以外だ」
「猫だってば」
「そこから離れろ!」
部屋にハルの笑い声が響く。
その声を聞きながら、俺は気づいていた。
死ぬつもりだったはずの今日を。
俺は少しだけ生きている。
そんな気がしていた。
「そこから離れろ!」
俺がそう言うと、ハルは不満そうに頬を膨らませた。
「ご主人、冷たい」
「普通だ」
「猫の時は撫でてくれたのに」
「……」
反論できなかった。
確かに昨日は撫でた。
びしょ濡れで震えていたからだ。
だが今は違う。
見た目は完全に人間だ。
二十歳くらいの女性を撫でるのは色々と問題がある。
「とにかく」
俺は立ち上がる。
「病院に行く」
「びょういん?」
「それか警察」
「けーさつ?」
「お前のことを調べるんだよ」
ハルはしばらく考え込んだ。
そして。
「やだ」
即答だった。
「は?」
「ご主人といる」
「いや、そういう話じゃなくてだな」
「やだ」
「……」
頑固だ。
猫の時もそうだった。
餌の好みがあるのか、気に入らないものは見向きもしなかった。
その性格がそのまま残っているらしい。
ハルは椅子から降りると俺の服の裾を掴んだ。
「置いていく?」
「置いていかない」
「ほんと?」
「ほんとだ」
「よかった!」
ぱっと顔が明るくなる。
その笑顔に一瞬だけ言葉を失う。
なんというか。
眩しい。
最近の俺にはない表情だった。
ハルはそのまま部屋の中を歩き回り始めた。
あちこちを興味津々に見ている。
本棚。
テレビ。
カーテン。
観葉植物。
全部が珍しいらしい。
そして――。
「わぁ!」
窓辺に飛び乗った。
「おい」
「鳥さん!」
外を飛ぶスズメを見つけたらしい。
目を輝かせている。
次の瞬間だった。
ガンッ。
勢いよく窓に頭をぶつけた。
「痛っ!」
「何やってんだ!?」
「捕まえようとした」
「無理に決まってるだろ!」
「むぅ……」
ハルは悔しそうだった。
完全に猫である。
俺は頭を抱えた。
病院へ連れて行っても説明できる気がしない。
警察へ行っても信じてもらえない。
「どうしたらいいんだよ……」
思わず呟く。
するとハルがこちらを見る。
「ご主人」
「なんだ」
「困ってる?」
「……まあな」
「じゃあ撫でる?」
「は?」
ハルは俺の前にしゃがみ込んだ。
そして手を伸ばしてくる。
「猫はね」
ぽん。
頭に手が乗った。
「撫でられると元気になるよ」
「……」
「ご主人も元気になるかも」
優しい声だった。
冗談でもふざけているわけでもない。
本気でそう思っているらしい。
俺は思わず笑ってしまった。
本当に久しぶりだった。
自分でも驚くほど自然に笑っていた。
それを見たハルが嬉しそうに言う。
「笑った」
「笑ってない」
「笑った」
「気のせいだ」
「笑った!」
ハルは勝ち誇ったように笑う。
その顔を見ていると、また少しだけ笑いそうになる。
窓の外では雨が上がっていた。
雲の切れ間から陽の光が差し込んでいる。
昨日と同じ景色のはずなのに。
なぜだろう。
世界が少しだけ明るく見えた。
そしてその時だった。
グゥゥゥゥ……。
妙に大きな音が部屋に響く。
「……」
「……」
俺とハルの視線が重なる。
音の発生源はすぐに分かった。
ハルのお腹だった。
顔が真っ赤になるハル。
数秒後。
「お腹すいた」
真顔で言った。
俺は思わず吹き出した。
⸻
ハルとの生活はまだ始まったばかりだった。
だがこの時の俺は知らない。
彼女との出会いが、自分の止まっていた人生を少しずつ動かしていくことになるなんて。
第三話を読んでいただき、ありがとうございました。
今回のお話では、ついに猫だった彼女に「ハル」という名前が付きました。
野良猫として生きてきた彼女にとって、名前は初めて手にした大切な贈り物です。
そして主人公にとっても、「誰かに名前を与える」という行為は、思っている以上に大きな意味を持っていたのかもしれません。
また、物語の最後では主人公自身にも少し変化が見え始めました。
昨日までなら興味を持たなかったはずの明日。
昨日までなら考えなかったはずの行動。
ハルとの出会いが、少しずつ彼の止まっていた時間を動かし始めています。
もちろん、まだ全てが解決したわけではありません。
彼の心の傷も、ハルが人間になった理由も、まだ謎のままです。
ですが二人なら、少しずつ前へ進んでいけるのではないかと思っています。
次回はハルにとって初めての「おでかけ」。
猫の目には人間の世界がどう映るのでしょうか。
ぜひ次回もお付き合いいただけると嬉しいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




