明暗
やがて夏が終わり、秋が訪れた。風杜の木々は少しずつ色を変え、朝の空気には冷たさが混じり始めた。兄はリュニーク最後の一戦、錦秋賞へ挑もうとしていた。舞台は京都競駆場。直接見に行くには、私には遠い場所だった。
錦秋賞が近づいたある日、私は久しぶりに帰ってきたお父さんとグラウンドにいた。お父さんは仕事で風杜を離れていることが多かった。だからこうして練習を見てくれることはあまりない。久々にお父さんとの時間に私は少し浮かれていた。
「ほら、フレア。走ってみろ。思いっきりな」
お父さんは、グラウンドに簡単なコースを作ってくれてた。本物の競駆場のようなものではない。目印を置いて、ここがコーナーで、ここから直線、という簡単なものだった。けれど、基礎練ばかりで少し退屈していた私にはそれがとても楽しかった。遊びのように思い切り走れる。しかも、お父さんが見てくれている。それだけで胸が弾んだ。
私は勢いよく走り出した。ただ走るより、少しだけレースに近い気がして嬉しかった。ふと、お父さんの方を見ると、いつの間にか兄が隣に立っていた。二人は何かを話しているようだった。お父さんは前を向いたまま、兄に何かを言う。それを兄は少し俯きながら聞いていた。
私は走りながら、2人が気になってしまった。そんな時エクラちゃんの言葉がふと頭をよぎる。
『ベルアマードさんの走りがどこにもないように見えました。悲しそうに見えました。』
兄を見ると、胸の奥に少し不思議な感覚が生まれた。兄は何を思っているのだろう。お父さんは、兄に何を言っているのだろう。そんなことを考えながら走っていたから、私は少し足元を乱した。その時、二人の会話が終わったのか、お父さんが声を上げた。
「フレア、もっと前を見ろ」
私は顔を上げた。
「景色を追いかけるみたいに走れ」
景色。何を言っているのか分からなかった。息が苦しい中で、私は声を出した。
「景色?」
「そうだ」
お父さんは笑うように言った。
「見たいものを見に行くんだよ」
全く分からなかった。走りながら、私は不思議そうな顔をしていたと思う。見たいもの。走った先にあるもの。そんなものを私はまだ知らなかった。だから、分からなくて当然だったのだ。苦しさも、厳しさも、そのすべてを越えた先にあるもの。走り続けた者だけが見る景色。その景色を私はまだ知らなかった。
錦秋賞当日。私は京都競駆場には行かなかった。風杜にいたわけでもない。私は別の競駆場へ向かっていた。その日、エクラちゃんのデビュー戦が行われることになっていた。一人で競駆場へ行くのは初めてだったけど、不思議と迷わなかった。
エクラちゃんと何度も来ていたから、足取りはもう慣れていた。一人で歩いているのに、隣にエクラちゃんがいないことが少しだけ不思議だった。錦秋賞当日ということもあってか、その競駆場にもいつもより人が多かった。
錦秋賞を気にしている人たちのざわめきが、あちこちで聞こえる。兄の名前が聞こえるたび、私は少しだけ胸を押さえたくなった。けれど、その日私が見に来たのは、兄ではなく、エクラちゃんだった。
デビュー戦の出走前でもエクラちゃんは堂々としていた。初めてのレースとは思えないほど、姿勢が綺麗で黒い髪はきちんと整えられていた。表情には緊張も見えたけれど、それ以上に自信があった。トレーナーが何かを言っているけど、エクラちゃんはそれを聞いて笑顔で頷いている。素直に聞いているように見えるけど、私には分かった。彼女は全部を聞いているわけではない。必要なものだけを受け取り、それ以外は柔らかく流している。
縁側で言っていた通りだった。目指している走りがある。それに合うもの以外は聞いていない。その姿を見て、私は少しだけ苦笑した。本当に、エクラちゃんらしい。
そして、レースが始まった。ゲートが開く。その瞬間、エクラちゃんは迷わず先頭へ躍り出た。躊躇がなくて、初めてのレースとは思えなかった。
前へ。
誰もいない場所へ。後ろなど気にしないように。自分のペースで、まっすぐ進んでいく。その姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。兄に似ていた。去年の兄を見ているようだった。一番前で風を受けて、風のように走る。エクラちゃんが言っていた言葉が、そのままターフの上で形になっていた。
でも、ただ真似ているだけではなかった。フォームは綺麗だった。足の運びも滑らかで、身体の使い方も無駄が少ない。デビュー戦なのに、もう洗練されている走りだった。他の駆人たちとは、明らかに雰囲気が違っていた。それに気づいた観客席の空気が変わるのが分かった。最初は何気なく見ていた人たちが、次第に前のめりになる。
誰かが小さく声を上げる。周囲の視線が、エクラちゃんへ集まっていく。私はその時知った。エクラちゃんは、競駆の才能に溢れていることを。私の親友は、ただ兄に憧れているだけの子ではなかった。本当に走れる子だった。本当に理想を体現できる子だった。結果、エクラちゃんはそのまま勝った。
堂々と先頭でゴールを駆け抜けたその瞬間、競駆場の空気が大きく揺れた。私も思わず立ち上がっていた。
「エクラちゃん!」
声を上げた。周囲でも彼女の名前が呼ばれ始めていた。エクラディーヌ。その名前が、競駆場の中に広がっていく。この勝利でエクラちゃんは一気に注目を集める存在になった。それは見ていれば分かった。ただ勝っただけではない、人の記憶に残る勝ち方だった。
しばらくして、レースを終えたエクラちゃんが会いに来てくれた。まだ少し汗をかいていた。息も整いきっていないけど、その姿は絵になるほど輝いていた。黒い髪が少し乱れているのに、それすら綺麗だった。私は興奮したまま言った。
「凄いね! エクラちゃん! 一着だよ!」
エクラちゃんは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
それから、少し身を乗り出すようにして聞いてきた。
「で、どうでした?」
「どうって?」
私は何を答えればいいのか分からなかった。凄かった。綺麗だった。速かった。そういう言葉ならたくさん浮かぶ。でも、エクラちゃんが求めている答えが何なのか、すぐには分からなかった。エクラちゃんは待ちきれないように言った。
「ほら、ベルアマードさんみたいだったでしょ!」
その言葉で、胸が少しだけ痛んだ。ああ。本当に。この子は本当に、兄を目指しているのだ。そして本当に、兄のことが好きなのだ。自分のデビュー戦で勝った直後でさえ、彼女が確かめたいのはそれだった。自分が勝ったかどうかだけではない。自分が、兄みたいに走れたか。
そのことが、彼女にとって大事だった。私は少し言葉に詰まった。
「う、うん」
どうにか笑った。
「凄かったよ」
私の答えに、エクラちゃんはぱっと顔を明るくした。
「本当ですか?」
「うん」
「嬉しいです!」
彼女は心から喜んでいた。きっと彼女は知らない。私がどんな気持ちでその言葉を言ったのかを。凄かったのは本当だった。エクラちゃんの走りは本当に綺麗だった。でも、胸の痛みも本物だった。親友の勝利を喜びながら、その才能を誇らしく思いながら。それでも、彼女の輝きが少しだけ眩しすぎて、私は目を細めていた。
その時、競駆場の大型掲示板が切り替わった。京都競駆場の映像だった。錦秋賞。私とエクラちゃんは、並んで掲示板を見上げた。自然と、どちらからともなく手を繋いでいた。
「始まりますね……」
エクラちゃんが呟いた。
「うん」
私は頷いた。錦秋賞。一生に一度のリュニーク、最後の一戦。もう私は、このレースの重さを理解していた。雨月賞。日本クラウン。そして錦秋賞。兄がどれだけ真剣だったかを知っている。どれだけ努力していたかも、私は見ていた。だから、報われてほしかった。
本当にそう思っていた。兄に勝ってほしかった。兄のリュニークが、このまま終わってほしくなかった。画面ので、駆人たちがゲートへ入っていく、その中で兄の姿が映る。私は手に力を込めた。エクラちゃんも、強く握り返してきた。
レースが始まった。兄は前へ出た。いつものように先頭を取りに行く。けれど、京都のコースは、それまでの競駆場とは違っていた。起伏があり、曲がり方も難しそうで、画面越しでも簡単なコースではないことが分かった。
兄は前で走る。私は祈るように見ていた。途中までは、悪くないように見えた。兄は先頭にいて、力も残っているように見えた。
このまま。このまま、最後まで行って。そう思った。けれど、勝負どころよりも早く兄は動いた。後ろから来る気配に反応したのかもしれない。仕掛けるタイミングが、少し早かった。その時の私は、細かいことまでは分からなかった。ただ、兄が前へ行こうとしているのが分かった。
そして、その前へ行こうとする気持ちが、少しだけ急ぎすぎているように見えた。兄は早く仕掛けた。画面の中の兄が、必死に先頭を守ろうとしている。けれど、最後までスタミナがもたなかった。直線。兄の脚色が鈍る。後ろから駆人たちが迫ってくる。一人。また一人。
兄を抜いていく。雨月賞の時の光景が、頭をよぎった。私は息を呑んだ。
「お兄ちゃん……」
声が漏れた。エクラちゃんの手が震えていた。兄は沈んでいった。最後まで、先頭ではいられなかった。ゴールの瞬間、兄の名前は一番には呼ばれなかった。勝ったのは兄ではなかった。兄のリュニークは、一勝もできずに終わった。その事実が、掲示板の映像よりも重く、私の胸に落ちてきた。
一生に一度。もう二度と戻らない三つの舞台。そこに、兄の勝利は一つも残らなかった。周囲では、錦秋賞の結果に声が上がっていた。でも、私にはうまく聞こえなかった。隣を見ると、エクラちゃんは何も喋らず、俯いていた。デビュー戦を勝ったばかりの彼女の顔から、さっきまでの明るさは消えていた。
自分の勝利よりも、兄の敗北の方が深く刺さっているように見えた。それを見て、胸がまた痛んだ。エクラちゃんは今日勝った。誰もが振り向くような走りで。兄のように走って。けれど、その兄は今日負けた。リュニークを一つも勝てずに終えた。その二つの出来事が、同じ日に重なっていることが、私にはひどく残酷に思えた。
私は何か言おうとしたけど、言葉が出なかった。エクラちゃんも、何も言わなかった。ただ、繋いだ手だけが、少し強く握られていた。私はその手を握り返した。それしかできなかった。
その日、私は二つのものを見た。エクラちゃんの始まり。そして、兄のリュニークの終わり。どちらも、私の目の前で起きた。一つは眩しくて、一つは苦しかった。その二つの光景が、胸の中で混ざり合って、うまく息ができなかった。私はまだ知らなかった。この日から、少しずつ色々なものが変わっていくことを。兄も、エクラちゃんも、そして私自身も。




