約束
錦秋賞から少し経って、兄は競駆を辞めると言った。世間に向けて発表したわけではないし、競駆場で引退を宣言したわけでもない。ただ風杜の中で、武田トレーナーと、お母さんと、お父さんに、自分の口で伝えたのだった。私はその場にはいなかった。けれど、後から分かった。
風杜の中に、いつもとは違う静けさが落ちていた。グラウンドに兄の姿がない。それだけで、何か大きなことが起きたのだと分かった。武田トレーナーは、兄を思い止まらせようとしていたらしい。当然だ、兄はまだ三歳だった。デザイアトロフィーを勝ち、リュニークでは勝てなかったけれど、日本クラウンで二着に入り、錦秋賞でも最後まで戦った。
終わりにするには、早すぎる。しかし、お母さんとお父さんは意外なほどあっさり認めた。それを聞いた時、私は少し驚いた。競駆の厳しさを誰よりも知っている二人だからこそ、兄が簡単に辞めることを許さないのではないかと思っていた。でも、二人は止めなかった。
その理由を当時の私は理解できなかった。だけど今なら少し分かる。あの時の兄は誰かに引き止められたくらいで走れる状態に戻ることはできなかったと思う。走らせることが正しさになるとは限らない。どれだけ才能があっても、どれだけ期待されても、本人の心が前を向けなければ、ターフはただ苦しい場所になる。
お母さんとお父さんは、それを知っていたのだろう。けれど、その時の私はまだ子供だった。だから、ただ寂しかった。兄がいなくなったグラウンドはとても広かった。それまで兄はいつもどこかにいた。私の練習はいつもその端にあった。兄の練習とは全然違う場所で全然違う内容だった。
それでも、同じグラウンドにいるというだけで、少し嬉しかった。遠くに兄がいる。私も同じ場所で走っている。それだけで、どこか安心できていた。でも、兄がいなくなると、グラウンドは急に大きくなった。広すぎるくらいだった。風がよく通った。土を踏む音が、自分のものだけになった。
トレーナーの声も以前より響いて聞こえた。私と兄しかいなかった風杜のグラウンド。そこに今は、私しかいない。その事実が練習をするたびに胸へ重く落ちてきた。走っていても、どこか身が入らなかった。
ある練習が休みの日、私は居間でテレビを見ていた。映っていたのは、競駆の特集だった。色々な駆人が映っている。逃げる駆人。後ろから追い込みを狙う駆人。コーナーで器用に位置を上げる駆人。直線で一気に伸びてくる駆人。以前の私はそんなものを一人で見ることはなかった。いつもテレビの競駆をじっと見ていたのは、兄だった。
私はその横で袖を引いたり、顔を覗き込んだりして、構ってほしいと思っていた。でも、いつの間にか私もテレビで競駆を見るようになっていた。エクラちゃんと何度も競駆場へ通ったからかもしれない。兄の走りを追いかけるうちに、他の駆人の走りにも目が向くようになったのかもしれない。
画面の中のターフを見ていると、競駆場の匂いや音が少しだけ戻ってくる気がした。その時だった。居間の入口に、兄が立っていた。そのことに私はすぐに気づいた。
「あ、お兄ちゃん」
反射的に身体が固まった。兄は何も言わず、テレビへ視線を向けていた。私は慌ててリモコンを手に取った。
「ごめん、テレビ変えるね」
お母さんたちに、兄へ気を遣いなさいと言われたわけではなかった。競駆の番組を見せてはいけないと言われたわけでもない。
けれど、私は本能的に思ったのだ。今の兄に、これは見せてはいけない。だから私は、テレビを変えようとした。
その姿を見て、兄は少し眉を動かした。
「俺に気にしないでいい」
低い声だった。私はリモコンを持ったまま迷った。本当にいいのか分からなかった。変えた方がいいのではないか。でも、変えること自体が兄を傷つけるのではないか。どちらが正しいのか分からず、指が動かなかった。
「いいって言ってるだろ」
兄が言った。きっと強く言ったつもりはなかったのだと思う。けれど、その声には、それ以上何もするなという意思が込められているようだった。
私はリモコンをそっと置いた。兄は居間へ入っては来なかった。入口の近くに立ったまま、テレビを見ていた。私は画面を見ているふりをしながら、後ろの兄が気になって仕方なかった。
番組は進んでいった。やがて、兄たちの三歳世代の特集へ入った。リュニークを戦った駆人たち。雨月賞。日本クラウン。錦秋賞。それぞれの勝者が画面に映る。ベストセンスさん。ルーレットショーさん。レクルースさん。三人は、今年のジャパントロフィーへ向けた意気込みを語っていた。
世界的な駆人たちが集まる大きなレース。私にもその名前の重さは充分にわかる。三人はそれぞれに真剣だった。自分たちの世代を証明したい。世界と戦いたい。三歳でも届くところを見せたい。そんな言葉が並んでいく。そして最後に、兄の話になった。
ベルアマード。その名前がテレビから聞こえた瞬間、私は息を止めた。画面の中の三人は、兄が出ないことに納得していないようだった。抗議しているようにも見えた。なぜ出ないのか、あの逃げがなければこの世代は完成しない。そんな言葉が画面越しに聞こえてくる。
私は後ろの兄を見たかった。でも、振り向けなかった。振り向いたら、兄がどんな顔をしているのか見えてしまう、それが怖かった。それでも、気配だけで分かった。兄は食い入るように画面を見ていた。逃げるように目を逸らすのではなく、怒るでもなく、ただテレビから目が離せないようだった。
テレビの中ではまだ三人が話している。自分たちと同じ世代として、同じリュニークを戦った相手として、兄に向かってここに来いと言っているようだった。その時、兄が一歩下がった。本当に小さな一歩だった。けれど、その一歩には逃げるような気配があった。私は思わず振り向いた。
「お兄ちゃん」
呼び止めた。でも、兄は何も言わなかった。私を見ることもなく、そのまま居間を出ていった。足音が廊下の向こうへ消えていく。私はしばらく、テレビの前に座ったまま動けなかった。画面ではまだ競駆の特集が続いていたけど、もう何も頭に入ってこなかった。
兄が本当に競駆を辞めてしまうのか、そのことばかり考えていた。もし兄が競駆を辞めたら、兄はもうグラウンドで走らない。テレビの競駆を見て、身体を前に傾けることもなくなるのかもしれない。
私から兄を奪ったもの、私が小さい頃、兄を遠くへ連れていってしまったもの。それが競駆だった。だから本当なら、嬉しいことだったのかもしれない。兄が競駆を辞めれば、もっと私を見てくれるかもしれない。練習に行かず、グラウンドにも出ず、昔みたいにそばにいてくれるかもしれない。そう思えば私は喜べたのかもしれない。でも、そうは思えなかった。
悲しさの方がずっと大きかった。競駆は好きではなかった。兄を奪い、怖くしたものだから。でも、今はもう競駆のない兄が想像できなかった。兄はずっと走っていた。前を見て、時には壊れそうになって、それでも走っていた。その兄から競駆が消えてしまうことは、あまりにも悲しかった。胸の奥が詰まって、涙が出そうになった。
その時、玄関の方から音がした。誰かが来た音だった。私は慌てて目元を拭った。泣いている顔を見られたくなかった。立ち上がり、玄関へ向かう。戸を開けると、そこにエクラちゃんが立っていた。
「フレアちゃん!」
いつものように、明るい声だった。
「お元気ですか。遊びにきちゃいました」
その姿を見た瞬間、さっき拭ったはずの涙が、また溢れてきた。エクラちゃんの顔が一瞬で変わった。
「どうしたんですか! フレアちゃん! 何かあったんですか?」
私はうまく答えられなかった。声が詰まって、涙ばかり出た。それでも、エクラちゃんは黙って待ってくれた。私は泣きながら話した。兄が競駆を辞めるかもしれないこと、本当に辞めてしまうかもしれない、そう思うとなぜか悲しくてたまらないこと。
言葉はまとまらなかった。同じことを何度も言ったかもしれない。途中で泣いて、うまく伝えられなかったかもしれない。それでもエクラちゃんは、最後まで聞いてくれた。その時の彼女の顔を、私はよく覚えていない。話すのに必死だったから。でも、きっとエクラちゃんも泣いていたのだと思う。少なくとも、私が顔を上げた時、彼女の目は少し赤かった。
ひとしきり話して、ようやく落ち着いた頃には、外は日が暮れ始めていた。風杜の廊下に長い影が伸びていた。エクラちゃんは静かに立ち上がった。
「私、ベルアマードさんと話ししてきます」
その声には、迷いがなかった。私は思わず彼女を見た。
「今から?」
「はい」
「でも……」
何を言えばいいのか分からなかった。止めたいわけではない。でも、何を話したらいいかも分からないし、兄が何を言うのかも分からない。エクラちゃんは、私に小さく笑った。
「大丈夫です」
そう言って、兄を探しに行った。その背中を見送って、私は思った。やっぱり、エクラちゃんはかっこいい。自分の気持ちを伝えに行った。きっと兄の引退を止めるために。私は何もできなかった。泣いて、話して、それだけだった。兄のところへ行く勇気もなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。でも、エクラちゃんは違った。自分で決めて、自分の足で、前へ進む。あの時から。いや、最初に会った時から彼女はそうだった。私の前を歩いていた。少し先へ行って、振り返って手を伸ばしてくれる子だった。その背中が、羨ましかった。
しばらくして、エクラちゃんは戻ってきた。私はすぐに駆け寄った。
「ねえ、エクラちゃん。どうだった?」
エクラちゃんは少しだけ笑った。その顔は、泣いた後のようにも見えたし、どこか晴れやかにも見えた。
「告白してきましたよ」
私は一瞬、言葉を失った。
「告白!?」
思わず大きな声が出た。何でそんな話になったのか、まったく分からなかった。兄の引退を止めに行ったのではなかったのか。いや、それもあったのだろう。でも、エクラちゃんにとってはきっとそれだけではなかった。
「でも、断られてしまいました」
彼女はそう言った。
「……そうなんだ」
私は慎重に返した。どんな顔をすればいいのか分からなかった。慰めるべきなのか。抱きしめるべきなのか。そっとしておくべきなのか。でも、エクラちゃんの顔は、思っていたほど悲しそうではなかった。むしろ、どこか嬉しそうだった。目の奥に、まだ熱があった。
「でもね!」
エクラちゃんは、少し身を乗り出した。
「ベルアマードさん、私のこと少しずつだけど気にしてくれるって約束してくれたんですよ!」
告白は失敗した。でも、二人の関係は進んだ。そういうことなのだろう。私は少しだけ安心した。けれど、まだ聞きたいことが聞けていなかった。
「そうなんだ……それで、お兄ちゃん、競駆はどうするって言ってたの?」
そう聞くと、エクラちゃんの顔が真剣になった。さっきまでの嬉しそうな表情が消える。彼女はまっすぐ私を見た。
「私の次のレース」
「次のレース?」
「はい。私が勝てば続ける。そう約束してくれました」
私は言葉を失った。そんな約束をしてくるとは思っていなかった。兄が、あの兄が。自分のこれからを、エクラちゃんのレースに預けた。その事実が、すぐには理解できなかった。そんな私にエクラちゃんは言った。
「だから、私は勝ちます」
その声には、揺らぎがなかった。
「それでベルアマードさんに、もう一度、あの頃の走りを見せてもらうんです」
その時、私は感じた。この子には敵わない、そう思った。エクラちゃんは、兄を見ている。私よりもずっと深く。私が泣くだけで何もできなかった時に、彼女は兄の前に立ち、自分の気持ちを伝え、約束まで取りつけてきた。好きだと言って、断られて、それでも前を見ている。
そして、勝つと言っている。その強さが眩しかった。悔しいくらいに。それでも、兄がまた走るかもしれない。そう思うと、私はエクラちゃんに託さずにはいられなかった。
「……うん」
私は頷いた。
「エクラちゃんなら、勝てるよ」
その言葉は本心だった。本心でありながら、胸の奥に小さな痛みを残した。
そして、エクラちゃんの出走日が来た。私は兄を連れて競駆場へ向かった。兄と二人でこうして出かけるのは、初めてだったと思う。それが、私は少しだけ嬉しかった。もちろん、心の中には怖さもあった。
兄の隣を歩いていても、手は伸ばせない。昔のように袖を掴むことはできない。でも、隣に兄がいる。それだけで、少しだけ昔に戻ったような気がした。競駆場に着くと、兄は少し戸惑っていた。無理もなかった。兄はいつも、出走者として競駆場に来ていた。観客としてここに来るのは初めてだったのだと思う。兄は不思議そうに見渡していた。
私は兄を案内し歩いた。いつも後ろから見ることしかなかった兄を今度は私が教えている。兄が走る場所を、観客としての場所から見せている。そのことが、少しくすぐったかった。
スタンドへ案内してすぐ、エクラちゃんのレースの時間になった。ターフに出てきたエクラちゃんは、いつものように堂々としていた。背筋を伸ばし、顔を上げ、観客席の視線を受けても少しも怯えない。そして、笑っていた。
「ほら、お兄ちゃん! エクラちゃん出てきたよ!」
私が指差すと、兄もそちらを見た。その表情がわずかに変わったて、驚いているようだった。エクラちゃんのフォームを見ている。立ち方、歩き方。、身体の使い方。兄はただ眺めているのではなかった。駆人として見ていた。
レース前にエクラちゃんは、トレーナーに何かを言われていた。けれど、いつものように笑って頷いている。ちゃんと聞いているようで、あまり聞いていない顔だった。私は苦笑した。
「あっ、またエクラちゃん、トレーナーさんの話ちゃんと聞いてない」
兄が反応した。
「……そうなのか?」
「うん。コース取りとかペースとか、色々言われるらしいけど、全然頭に入ってないって言ってた」
兄は黙った。何を思ったのかは分からないけど、その沈黙の奥で何かが動いたような気がした。その時、エクラちゃんがこちらに気づいた。ぱっと顔を明るくして、大きく手を振る。何かを言っているように、口が動いていた。距離があって聞こえないけど、きっと私たちに向けて何かを言っていた。
私は大きく手を振り返した。
「エクラちゃん、頑張ってー!」
隣を見ると、兄も少しだけ手を上げていた。ほんの小さな動きだった。けれど、エクラちゃんには見えたのだと思う。その姿が見えたからか、彼女の顔がさらに明るくなった。そしてそのまま、ゲートへ向かっていく。
レースが始まりゲートが開く。エクラちゃんは一直線に先頭へ出た。迷いはなかった。誰よりも早く前へ出る。そして、そのまま走っていく。宣言通りだった。あの時の兄と同じ走り。一番前で風を受け、後ろなど気にしないように走っていたあの頃の兄。エクラちゃんは、それをターフの上に再現していた。
いや、ただ再現していただけではない。彼女の身体で、彼女の意志で、彼女自身の走りとして、前へ進んでいた。きっとトレーナーに言われたものは、いくつもあったのだろう。でも、その時のエクラちゃんには、それより大事なものがあった。誰よりも前で風を受けること。兄に、自分の走りを見せること。そのために、彼女は走っていた。隣の兄は、最初は驚いていた。時々、何か言いたそうにわずかに口を開く。
たぶん、言いたいことはたくさんあったのだと思う。色んな言葉が浮かんでいたのかもしれない。けれど、兄は言えなかったのだと思う。エクラちゃんの走りを見ているうちに、兄の身体が少しずつ前のめりになっていった。エクラちゃんから目が離せなくなっているのが分かった。
最後の直線に入る。エクラちゃんの脚が、少し重くなった。後ろから駆人たちが迫ってくる。差が縮まる。観客席の声が大きくなる。私は叫んでいた。
「エクラちゃん!」
エクラちゃんは終わらなかった。苦しそうだった。それでも、前へ踏み込んだ。一歩。もう一歩。脚が重いはずなのに、もう一度速度を上げる。その姿に、胸が熱くなった。隣で、兄も前のめりになっていた。そして、声を上げた。何と言ったのかは、歓声にかき消されて聞こえなかった。
それでも、兄は確かに声を出していた。エクラちゃんへ向けて。その声援に応えるように、エクラちゃんは最後まで先頭を守った。ゴールへと一番に駆け抜けたのは、エクラちゃんだった。私は子供のように飛び跳ねた。
「勝った! エクラちゃん勝ったよ、お兄ちゃん!」
嬉しくて、兄の方を見た。兄は何も返さなかった。けれど、その目はエクラちゃんに釘付けだった。ただの観客の目ではなかった。ただの感謝でもない。何かを思い出したような目だった。走り終わったエクラちゃんも、兄を見つけると、安心したように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、私は胸の奥で何かが少し揺れるのを感じた。
エクラちゃんが勝った。それは、兄が競駆を辞めないということを意味していた。兄がまた走るかもしれない。そのことは嬉しかった。本当に嬉しかった。でも、同時に、ほんの少しだけ、疎外感があった。兄とエクラちゃんの間で、何かが通じ合っている。二人にしか分からないものがある。
私がそこにいるのに、私だけが外にいるような感覚。エクラちゃんが走って、それを兄が見て、声を出して、エクラちゃんが微笑む。その間に、私はいなかった。さっきまで隣で兄を案内していたのは私だった。今までエクラちゃんを応援していたのも私だった。二人を繋いだのは、たぶん私だった。
それなのに、二人の視界の中から、私だけが少し消えているように感じた。気のせいだと思いたかった。きっと、嬉しすぎて変なことを考えているだけだと思った。だから私は笑った。エクラちゃんの勝利を喜んだ。兄がまた走るかもしれないことを喜んだ。けれど、胸の奥に残った小さな痛みは消えなかった。
きっと、あの感覚は間違っていなかったのだと思う。あの瞬間、二人の視界の中に、私はいなかった。少なくとも私は、そう感じてしまった。そしてその小さな疎外感は、いつかもっと大きなものになっていく。




