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11/20

飛翔

兄は、エクラちゃんのレースを見た後、競駆へ戻ってきた。それは大きな宣言ではなかった。ただ、兄は風杜のグラウンドに戻ってきた。それだけだった。けれど、その事実が私にはとても大きなことに思えた。兄の足音がまたグラウンドに響く。それまで広すぎるように感じていたグラウンドが、少しだけ元の広さに戻った気がした。


兄がいるその事実だけで、私は少し息がしやすくなった。でも、戻ってきた兄は以前の兄とは違っていた。覚悟を決めた目をしていた。その目は鋭く燃えているというよりはもっと静かだった。もう一度走ると決めた人の目。兄のそんな目を初めて見た気がした。


練習の内容もリュニークの頃とは変わっていた。あの頃の兄は、勝つために走りを変えようとしていた。それは確かに強くなるための練習だったけど、どこか兄を型にはめようとしているようにも見えた。でも今は違った。兄が走りたいように走れるようにする。そのための練習だった。


兄の走りは少しずつ変わっていった。いや、戻っていったのかもしれない。デザイアトロフィーで、誰よりも前を走っていたあの姿へ。ただ、昔と同じではなかった。恐怖を知らなかった頃の無邪気な走りではない。負けることも、飲み込まれることも、届かないことも知った上で、それでも前を選ぶ走りだった。私はその変化を遠くから見ていた。


そして、運命の日が来た。兄にとっても、エクラちゃんにとっても。そして私にとっても。その後の人生そのものを変えてしまうほどの一日が。


ジャパントロフィー。世界の駆人たちが集まる、国際GR。その日、私はエクラちゃんと一緒に現地へ向かった。競駆場は、これまで見てきたどの日とも違っていた。日本クラウンも特別だった、あの日の熱気も人の数も、今でも忘れられない。けれど、今日の空気は、また別のものだった。国際GR。その言葉の重みが、競駆場全体に沈んでいるようだった。


周囲には、見慣れない言葉も飛び交っていた。海外から来た観客、遠くから取材に来た記者、普段の競駆場では見ない装いの人たち、掲げられた国旗、大きく映し出される海外駆人の紹介映像。いつもの競駆場なのに、どこか別の国に来たようにも感じた。けれど、私たちには、その雰囲気を楽しむ余裕はなかった。


前なら、エクラちゃんは色々と説明してくれただろうがその日は違った。私たちは早めに席へ向かい、ジャパントロフィーの前のレースを見たけど、二人とも落ち着かなかった。レースは目の前で行われ、駆人たちが真剣に走っている。観客席も盛り上がっている。


それなのに、私の意識はずっと先の時間へ引っ張られていた。隣のエクラちゃんも同じだった。いつもなら、レースを見て色々なことを言う彼女が、その日はほとんど黙っていた。膝の上で両手を握り、ターフを見つめている。それは、今行われているレースを見ているというより、もっと先の何かを待っているようだった。


時間が近づくにつれて、競駆場にはさらに人が集まってきた。席が埋まり、通路が埋まる。歓声が少しずつ大きくなる。大型掲示板では、ジャパントロフィーの特集が流れ始めた。歴代の勝者、海外から来た駆人たちに今年の注目選手。そして、三歳日本駆人の挑戦。


音楽が変わり場内の空気が、さらに深く沈み込むように張り詰めた。私は手すりを握った。指先が少し冷たかった。やがて、出走者たちが現れた。最初に目を引いたのは、海外の駆人たちだった。観客席から見ても、体格が違うのが分かった。立っているだけで、周囲の空気を押し広げるような迫力があり、そして余裕そうだった。


表情に焦りがなく、この舞台に慣れているようにも勝つことが当然だと思っているようにも見え、このレースは自分たちのものだと言っているようだった。私は少し圧倒された。日本クラウンの時も、人の熱に押されそうになった。でも、この日はそれとは違う。


相手そのものが、大きく見えた。


世界。


その言葉が、急に現実味を持った。すると海外の駆人たちの顔つきが、少しだけ変わった。視線の先を見ると兄たちが登場していた。ベストセンスさん。ルーレットショーさん。レクルースさん。そして、兄。三歳世代。リュニークを戦ってきた駆人たち。海外の駆人たちは、一瞬だけむっとしたような顔をし、それからすぐに表情を変え、嘲笑うように何かを話していた。


言葉は聞こえない。けれど、何を言っているのか、何となく分かる気がした。若い。まだ早い。日本の三歳が、ここで何ができる。そういう目だった。だけど兄たちの顔は真剣だった。本気で歴史を創りに来た。そんなことが、観客席からでも伝わってくる顔つきだった。


その中で、兄だけは少し違って見えた。もちろん真剣だった。けれど、緊張でも、気合いでもない、もっと清々しい顔をしていた。ただ走ることを楽しみに来たような顔。走ることを思い出した人の顔。私はその表情を見て胸が熱くなった。


隣ではエクラちゃんは、兄から視線を逸らさず見つめて、両手を握りしめている。それはまるで祈っているかのようで、目は強く、まっすぐだった。

彼女もきっと、分かっていたのだと思う。この日の兄が、前とは違うことを。


ファンファーレが鳴り響き競駆場の空気が、一気に震える。出走者たちはゲートへ向かった。そして一瞬、静寂が落ちる。あれほど騒がしかった競駆場が、息を止めたように静かになった。


沈黙を破るようにゲートが開いた。一気に飛び出していったのは、兄だった。迷いはなかった。一目散に先頭へ出る。後ろを確認することもない。誰がついてくるのか、どこに海外の駆人がいるのか、そんなことは関係ないというように、ただ自分のペースで走り始めた。


エクラちゃんが前のめりになった。その顔に、笑みが浮かぶ。


「そう……!」


小さな声だったけど、はっきり聞こえた。


「これです! この走りです!」


その声は震えていた。喜びと確信で。ずっと探していたものを、ようやく見つけたような声だった。確かに、それはあの時の走りだった。エクラちゃんが一目惚れした時の兄。私がデザイアトロフィーで見た、誰よりも前で風を受けている兄。


けれど、同時に私は怖かった。


その走りは危険だと思った。何度も競駆を見てきた私は、少しだけレースの知識を携えていた。前へ行きすぎれば、最後にもたない。後ろで脚を溜めていた駆人に、直線で抜かれる。世界の強豪相手なら、なおさらそうなる。そう思った。そしてそう思ったのは私だけではなかった。


他の走者たちも、兄を一人で行かせていた。無理に追わず自分たちのペースを守る。前にいる兄を、泳がせるように。海外の駆人たちは余裕の表情を崩さなかった。あのまま走らせておけば、最後に捕まえられる。そう思っているようだった。けれど、違った。兄のスピードは落ちなかった。


向こう正面の直線に入っても。最後のコーナーに入っても。最終直線へ向かう時も。兄の走りは変わらなかった。それどころか、ゴールに近づくにつれて、どんどん輝いていくように見えた。


前へ。


さらに前へ。


風を受けて、風そのものになるように。観客席の空気が変わる。ざわめきが広がる。海外の駆人たちの顔も変わった。余裕が消え、本気の顔になる。兄の背中を追い始めた。その速さと勢いは、衝撃的だった。後ろの集団が一気に迫ってくる。世界の強さが牙を剥く。


もう追いつかれる。私はそう思った。手すりを握る手に力が入る。エクラちゃんの息が止まったような気配がした。でも、兄は捕まらなかった。兄は、さらにスピードを上げた。しかも、笑っていた。はっきり見えたわけではない。ターフは遠いから表情の細部までは分からないけど、確かに兄は笑っていた。


私は、兄の前にどんな景色が広がっていたのか分からない。誰もいないターフの先にあるゴール板。冬へ傾き始めた高い空。観客席の熱。後ろから迫る世界の強豪たち。それらすべてが、兄にはどう見えていたのだろうか。きっと、後ろから追ってくる駆人たちが気にならなくなるほどの景色だったのだと思う。


怖さを忘れるほどの、そして前へ行く理由になるほどの景色。見たいものを見に行く。いつかお父さんが私に言った言葉を、私はその時思い出していた。兄は、見ていたのだ。自分が見たかった景色を。そして兄は、そのままゴールへ駆け抜けていった。その瞬間、競駆場は爆発した。


歓声が一気に響き渡り実況の声が割れるほど高くなる。誰かが叫び、誰かが立ち上がり、誰かが頭を抱える。競駆場そのものが揺れているようだった。この瞬間のことを、私は今でも鮮明に覚えている。冬へと傾き始めた空の、どこまでも高い青。ターフの緑。ゴール板を駆け抜けた兄の背中。


遅れて飛び込んでくる後続の駆人たち。観客席を震わせる大歓声。私は、その光景に圧倒されて立ち尽くしていた。言葉は出なかった。喜ぶより先に、身体が動かなかった。ただ、涙だけが流れていた。隣を見ると、エクラちゃんも泣いていた。口元を手で押さえ、肩を震わせているけど視線は兄から離れていなかった。


その目には、ずっと追いかけてきたものが映っていたのだと思う。あのデビュー戦の日から、彼女がずっと見つめていた兄の走り。失われたと思っていた輝き。それが、世界の舞台で戻ってきた。エクラちゃんが、ふと私を見た。目が合った瞬間、私たちはどちらからともなく抱き合った。


泣きながら。笑いながら。声にならない声を上げながら。


「勝った」


「勝ちました」


「お兄ちゃんが」


「ベルアマードさんが」


言葉はめちゃくちゃだった。でも、それでよかった。私たちは抱き合って喜び合った。あの時だけは、胸の痛みも、疎外感も、置いていかれる感覚もなかった。ただ、同じものを見ていた。視線をターフへ戻すと、兄が競駆場全体から賞賛を受け名前を呼ばれていた。


アマルティアの子でも、ウインドベルの子でもない。ベルアマードとして。その名前が、競駆場の空へ何度も何度も響いていた。


その時だった。私は愚かにも、思ってしまった。この光景の中に、私も入りたい。目を逸らすことのできない、こんな眩しい場所に。ただ観客席で泣いているだけではなく。誰かの勝利を喜ぶだけではなく。私自身がターフに立って、私自身の走りで誰かの心を震わせたい。私も、競駆で輝きたい。そう思ってしまった。


それがどれほど苦しい願いなのか。どれほど自分を削り傷つくものなのか。私はまだ知らなかった。


翌日。私はトレーナーに尋ねた。


「私のデビュー戦はいつ?」


トレーナーは、驚いた顔をした。当然だったと思う。それまでの私は、練習をしていてもどこか遊びの延長だった。基礎練習には取り組むし走ることも嫌いではない。けれど、デビューしたいと自分から言ったことはなかった。トレーナーはすぐには答えられず言葉を探しているようだった。


その時、近くにいた武田トレーナーがこちらを見て、静かに言った。


「フレア。デビューを目指すには、今よりもっと練習しないといけない」


その言葉は厳しかった。けれど、突き放すものではなかった。ただ現実を伝えていた。私は武田トレーナーを見て強く言った。


「練習やる!」


自分でも驚くほど、はっきりした声だった。


「私、本気で競駆をやりたいの!」


その場の空気が少し変わった。トレーナーたちは顔を見合わせた。お母さんも遠くからこちらを見ていた。兄も、もしかしたら聞いていたかもしれない。


私は引かなかった。昨日見た光景が、まだ胸の中に残っていた。兄の背中。競駆場を揺らす歓声。ベルアマードという名前が空に響いた瞬間。


あの場所へ行きたい。その思いだけが、私を前へ押していた。トレーナーたちは少し話し合った。そしてその日から私の練習は変わり、本格的にデビューへ向けた練習が始まった。

 


――ペイナイト賞当日。


控室で昔のことを思い返しながら、私はレースの用意を進めていた。ユニフォームの袖を通し髪を整える。そして靴紐を結ぶ。何度も確認した動作なのに、この日だけは一つ一つが重かった。この日のために、厳しい練習を続けてきた。雨の日も走った。風の日も走った。


暑い日も、寒い日も、何度も何度も走った。息が切れて、脚が重くなって、それでももう一本と言われた。できないと言いたかった日もあるし、もう嫌だと思った日もある。泣きたくなったことなんて、数え切れない。いや、泣いていた。何度も泣いた。泣きながら走った。


涙で視界が滲んでも、足を止められなかった。あの時、本気で競駆を始めなければ、こんなに苦しまなかったのに。ふと、そんなことを思う。ただの趣味として競駆場へ行く。隣にはエクラちゃんがいる。二人で兄のレースを見て、知らない駆人の走りを見て、笑い合う。


勝ったね。すごかったね。次も見に行こうね。そんなふうに言い合うだけの未来も、どこかにあったのかもしれない。でも、それは夢物語だ。


もう戻れない。


私たちは、二人とも競駆に惹かれてしまった。エクラちゃんは、たぶん兄がきっかけだった。デビュー戦の兄を見て、心を奪われた。一番前で風を受ける走りに、自分の未来を見つけた。そして私も、結局は兄だった。兄のジャパントロフィー、あのレースだった。あの背中を見てしまったから。


あの歓声を聞いてしまったから。あの光景の中に入りたいと思ってしまったから。私はここまで来てしまった。私たちは変わった。親友から、ライバルへ。ライバルから、敵へ。もちろん、ずっと親友でもあったのかもしれない。でも、ターフの上では違う。同じゴールを目指すなら、隣で笑っているだけではいられない。


どちらかが勝てば、どちらかは負ける。そんな当たり前のことを、私は何度も思い知らされた。


そういえば、あのジャパントロフィーの日。兄が勝って、二人で抱き合って泣いたあの日から私は、エクラちゃんと抱き合っていない気がする。手を繋いだことはあったし言葉を交わしたことも、笑い合ったこともあった。


でも、あんなふうに、何も考えずに抱き合うことはなくなった。いつからだろう。私たちの間に、勝敗が入り込んだのは。いつからだろう。エクラちゃんの輝きが、私の胸を刺すようになったのは。


私は靴紐を結び終える。顔を上げる。控室の空気は静かだった。しかし外ではもう観客の声が聞こえ始めている。


ペイナイト賞。今日、私はエクラちゃんと走る。あの日、雨の風杜で初めて握った手の温かさを、私はまだ覚えている。ジャパントロフィーの日、泣きながら抱き合ったことも覚えている。それでも今日。私は、あの子に勝たなければならない。


私より先に見つけて、私より先に走って、私より先に輝いて、兄の視線まで奪っていった、あの子に。私は勝たなければならない。控室の扉の向こうで、誰かが私の名を呼んだ。私は立ち上がった。胸の奥が苦しいほどに熱かった。もう、見ているだけの私ではない。兄の背中を観客席から追うだけの私でもない。


エクラちゃんの手を握って、誰かの勝利を祈るだけの私でもない。今日は、私が走る。私の足で、私の意志で。扉へ向かう。その先には、ターフがあり、歓声がある。そして、エクラちゃんがいる。私は息を吸った。


大丈夫。


怖くても、苦しくても、前へ行く。見たいものを見に行く。お父さんの言葉が、今になって少しだけ分かった気がした。


私は扉を開けた。

 

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