初陣
私がデビューを決めた日から、時間はまるで加速したかのように流れ始めた。それまでの練習とは、明らかに質が変わっていた。基礎を疎かにしたわけではない。足の運び、腕の振り、身体の軸、呼吸のリズム。それらは変わらず、何度も何度も身体に刻み込んだ。
けれど、それだけではなかった。レースを見据えた実戦的な練習が日々の中心になっていった。ゲートを出る一瞬の判断や最初の一歩に込める意志、コーナーでの位置取り。前へ出るか、あえて控えるか。どこで力を使い、どこで温存するのか。そして、自分にとって最適な戦い方とは何か。
それまで遠くから眺めていた世界が、急に自分の現実として迫ってきた。競駆場で見ていた時には簡単そうに思えたことも、いざ自分でやるとまるで違った。ゲートの中で静止するだけでも、身体は前へ飛び出そうとするし合図に合わせることすら難しい。コーナーでは、ほんのわずか外へ膨らむだけで余計な力を消耗する。
前に出れば気持ちはいいが、その分、背後から迫る気配が常に付きまとう。それでも、その頃の私は、それらを苦しいとは感じなかった。むしろ、すべてが楽しかった。レースを意識した練習を重ねるたびに、自分が兄に近づいている気がした。あの日見た光景へ、一歩ずつ確実に近づいている。
ジャパントロフィーのターフ。割れんばかりの歓声。ゴール板を駆け抜けた兄の背中。あの場所へ続く道を、ようやく自分も歩き始めたのだと実感できた。息が上がり、脚が重くなっても、私は笑っていられた。これを乗り越えれば、あの光に届く、そう信じていたからだ。
私がデビューへ向けて歩みを進めている間に世間もまた大きく動いていた。ジャパントロフィーを制した兄は、一躍時代の中心となった。それまで兄の名前には、必ず両親の名が添えられていた。だがあのレースの後から変わった。ベルアマード――その名だけで語られる存在になった。
三歳で世界を制した駆人。日本競駆の歴史を塗り替えた存在。そう称される兄をテレビ越しに見るたび、胸が誇らしくなった。兄はその勢いのまま、年末の大レース・東都記念にも出走し、見事に勝利した。ジャパントロフィーは偶然ではなかった。兄は本物だった。
世間がそれを認めていく様子を、私は確かに感じていた。そして兄は、その年の最優秀駆人に選ばれた。テレビの前でその発表を見守る私の目に映った兄は、相変わらず表情が硬かった。称賛を受けても、どこか居心地が悪そうだったけど、その瞳は以前とは違っていた。
もう怯えてはいなかった。自分の名前から逃げてはいなかった。それが、少しだけ嬉しかった。一方で、エクラちゃんもまた輝きを増していた。二歳女王を決めるGR、ジャンヌフィーユカップ。そこで彼女は圧巻の勝利を収めた。デビュー戦と同じように、前へ出て、風を切り、誰よりも早くゴールへ飛び込んだ。
その走りは鮮烈だった。黒髪をなびかせ、堂々とターフを駆け抜ける姿は、もはや新人のそれではなかった。エクラディーヌ――その名は競駆場の外へも広がっていった。彼女は最優秀二歳女駆に選ばれ、来年のジュエル路線の最有力候補と目されていた。兄も、エクラちゃんも、確実に遠くにいた。
だが、その時の私は、それを本当の意味では理解していなかった。ただ少し、スタートが遅れただけ。走り出せば、すぐに追いつける。そう思っていた。それは、何も知らないからこそ抱けた自信だった。
そして年が明け、ついに私のデビュー戦が訪れた。舞台は富士国立競駆場。兄がジャパントロフィーを制した、あの場所だった。その名を聞いた瞬間、胸が高鳴った。ただのデビュー戦ではない。私にとって特別な意味を持つ場所だった。競駆を本気でやりたいと思った原点。そのターフに、自分が立つ。そう思うだけで、身体の奥が熱くなった。
競駆場に足を踏み入れた瞬間から、鼓動は収まらなかった。初出走で何もかもが初めてだったが、不思議と恐怖はなかった。それ以上に、期待が勝っていた。やっと走れる。やっとターフに立てる。やっと、兄やエクラちゃんに並べる。その思いで胸が満たされていた。
レースには、私と同じようにデビューを迎える駆人たちがいた。皆、緊張しているように見えた。私も例外ではなかったが、それ以上に高揚していた。名前を呼ばれ、観客の視線を浴びる。ゲートへ向かうだけで、心が浮き立った。作戦は逃げ。兄と同じ戦い方だった。
もちろん、ただの模倣ではない。お母さんやトレーナーと相談し、自分の走りを見てもらった上で決めたものだった。前に立った時の方が身体が伸びる。誰かの後ろにいるより、自分で道を切り開く方が自然に走れる。それでも、兄への憧れがなかったわけではない。
エクラちゃんがそうであったように、私もまた兄の背中を追っていた。あの光景の中に入りたいと願ったのだから。ゲートに収まった瞬間、心臓の鼓動が耳に響いた。だが、合図と同時に身体は迷いなく動いた。誰よりも早く飛び出し、先頭へ。顔に当たる風は、観客席で感じるものとはまるで違った。
ターフの上で受ける風、視界の先には誰もいない。ゴールへ続く道が、自分のためだけに開かれているようだった。それが、たまらなく心地よかった。背後の気配は感じていたが、恐れはなかった。むしろ、それは自分が先頭にいる証、レースを支配している感覚、それが、誇らしかった。
最後の直線に入っても、私は先頭だった。脚は悲鳴を上げ、呼吸は荒れていたけど、それでも止まる理由はなかった。そして、そのままゴールを駆け抜けた。
勝った。
デビュー戦で勝利した。その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。観客の拍手と歓声。自分の名前が響く。それが現実なのに、どこか夢のようだった。私は笑っていた。ただ、純粋に嬉しかった。そして思った。やはり、自分は少し遅れただけなのだと。兄やエクラちゃんがすこし先に進んでいるだけですぐに追いつける。
そう信じて疑わなかった。だが、その時の私はまだ何も知らなかった。知らないからこそ、前向きでいられた。厳しい言葉を受けても、乗り越えられる気がした。デビュー戦を勝った自分には、才能があると信じていた。その勢いのまま二戦目にも勝利した。逃げて、押し切る。それが通用した。一度の勝利は偶然かもしれない。だが二度続けば、それは確信へと変わる。
私は強い、私は勝てる。その思いが、確実に膨らんでいった。そして迎えた水仙杯。リュニークへ繋がる前哨戦だった。勢いのまま挑んだレース。今思えば、立ち止まるべきだったのかもしれない。
だが当時の私は無敵だった。怖いものなどなかった。当然のように前へ出た。そして、また勝った。だがその勝利の後、トレーナーの表情はどこか曇っていた。勝利を喜びながらも、何かを見極めようとしていた。私は何も答えられなかった。なぜその判断をしたのか、どうしてそのペースだったのか。
すべてが『なんとなく』だった。その沈黙の意味を、私は理解していなかった。勝てばいい。それだけで十分だと思っていた。だが違った。勝ち方には意味があり、考えて走ることに価値がある。それを、私は知らなかった。自分は才能がある。すぐに追いつける。いや、もう並んでいるかもしれない。
そんな思い上がりすら抱いていた。だが現実は違った。私はまだ、競駆を知らなかった。勝つことの重みも、負ける痛みも。自分の走りが通じなくなる恐怖も。それを思い知らされることになる。モルガナイト賞で。そして、その現実を突きつけたのは――エクラちゃんだった。




