現実
冬を越え、風杜にも春が来た。冷たかった空気は少しずつやわらぎ、グラウンドの周りには花が咲き始めていた。木々の隙間から差す光も冬のものではなく、走れば汗ばむほどの温かさを含んでいる。競駆の世界もまた、新しい季節へ向かっていた。ジュエル路線の一戦目、モルガナイト賞が近づいていた。
私にとっては、一生に一度の大舞台だった。デビューから勝ち続け、水仙杯も勝ち、ようやく大きな場所へ辿り着いた。あの日、富士国立競駆場で兄の背中を見てから、ずっと目指してきた場所の入口に立とうとしていた。
けれど、その頃の私は一人だった。モルガナイト賞の一週間前には、GR太閤賞が行われる。兄はその太閤賞へ向けて、トレーナーたちと練習を重ねていた。ジャパントロフィーと東都記念を勝ち、日本競駆界を代表する駆人となった兄は、今度はお母さんの記録に挑もうとしていた。
春の三冠。そして、その先にある秋の三冠。兄は冬の間から、そこへ向けて進んでいた。風杜の空気は、兄を中心に回り始めていた。仕方ないことだとは分かっていた。兄が背負っているものは大きい。世間の注目も、期待も、私とは比べものにならない。それでも、分かっているとはいえ寂しかった。
お母さんは春に出産を控えていた。体調のこともあり、以前のようにグラウンドへ来ることは少なくなっていた。私に声をかけてくれる時間も減り、遠くから見守ってくれる気配さえ、日に日に薄くなっていく。私はこんなに頑張っているのに。デビューしてから勝ち続けて、ようやく大舞台に挑むのに。
誰も私を見ていない。そう思う日が増えた。もちろん、まったく放っておかれていたわけではない。それでも私の心には、誰も自分の方を向いていないという感覚だけが残った。兄のために人が集まり、お母さんの周りには気遣いが集まる。その間で、私は一人、モルガナイト賞へ向かっていた。
迎えた当日、私は会場である大坂競駆場へ向かった。大坂競駆場は歴史のある場所だった。名前は昔の大坂のまま残っていて、今でもその呼び名で馴染んでいる。近代的で整った富士国立競駆場と比べると、豪華さや華やかさでは少し劣るのかもしれない。けれど、ここには歴史があった。
古い壁。何度も踏み固められた通路。積み重なった歓声の気配。数え切れない駆人たちが、この場所から大きな道へ進んでいったのだと思わせる空気。それは富士国立とは違う重さだった。控室に入ると、静かだった。準備を整えながら、私は何度か扉の方を見た。誰かが来る気がした。お母さんが顔を出してくれるかもしれない。兄が一言だけでも声をかけに来るかもしれない。そんな期待を、どこかで捨てきれずにいた。
でも、誰も来なかった。お母さんが来られないことは分かっていた。兄はそれどころではないことも分かっていた。それでも、大舞台を前にした控室の静けさは、思っていた以上に胸へ沈んできた。寂しさが心を支配しそうになる。私は目を閉じ、息を吸った。
大丈夫。
ターフに出れば、エクラちゃんがいる。初めて親友と競駆で競える。観客席で一緒に見ていたあの子と、同じターフに立つことができる。エクラちゃんはきっと私を見てくれる。私を相手として、ちゃんと見てくれる。そう思えば、一人ではない気がした。
やがて時間になり、私は暗がりの通路へ出た。控室からターフへ続く通路は、思っていたよりも長く感じた。外の歓声は壁越しにくぐもって聞こえ、足音だけがやけに近い。出口の向こうに光が見え、その光へ進むほど胸の鼓動が速くなる。そして、ターフに出ると目の前に光が広がる。
観客席の声が一気に押し寄せる。その中に、やっぱりエクラちゃんがいた。私に気づいた瞬間、彼女の顔がぱあっと明るくなった。いつもの笑顔だった。雨の日に風杜へ来た時と同じ、縁側で笑った時と同じ、ジャパントロフィーの日に泣きながら抱き合った時と同じ。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。代わりに浮かんだのは、真剣で、どこか余裕のある表情だった。エクラちゃんがこちらへ歩いてくる。
「待ってましたよ、フレアちゃん」
声はいつも通りだった。柔らかくて、少し弾んでいて、私の知っているエクラちゃんの声だった。でも、そこに立っている彼女は、いつものエクラちゃんとは違っていた。親友なのに。私のことを、敵として見ている。その視線に、私は少し戸惑った。
「私も、楽しみだったよ。エクラちゃんと走れるの」
そう返すと、エクラちゃんは満足したように微笑んだ。それ以上は何も言わず、静かに自分の準備へ戻っていく。思っていたのと違う。その時、私はそう感じた。もっと笑い合えると思っていた。初めて一緒に走れることを、二人で喜べると思っていた。勝ち負けはあっても、どこか楽しい時間になるのだと、まだ信じていた。
けれど、それは間違いだった。そのことを本当に理解したのは、レースが始まってからだった。ゲートに入る。私は練習通りに呼吸を整えた。水仙杯までと同じように、上手く出て、前目の位置を取る。そこから自分のペースで進めればいい。勝ち続けてきた時と同じ流れを作ればいい。
合図と同時にゲートが開いた。私はうまく出た。前目の位置も取れた。このままなら、自分の形で走れる。そう思った、その瞬間だった。横を、風のように何かが駆け抜けた。エクラちゃんだった。速い。想定していたペースより、ずっと速かった。前へ出るというより、迷いなくターフを切り開いていくような走りだった。
私は反射的についていった。行かせてはいけない。ここで離されたら終わる。自分のペースを崩してでも、彼女の背中を追わなければならない。そう思って、私は脚を使った。けれど、その時点で私は思い知らされていた。エクラちゃんのスピードは、私を軽く超えていた。
必死に追っても、追っても、背中が遠ざかっていく。まだ中盤で、ようやく前にコーナーの入口が見えてきたところなのに、差は少しずつ、しかし確実に開いていた。コーナーに入り、私はそこで詰めようとした。けれど、エクラちゃんは無駄のないフォームで、滑るように曲がっていく。身体の軸がぶれず、速度も落ちない。華やかでありながら、どこまでも正確な走りだった。
私は違った。差を埋めようとして、力任せに走る。踏み込みは乱れ、コーナーで余計に外へ流れ、息が早くなる。前へ行きたいのに、身体がついてこない。エクラちゃんの背中は、さらに遠くなった。そのうち、後ろから他の走者たちにも交わされ始めた。一人、また一人。
足音が近づき、横を過ぎていく。そのたびに、私は自分が沈んでいくのを感じた。エクラちゃんの背中は、もう見えなくなっていた。せめて少しでも前へ行きたい。私はもがいた。けれど、もがけばもがくほど走りは乱れた。腕の振りも、脚の運びも、呼吸もばらばらになっていく。自分の走りが汚くなっていくことが分かった。
そして同時に、気づいてしまった。私は、この出走者たちの中でも遅い部類なのだと。水仙杯までの勝利が、自分を強く見せていただけだった。前に立てたから、気持ちよく走れたから、勝てたから、自分は通用すると思い込んでいた。でも、本当に強い相手の中では、私は何もできなかった。
その現実を知ってから、レースは一瞬だった。敵わない人たちが前へ行き、私は置いていかれる。追おうとしても届かない。何かを考える余裕もなく、ただ脚を動かし続けるだけだった。ようやくゴールした時、会場にはエクラちゃんの名を呼ぶ声が響いていた。
勝者を称える歓声が、大坂競駆場の空に広がっていく。私は息を切らしながら顔を上げた。そこにいたエクラちゃんは、とても眩しかった。勝った者だけが受ける光の中に立っていた。観客の声を浴び、堂々とターフに立つ姿は、私が思っていた親友ではなく、遠い場所へ進んだ駆人そのものだった。
その光景を見て、私は思い知らされた。自分の無力さを、競駆の苦しさを。そして、自分がどれほど浅はかに夢を見ていたのかを。私は少し遅れていただけではなかった。追いつけると思っていた背中は、最初からずっと遠くにあった。そのことに、私はようやく気づいた。
モルガナイト賞は、私にとって初めての大舞台だった。そして同時に、夢から覚めた日でもあった。




