迷走
レースを終えた私は、控室で一人、帰り支度をしていた。身体にはまだ熱が残っていたのに、指先だけがひどく冷たい。歓声は壁の向こうから聞こえていたが、私の名前を呼ぶ声はどこにもなかった。
私はユニフォームを脱ごうとした。けれど、うまく手が動かなかった。このユニフォームを本番で着たのは、今日が初めてだった。去年の年末、お母さんと一緒に考えたもので、布を並べ、色を比べ、フリルの形や位置を何度も相談した。少し派手ではないか、走る時に邪魔にならないか、どの色ならターフの上で映えるか。お母さんは私の話を聞きながら、ときどき微笑んでいた。
私はその一つ一つに、輝かしい未来を重ねていた。このユニフォームで勝つ。観客に名前を覚えてもらう。エクラちゃんと並び、いつか兄と同じように大きな歓声を受ける。そんな未来を思い描きながら決めた色だった。けれど今日、その未来はどこにもなかった。ユニフォームに込めたものが、エクラちゃんの背中と一緒に遠ざかってしまったように感じた。
脱ぐのに戸惑ったのは、まだ慣れていなかったからだけではないのだろう。これを脱いでしまえば、今日の敗北を認めることになる。そんな気がして、私は何度も手を止めた。それでも、いつまでも着ているわけにはいかない。時間をかけて、ようやくユニフォームを脱いだ。
丁寧に畳もうとしたが、端が揃わなかった。何度直してもうまくいかず、私は途中で諦めるように膝の上へ置いた。次に靴へ目を向け、紐を解こうとした時、初めて気づいた。手が震えていた。細い靴紐をつかめず、何度も指の間から落としてしまう。どうしてこんな簡単なことができないのだろうと思った瞬間、視界が滲んだ。
泣いていた。涙が頬を伝っていることにも、それまで気づかなかった。控室へ入った時からついていたテレビでは、モルガナイト賞の勝者インタビューが流れていた。聞きたくなかった。けれど、消すために立ち上がる力もなかった。
画面の中には、エクラちゃんがいた。首元には、勝者の証であるモルガナイトを飾ったネックレスが輝いていた。黒い髪も、晴れやかな笑顔も、さっきターフで見た時と変わらない。私とは違い、彼女はもう先を見ていた。
『はい! もちろんこのまま、ティアラもセプターも取って、トリプルジュエルを目指します』
迷いのない声だった。ペイナイト賞のティアラ。琥珀賞のセプター。その両方を手にして、トリプルジュエルを達成する。お母さんが史上初のトリプルジュエルを成し遂げて以来、誰も辿り着いていない偉業。それをエクラちゃんは、自分が成し遂げる未来として当たり前のように語っていた。
きっと、レース前の私なら同じことを言えた。モルガナイト賞を勝って、次も、その次も勝つ。お母さんと同じ三つの宝を集めるのだと、何の疑いもなく口にできたと思う。でも、もう言えなかった。現実を知ってしまったからだ。私には、そんな実力はない。エクラちゃんの背中を追うことすらできず、他の走者たちにも次々と抜かれた。夢を語る資格まで、あのレースで失ってしまったように感じた。
インタビューは続いていた。聞き手が、私について尋ねた。その瞬間、下を向いていた私は顔を上げた。
『フレアちゃんですか? 私にとっては親友です』
エクラちゃんは、いつもの笑顔で答えた。その言葉に、一瞬だけ胸が温かくなった。まだ親友だと思ってくれている。ターフの上では遠くても、私たちの関係まで消えたわけではない。そう思いかけた直後、次の質問が聞こえた。私をライバルだと思うか。エクラちゃんは少し考えるような表情をした後、悪意など欠片もない声で答えた。
『ライバル? ライバルとは違うかもですね』
その一言で、何かが完全に崩れた。エクラちゃんは私を親友だと思っている。けれど、走者としては見ていない。競う相手だとも、追いかけてくる存在だとも思っていない。ただ昔から一緒にいる、仲のいい友達。それだけだった。あのターフで彼女が私を敵として見ているように感じたのは、私の思い違いだったのかもしれない。
彼女が見ていたのはレースそのもので、私はその中にいる一人にすぎなかった。私だけが、二人の勝負だと思っていた。私だけが、やっと並べたと喜んでいた。エクラちゃんにとって私は、まだ並ぶどころか、気に留める必要すらない相手だった。涙が止まらなくなった。
前が見えないほど泣いた。声を抑えようとしたが、呼吸が乱れ、喉から小さな音が漏れた。それでも控室の扉は開かない。誰も来なかった。テレビの中では、エクラちゃんが笑っている。私はその姿を見られず、膝の上のユニフォームへ顔を伏せた。
翌日は休日だった。トレーナーからも、予定通り身体を休めるよう言われていた。大きなレースの後なのだから、疲れを抜くことも練習のうちだと説明された。けれど、私は休めなかった。止まっている時間が怖かった。休んでいる間にも、エクラちゃんは先へ進んでしまう。このままでは永遠に見てもらえない。
親友のまま、走者としては何の価値もない存在で終わってしまう。それが嫌だった。どうすればエクラちゃんに見てもらえるのか。どれだけ強くなれば、ライバルだと思ってもらえるのか。答えは分からなかったが、走るしかないと思った。弱いままでは誰も見てくれない。
兄も、お母さんも、トレーナーたちも、エクラちゃんも、強い駆人しか見てくれない。そう思い込んだ私は、誰にも見られなくなることを恐れていた。一人になるのが怖かった。だから走った。トレーナーから与えられた練習をこなし、それが終わってからも走り続けた。脚が重くても、呼吸が苦しくても止まらなかった。
休めと言われれば、まだ走れると答えた。疲れていると言われれば、弱いから疲れるのだと思った。モルガナイト賞で足りなかった分を、走った量で埋められると信じていた。今なら分かる。私は強くなろうとしていたのではない。不安から逃げるために走っていた。自分の走りを見直すこともなく、何が足りなかったのかを考えることもせず、ただ距離だけを重ねた。走っている間だけは、自分が前へ進んでいると思えたからだ。
そして、ペイナイト賞の前哨戦を迎えた。私はこのレースで勝ち、出走権を手にするつもりだった。モルガナイト賞の敗北は忘れていない。そして、あれから誰よりも走ったという自負があった。あれだけ練習したのだから、今度は前へ行ける。エクラちゃんに少しは近づいているはずだと、そう思いたかった。
けれど、結果は十三着だった。スタートから身体が重かった。前へ出ようとしても、以前のように脚が動かない。呼吸も早く、コーナーへ入る頃には余裕を失っていた。走れば走るほど崩れ、最後には何をしているのか自分でも分からなくなった。モルガナイト賞で見た現実から逃げるために続けた練習が、私の身体まで壊しかけていた。
それでも当時の私は、理由を理解できなかった。なぜ。あれだけ走ったのに。あれだけ頑張ったのに。どうして前よりも弱くなっているのか。十三着では、ペイナイト賞の優先出走権を得られない。その事実を告げられた時、頭の中が真っ白になった。もう分からなかった。
何をしてもうまくいかない。勝つために走っても負ける。強くなるために練習しても、以前より走れなくなる。そして、どれだけ苦しんでも、誰も私を見てくれない。それでも走ることをやめるという考えは浮かばなかった。やめれば、本当に何もなくなる。エクラちゃんへ追いつく道も、兄が立っていた光の中へ入る未来も消えてしまう。走っている限りは、まだどこかへ辿り着けるかもしれない。
前哨戦で出走権を得られなかった私は、ペイナイト賞の抽選に賭けた。残された枠は少ない。希望者は多く、選ばれる可能性は決して高くなかった。自分が走れるかどうかさえ、もう自分の力では決められない。それでも、抽選に選ばれると信じて走った。出られるか分からないレースへ向けて、毎日身体を動かし続けた。
止まれば、すべてが終わる気がした。信じていたというより、信じるしかなかったのだと思う。あの頃の私に残されていたのは、走ることだけだった。




