黒炎
ペイナイト賞の抽選結果を待つ間も、私は練習を続けた。やることは変わらないと思っていた。誰よりも長く、誰よりも多く走る。それしか、エクラちゃんとの差を埋める方法を知らなかったからだ。前哨戦で十三着に敗れた理由も、当時の私には分からなかった。疲労が溜まっていたことも、自分の走りを見失っていたことも考えず、ただ練習量が足りなかったのだと思い込んでいた。
だから、また走った。脚に疲れが残っていても、息が苦しくても止まらない。走った距離だけ強くなれると信じ、同じ道を何度も往復した。そんなある日、私を担当していたトレーナーが練習を止めた。普段の彼は、武田トレーナーから伝えられた内容を淡々と説明する人だった。私の走りを見てはいたが、自分の考えを強く口にすることはほとんどなかった。
その人が、不意に言った。
「レースの状況を見ることを重視しろ。その才能を、君は人より持っている」
私は思わず足を止めた。褒められたことよりも、彼自身の言葉が聞こえたことに驚いた。
「状況を見る……?」
「ペイナイト賞はモルガナイト賞より距離が延びる。だから、今やっているようにスタミナをつけること自体は間違っていない」
トレーナーはそこで一度言葉を切り、グラウンドへ視線を向けた。
「ただ、それ以上にレース全体を把握する力が必要だ。風向き、周囲の位置関係、他の走者がどこで動こうとしているのか。それを読み取れるようになれば、君の走りはきっと良い方へ変わる」
少し離れたところにいた武田トレーナーが、驚いたようにこちらを見ていた。その表情からすると、事前に相談していたわけではないのだろう。担当トレーナーが自分の判断で、私に必要だと思ったことを伝えてくれたのだ。だからこそ、その言葉は胸に残った。私を見ている人がいた。
兄の妹としてでも、お母さんの娘としてでもない。モルガナイト賞で惨敗した弱い駆人としてでもなく、私自身の中にあるものを見つけ、言葉にしてくれた。それだけだった。けれど当時の私には、その「それだけ」が必要だった。私は彼の言葉を信じることにした。
距離の延長に備え、走る量を完全に減らしたわけではない。ただ、走るだけの時間を少し削り、座学に向き合った。過去のレース映像を見ながら、走者の位置を確認する。どこで風向きが変わるのか、コーナーに入る前に誰が外へ動くのか、前の駆人が苦しくなった時に後ろの隊列がどう変わるのか。
最初は、そんなものを見て何が変わるのだろうと思っていた。けれど、始めてみると不思議なほど頭に入った。一人の走者だけを見るのではなく、レース全体を一つの動きとして眺める。すると、それまで偶然にしか見えなかった展開に理由が見えてきた。前へ出る者がいるから、その後ろに空間ができる。
誰かが外へ動けば、その内側に道が開く。向かい風の中で前へ出れば消耗するが、誰かの後ろに入れば力を残せる。私は映像を止めては考え、答え合わせをするように続きを見た。がむしゃらに走っていた時より、確かに前へ進んでいる気がした。身体だけではなく、頭でも競駆を理解している。初めて、自分の中にある何かを育てているという実感があった。
そんな頃、お母さんが妹を産んだ。黒い髪をした小さな女の子で、ベルノクシアと名付けられた。兄は、すぐに病院へ向かった。天皇杯・春が迫っていたにもかかわらず、妹に会うことを優先した。きっと、それが正しかった。当たり前のことだったのだと思う。兄は出かける前、私にも声をかけた。
「一緒に行くか?」
私は少し迷ってから、首を横に振った。
「今日は練習があるから」
本当は、行きたくなかったわけではない。妹の顔を見たくなかったわけでもない。ただ、その時の私には余裕がなかった。休めば遅れる。誰かが走っている間に自分だけ止まれば、また置いていかれる。抽選で出られるかさえ決まっていないからこそ、今できることを続けるしかないと思っていた。
ベルノクシアが風杜へ来てからも、私はなかなか近づけなかった。廊下の向こうから、小さな泣き声が聞こえることがあった。お母さんがあやす声や、兄が慣れない様子で話しかける声も聞こえた。それでも私は、自分の部屋で映像を見たり、グラウンドへ出たりしていた。
妹を嫌っていたわけではない。ただ、見に行けば緊張がほどけてしまう気がした。ペイナイト賞へ向けて張り詰めていた糸が切れ、もう一度走り出せなくなるのが怖かった。
ペイナイト賞まで数週間となったある日、朝から激しい雨が降っていた。屋根を叩く雨音が絶え間なく続き、昼だというのに外は薄暗い。窓を流れる水の向こうで、風杜の木々が大きく揺れていた。
その日は、天皇杯・春の当日だった。舞台となる京都競駆場は薄曇り程度で、予定通りレースが行われていた。けれど、そこに兄はいなかった。兄は太閤賞を勝ち、春三冠を目指していた。天皇杯・春ではレクルースさんとの一騎打ちを期待され、世間の注目も集まっていた。
しかし、そのために重ねた激しい練習が身体へ負担をかけたのだろう。兄は風邪をひき、風杜で休養していた。無理をした結果、大切なレースへ出られない。誰よりも悔しいのは兄自身だと分かっていたが、私も残念だった。それでも、そのことばかり気にしている余裕はなかった。
大雨でグラウンドは使えない。私は雨具を着て、風杜の外周を走った。雨粒が顔へ強く当たり、視界が何度もぼやける。足元には水溜まりができ、踏み込むたびに泥水が跳ねた。靴の中まで濡れ、服は身体へ張りついて重くなっていく。走るには適していない天候だった。
それでも止まれなかった。エクラちゃんは、きっと今日も練習している。他の出走者たちも、何かを積み重ねている。自分だけが休んでいる場合ではないと、私は外周を走り続けた。ようやく決めていた距離を終え、顔についた雨粒を手で払う。息を整えながら風杜の戸を開けた時、そこにエクラちゃんが立っていた。
ちょうど帰るところだったらしい。外は大雨なのに、彼女の服装にはよそゆきの華やかさがあった。いつもより飾りの多い服を着て、顔には薄く化粧をしているように見えた。唇も、普段より少し赤い。その姿には見覚えがあった。私が初めてエクラちゃんと会った日。あの日も彼女は綺麗な服を着ていた。
「お疲れ様です、フレアちゃん。大丈夫です? 外はすごい雨でしょう?」
エクラちゃんは、いつものように心配そうな声をかけてきた。
「えっ……あ、うん。大丈夫だよ」
突然現れた彼女に戸惑い、私はうまく言葉を返せなかった。どうしてここにいるのだろう。そう思っていると、エクラちゃんは少し照れたように微笑んだ。
「今日はお見舞いに来たんです」
「お見舞い?」
誰のことを言っているのか、一瞬分からなかった。
「ベルアマードさんが風邪をひいてしまったとお聞きしましたので。微力ですが、お見舞いに」
その言葉を聞いた途端、胸の奥に冷たいものが落ちた。エクラちゃんが兄を好きなのは知っている。天皇杯・春へ出られなくなった兄を心配し、会いに来た。それ自体は何もおかしくない。むしろ、優しい行動なのだと思う。けれど、私は納得できなかった。エクラちゃんだって、ペイナイト賞を控えている。
身体を休める必要がある。練習だってある。それなのに、雨の中、綺麗な服を着て風杜まで来て、兄の見舞いをしていた。風杜には、私もいる。抽選結果はまだ出ていないが、ペイナイト賞で敵になる可能性はある。
モルガナイト賞で負けた後、私は彼女に追いつくために必死で走ってきた。休みも削り、考え方も変え、どうすればライバルとして見てもらえるか、そればかり考えていた。
なのに、エクラちゃんは兄の見舞いへ来ている。私が走っている間に。私が泥だらけになっている間に。まるで、私など警戒する必要もないと言われているように思えた。
「えっと……フレアちゃん?」
エクラちゃんが私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?」
嫌だった。彼女にとって、私は敵ではない。ペイナイト賞で競うかもしれない相手よりも、恋を優先してここへ来られる。その余裕が嫌だった。兄がエクラちゃんを気にするようになることも、いつか兄が彼女のものになってしまうことも嫌だった。
トレーナーたちは兄を見ていた。お母さんは生まれたばかりの妹を見ている。兄の目にはエクラちゃんが映り、エクラちゃんの目には兄が映っている。誰の視界にも、自分がいないような気がした。私がどれだけ走っても、どれだけ苦しんでも、誰も振り向かない。
胸の奥で何かが燃えた。それは、前へ進もうとする意欲のような明るい炎ではなかった。
嫉妬と執念、羨望、そして憎悪。自分でも触れたくないような、黒く濁った炎だった。
「……出てって」
自分の口から出た声なのに、ひどく遠く聞こえた。エクラちゃんが目を見開く。
「え?」
「出てって!」
声が大きくなる。止めようとしても止まらなかった。
「早く! ここから……私の視界から出てって!!」
風杜の廊下に、私の怒鳴り声が響いた。エクラちゃんは明らかに驚いていた。何が起きたのか分からないように私を見つめ、少しだけ口を開いたが、何も言わなかった。やがて視線を伏せると、私の横をすり抜けて戸口へ向かった。雨音が近づく。エクラちゃんは外へ出る前に足を止め、振り返らないまま言った。
「お邪魔しました」
いつもの声を保とうとしていたが、わずかに震えていた。
「……ペイナイト賞、楽しみにしてますから」
その声は、涙を堪えているように聞こえた。戸が閉まる。彼女の姿が雨の向こうへ消えていく。私は追いかけなかった。謝ることも、呼び止めることもできなかった。胸の中にはまだ黒い炎があり、その下で別の痛みが広がっていた。私は風杜の奥へ入った。濡れた服から水が落ち、廊下に小さな跡を作っていく。
その時、担当トレーナーが私を見つけた。何か言いたそうに私の顔を見た後、手に持っていた紙へ目を落とす。
「フレア」
私は足を止めた。
「抽選結果が出た」
一瞬、呼吸を忘れた。
「ペイナイト賞の出走が決まった。」
その言葉が胸へ落ちた瞬間、迷いが消えた。喜びより先に、強い決意が湧き上がった。出られる。もう一度、エクラちゃんと走れる。さっき自分が彼女へ向けた言葉も、涙声で残された言葉も消えない。それでも今の私には、謝りに行くより先に、やらなければならないことがあると思えた。
この一戦だけは、絶対に負けられない。トリプルジュエルを達成する。お母さんの記録へ挑む。そんな大きな夢を、今の私には語れない。モルガナイト賞で現実を知り、前哨戦では負け、出走権すら取れなかった。私には、遠い偉業を口にするだけの自信も資格もないと思っていた。
それでも、ペイナイト賞だけは渡したくなかった。エクラちゃんにも。他の誰にも、兄のためでも、お母さんの記録のためでもない。私がここにいることを、私自身の走りで示すために。この一戦だけは、何としても勝つ。雨音が風杜を包む中、私の覚悟は決まった。




