視線
五月の富士国立競駆場は、初夏の陽気に包まれていた。場内には見頃を迎えた薔薇が咲き乱れ、白や赤、淡い桃色の花が風に揺れている。ペイナイト賞の勝者は、その光景になぞらえて『薔薇の女王』と讃えられる。今年の女王が誰になるのかを見届けようと、競駆場には朝から多くの観客が詰めかけていた。
取材を受ける場所にも、大勢の記者や観客が集まっていた。私の人気は、出走者の中でも最下位に近い。それでも、思っていた以上の視線が向けられていた。最優秀駆人ベルアマードの妹。史上初のトリプルジュエルを達成したアマルティアの娘。そして、モルガナイト賞を制したエクラディーヌの親友。
私自身より、私の周りにいる人たちへの関心が大きかったのかもしれない。それでも、その時の私は注目されているという事実だけを胸に刻んだ。あの女には、絶対に負けない。エクラちゃんをそう呼んだことは、今思い返しても意外だった。誰かに言わされたわけでもなく、意識して選んだ言葉でもない。考えた瞬間、自然に浮かんでいた。
私のことなど眼中にない彼女を、そう呼んでもおかしくない。そう思う一方で、胸の奥には小さな罪悪感があった。どれほど腹を立てても、エクラちゃんが親友だったことは変わらない。雨の日に手を引いてくれたことも、兄のジャパントロフィーで抱き合って泣いたことも、消えるわけではなかった。
それでも今日だけは、親友として終わるわけにはいかない。私は控室でユニフォームに袖を通し、靴紐を固く結んだ。モルガナイト賞の後、震える手で脱いだユニフォーム。あの日は輝かしい未来ごと失ったように感じたが、今日はもう一度、それを身に纏っている。
エクラちゃんとの思い出が次々に浮かんだ。初めて会った日。縁側で兄への恋を打ち明けられた日。一緒に競駆場へ通った日々。モルガナイト賞で遠ざかっていった背中。風杜で彼女に怒りをぶつけ、雨の中へ追い出した日の涙。すべてを胸の奥へ押し込め、私は立ち上がった。
その時、控室の扉の向こうから私を呼ぶ声がした。出走の時間が来たのだと思い、私は扉を開けた。扉を開けた先には目の前に誰かが立っていて、私は驚いた。顔を上げると、そこにいたのは兄だった。
一瞬、なぜ兄がここにいるのか分からなかった。天皇杯・春を欠場した後とはいえ、兄には兄の予定がある。それに、兄が今日この場所へ来る理由があるとすれば、私ではなくエクラちゃんだと思った。
「なに? 控室、間違えてるんじゃない? エクラちゃんの控室はここじゃないよ」
ぶっきらぼうな声が出た。本当は、兄が来てくれたことが嬉しかった。けれど期待して、違った時に傷つくのが怖かった。だから先に、自分から否定した。兄は不思議そうに眉を寄せた。
「何を言ってるんだ? ……とりあえず入れてくれ。まだレースまで時間はあるだろう」
私は戸惑いながらも道を空け、兄とともに控室へ戻った。私は椅子へ座り、兄は扉の近くに立ったままこちらを見ていた。気まずかった。こんな近くで兄と二人きりになったのは、いつ以来だろう。昔の私なら、それだけで嬉しくなり、何でもいいから話しかけていた。けれど今は、何のために来たのか、何を言われるのかを探るばかりで、兄の顔をまともに見られない。
短い沈黙の後、兄が口を開いた。
「……デビュー戦」
「え?」
「デビュー戦、勢い任せの走りだったが、悪くなかった。フレアは無意識だったと思うが、周りを見て良い位置を取り、勝利した。」
思いがけない話に、私は顔を上げた。兄は私を見たまま続ける。
「あの時の笑顔は、小さい頃みたいだった。」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。兄の口から語られているのは私のレースで、それもずっと前に終わったデビュー戦のことだった。
「次のレースも、自信を持って走れていた。自分の形を崩さず、最後まで自分の走りをしていた」
私は何も言えず、兄を見つめた。
「水仙杯もそうだ。相手には実力のある駆人が揃っていたが、お前は自分を持っていた。それに、あの日は風が強かった」
兄は少し考えるように視線を上げた。
「向こう正面が向かい風になっていた。お前は前へ出ながらも、他の走者の後ろへ入って風を避けていた。意識していたわけではないと思うが、良い走りだった」
頭の中に、一つの可能性が浮かんだ。そんなはずはない。けれど本当なら。兄は、私のレースを見ていたのではないか、しかも現地で。映像だけでは分からない、その日の風向きまで知っている。デビュー戦の時の表情まで覚えている。
「だが、モルガナイト賞は違った」
兄の声が少し低くなる。
「それまでのお前の良さがなかった。エクラディーヌが勝ったが、お前は彼女を意識しすぎた。追いつこうとして自分のペースを捨て、最後には自分の走りまでなくした」
胸の奥がわずかに痛んだ。反論はできなかった。すべて、その通りだったから。
「その執着を引きずったまま走ったから、次のレースでも勝てなかった」
兄は責めるようには言わなかった。ただ、見たものをそのまま伝えるような口調だった。
「お前は、レースの状況を読み取ることに長けている。周りの位置や動き、風の流れを感じる力を持っている」
その言葉に、強い既視感を覚えた。以前、担当トレーナーから言われたことと同じだった。レース全体を見ろ。風向きや位置関係を読み取れ。その才能を、お前は人より持っている。
「スタミナをつけることは必要だ。それ自体は間違っていない」
兄の言葉が続く。
「だが、ペイナイト賞でエクラディーヌに勝つなら、それだけでは足りない。レース全体を把握して、お前が持っているものを全て使う必要がある」
私は兄から目を離せなかった。
「そのための練習をしてきたんだろう。なら、お前の走りはきっと良い方へ変わっている」
その瞬間、すべてが繋がった。担当トレーナーが突然、助言してくれたか、私のデビュー戦から今まで現地でなければ分からないことを兄が知っていること。きっと兄はずっと見ていたんだ。自分の目標があり、時間も限られている。ジャパントロフィーと東都記念を勝ち、春三冠へ向かい、世間から追われるような日々を過ごしていた。
それでも兄は、私のレースを見てくれていた。私が知らなかっただけで、最初から気にかけてくれていた。そして、自分ではうまく伝えられない言葉を託したのだ。
目の奥が熱くなり、気づけば涙が頬を伝っていた。私は一人だと思っていた。兄はエクラちゃんを見ている。お母さんは妹を見ている。トレーナーたちは兄を見ていて、誰も私には関心がない。そう決めつけていた。
でも、違った。私のことをみんな気にかけてくれていた。私が勝手にそう決めつけていただけだった。
その時、扉の向こうからスタッフの声が聞こえた。出走の時間だった。兄はそれに気づき、先に控室を出ようとした。背を向けた兄の姿を見た瞬間、身体が勝手に動いた。
私は後ろから、兄の背中へ抱きついた。自分でも驚いた。あの日、兄に手を弾かれてから、触れることが怖かった。また振り払われるかもしれない。怯えた顔をされるかもしれない。そう思うと、兄の袖にさえ手を伸ばせなかった。
けれど今、私は昔のように兄の背中へ腕を回していた。兄の身体がわずかに強張る。驚いたのだと思う。それでも、振り払わなかった。何も言わず、そのままでいてくれた。私も言葉を発せず、ただ背中へ顔を寄せた。
懐かしかった。小さい頃、どこかへ行こうとする兄を引き止めるため、何度もこうして抱きついた。あの頃の背中より大きく、硬くなっていたが、確かに兄の背中だった。
少しして、兄がゆっくり振り返った。そして昔のように、私の頭へ手を置く。手つきは相変わらず慣れておらず、優しいとは言い切れない。それでも、その不器用さが懐かしかった。
「みんな、お前のことを見ている」
兄は静かに言った。
「母さんも、ベルノも。そして俺もだ」
ベルノクシアは、まだ私のレースを理解できる年齢ではない。それでも兄はそう言った。それでも、言ったのはきっと家族みんな私のことを見ている、気にしているのだと知らせたかったのだと思う。兄は手を離し、扉を開けて先に出ていった。
私はその背中を見送った。胸の中には、まだ黒い炎が残っていた。エクラちゃんへの嫉妬。見返したいという執念。私を眼中に入れていないことへの怒り。それらが消えたわけではない。けれど、その隣に新しい火が灯っていた。私を見てくれている人がいる。言葉にせず、姿を見せず、それでも確かに見守ってくれていた人がいる。
その事実が生んだ、温かく明るい火だった。私は一人ではなかった。黒い炎と、新しく灯った明るい火。その両方を胸に抱え、私は控室を出た。暗い通路の先から、富士国立競駆場の歓声が聞こえてくる。咲き乱れる薔薇の向こうに、ターフが待っていた。一生に一度の大舞台。
薔薇の女王になるために私は歩き出した。




