対峙
ターフへ出ると、最初に目へ飛び込んできたのは、コースを彩る色とりどりの薔薇だった。赤、白、淡い桃色。初夏の日差しを受けた花々が、風に揺れている。その向こうには満員の観客席が広がり、耳が痛くなるほどの歓声が競駆場全体を包んでいた。きっと、この中の多くはエクラちゃんを見に来たのだろう。
モルガナイト賞を圧勝し、お母さん以来となるトリプルジュエルを期待されている。競駆場だけでなく世間でも騒がれているのだから、私も知っている。対する私は、抽選で出走枠を得た低人気の駆人にすぎない。勝つことを期待している人など、ほとんどいないのかもしれない。
けれど、私は知っている。いや、今日、ようやく知ったのだ。私を見ている人がいる。私に期待してくれている人が、確かにいる。兄の言葉を思い出すと、張り詰めていた胸が少しだけ軽くなった。私は呼吸を整え、周囲を観察した。競駆場へ出た時から、すでにレースは始まっている。風向き、ターフの状態、他の走者たちの様子。兄から教えられたように、一つでも多くの情報を拾わなければならない。
風はそれほど強くない。薔薇の花弁がわずかに揺れる程度で、向こう正面では少し横から吹くように見えた。周囲の走者たちは、緊張した表情で身体を動かしている。軽く跳ねながら脚の感触を確かめる者もいれば、目を閉じて集中している者もいた。少しでもこの場に慣れようと視線を巡らせた、その時だった。
目が合った。見慣れているはずなのに、いつもとは違う空気を纏った彼女と。エクラちゃん。あの大雨の日以来、私たちは一度も顔を合わせていなかった。彼女の姿を見た瞬間、胸の奥に黒い炎が蘇った。嫉妬と執念、羨望。兄のところへ来たことも、私を相手にしていないように見えたことも、雨の中へ追い出した時の涙声も、すべてが一度に押し寄せてくる。
それを抑えるように、兄の言葉が重なった。みんな、お前のことを見ている。その「みんな」の中には、きっとエクラちゃんもいる。そう考えた時、彼女がこちらへ歩き始めた。一度も私から目を逸らさず、まっすぐ近づき、手を伸ばせば届く距離で止まる。私たちはしばらく何も言わず、互いの顔を見つめた。
やがて、エクラちゃんが少しだけ微笑んだ。
「私、フレアちゃんのこと見てます」
「え?」
思わず聞き返すと、彼女は目を逸らさないまま続けた。
「親友として、私の一番の理解者として、そして最大の敵として。きっと、一言なんかでは言い表せないほどに、フレアちゃんのことを見ています」
何も言えなかった。エクラちゃんが私をそんなふうに思っているとは、考えたこともなかった。モルガナイト賞の後、彼女は私をライバルとは思っていないと言った。私はその言葉に絶望し、相手として見られていないのだと思い込んだ。けれど今、目の前の彼女は私を最大の敵だと言った。
「フレアちゃんは?」
突然問われ、言葉に詰まった。
「私は……」
何と答えればいいのか分からない。
親友。
ライバル。
敵。
憧れ。
嫉妬。
どれか一つを選べと言われても、選べるはずがなかった。この場から逃げたかった。誰かに代わりに答えてほしかった。それでも、私の目はエクラちゃんから離れなかった。
「フレアちゃんの言葉で聞かせてください」
彼女は私だけを見ていた。答えを急かすでもなく、目を逸らすでもなく、ただ待っている。その眼差しは、初めて会った日の彼女と同じだった。あの日も、エクラちゃんは怯えて何も言えない私を見つめ、言葉が出るまで待ってくれた。それに気づくと、不思議と戸惑いが薄れていった。
きっとこの子なら、どんな感情をぶつけても受け止める。綺麗なものだけでなく、私の中にある醜い気持ちまで知った上で、それでも目を逸らさない。そう信じられた。
「……羨ましかった」
口から、最初の言葉がこぼれた。
「初めて会った時から、エクラちゃんには私にないものがあった。人見知りしないし、大人っぽいし、いろんなことを知ってるし……私は、そんなエクラちゃんに憧れてた」
一度始まった言葉は止まらなかった。胸の奥へ押し込めてきたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「エクラちゃんは、いつも私より先に行ってた。でも、先に進んでも待ってくれて、振り返って手を伸ばしてくれた。それが嬉しかった」
楽しかった記憶が浮かぶ。雨の風杜。縁側。競駆場。私の世界には、いつもエクラちゃんがいた。
「……でも、悔しかった」
声が少し震えた。
「どうしてエクラちゃんだけ、そんなに先へ行けるんだろうって。私と並んでたはずなのに、気づいたらずっと遠くにいて……追いつこうとしても、全然追いつけなくて」
エクラちゃんの顔から笑みは消えていた。けれど、目は逸らさなかった。
「それに、お兄ちゃんのことも」
その名前を出した瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
「私のお兄ちゃんだったのに、いつの間にか二人だけで会うようになって、私のことなんて興味がないみたいで……お兄ちゃんも、エクラちゃんも、二人の間だけで何かが分かってるみたいで、私はずっと外にいる気がした」
言ってはいけないと思っていた。エクラちゃんのことを応援すると、自分から言ったのだから。二人が近づくことを喜ばなければならないと思っていた。でも、本当は寂しかった。怖かった。二人の世界から、自分だけが消えてしまうことが。
「エクラちゃんが頑張ってきたことは分かってる。強いのも、才能だけじゃないのも分かってる」
私は拳を握った。
「だけど……だけど!」
声が競駆場の歓声に負けないほど大きくなる。
「私だって、今日のために頑張ってきた! 負けて、何度も泣いて、それでも走ってきた!今日だけは、絶対に負けないから!」
胸の中にあるものを、すべてぶつけた。嫉妬も羨望も、憧れも執念も、兄の言葉で灯った明るい火も。エクラちゃんは真剣な顔で受け止めていた。そして、今度は彼女が一歩前へ出た。
「私だって負けません!」
力強い声が返ってくる。今までに聞いたことないほどの強い声だった。
「トリプルジュエルを成し遂げるために、あなたに勝ちます!」
その言葉を聞き、私も黙ってはいられなかった。
「トリプルジュエル?」
勢いのまま、言葉が飛び出す。
「あんたに、お母さんみたいな偉業ができるわけないでしょ! 私が今日、ティアラを取るんだから!」
完全な挑発だった。口にした直後、自分でも言いすぎたと思った。けれど、エクラちゃんは引かなかった。眉を寄せ、すぐに言い返してきた。
「よく言えますね、抽選で選ばれた出走者が」
「なにそれ!」
「事実でしょう? 今日だって、前と同じように沈んでいく姿が想像できますわ」
「絶対、後悔させるから!」
「こちらの台詞です!」
私たちの声は次第に大きくなり、ついにはそれぞれのトレーナーが間へ入った。
「もうやめろ、ゲートへ向かうぞ」
「エクラディーヌ、今はレースに集中してください」
引き離されても、私たちは互いを睨み続けていた。エクラちゃんも、本気だった。私を哀れんでいるわけでも、親友だから手加減しようとしているわけでもない。勝つために、私を倒すべき相手として見ていた。それが、嬉しかった。
思えば、エクラちゃんと出会ってから、ここまで感情をぶつけ合ったことはなかった。私はいつも彼女の背中を見ていた。彼女はいつも私へ手を伸ばしていた。けれど、互いの醜い部分まで曝け出し、正面からぶつかったのは初めてだった。不思議なほど、心は清々しかった。雨の日に怒鳴ったまま残っていた痛みも、完全ではないが少しだけほどけた気がした。
謝ってはいない。許し合ったわけでもない。それでも、私たちは初めて同じ高さで向き合えた。ゲートへ向かいながら、私は隣を歩くエクラちゃんを見た。彼女もこちらを見る。もう笑いはしなかった。私も笑わなかった。それでよかった。今日の私たちは親友ではない。
同じティアラを奪い合う、敵だった。けれど、その敵がエクラちゃんであることを、私はどこか誇らしく思っていた。薔薇の香りを含んだ風が、ターフの上を抜けていく。歓声はさらに大きくなり、ゲートが近づいてくる。胸の中の黒い炎は消えていない。けれど今は、それだけではなかった。
見てくれている人たちのために。そして、目の前の親友に認めさせるために。私は自分の足で、ゲートへ向かった。




