決戦
ゲートの前へ着くと、場内にファンファーレが鳴り響いた。清廉でありながら華やかで、長い歴史を思わせる旋律。トリプルジュエルの中でも、最も格式が高いとされるペイナイト賞にふさわしい音だった。それに呼応するように、満員のスタンドから拍手と声援が押し寄せる。
競駆場全体が震えているようだった。胸の奥で、黒い炎と明るい火が同時に揺れる。緊張はあったが、もう一人だとは思わなかった。私はゲートへ入った。狭い空間の中で呼吸を整え、正面を見つめる。隣からは他の走者の息遣いと、わずかに身体を動かす音が聞こえた。
すべての音が遠ざかったような、一瞬の静寂。直後、ゲートが開いた。ペイナイト賞が始まった。私のスタートは、まずまずだった。大きく遅れることもなく、無理に脚を使わず前目の位置へ入る。そのまま視線を上げると、真っ先に目へ入ったのはエクラちゃんだった。
抜群のスタートを切ったのだろう。すでに先頭へ立ち、後ろを確認することもなく、自分のペースで走り始めていた。モルガナイト賞と同じだった。誰よりも早く前へ出て、風を受けながらレースを引っ張っていく。迷いも恐れも感じさせず、まるで最初から最後まで、その場所が自分のものだと信じている走りだった。
私は反射的に追いかけそうになった。今すぐ速度を上げなければ、また置いていかれる。あの背中が遠ざかってしまう。モルガナイト賞で味わった焦りが胸を締めつけたが、私は脚へ力を入れる前に周囲を見た。前にいるエクラちゃん。その後ろで様子を見ている走者たち。私の左右と、さらに後ろの位置関係。そして、この先に続くコース。
追ってはいけない。少なくとも、今ではない。私はエクラちゃんの背中へついていきたい気持ちを抑え、自分のペースで走り出した。その判断は、以前の私ならできなかったと思う。
そんな私など関係なくエクラちゃんは、さらに速度を上げた。その姿は、こちらを振り返っていないのに、まるで語りかけてくるようだった。
――いいんですか?
――置いていきますよ?
実際、差はみるみる広がっていく。このまま本当に追いつけなくなるのではないか。そんな不安が何度も胸をよぎった。それでも私は耐えた。エクラちゃんの走りがどれほど強くても、この距離を最初から最後まで同じ速度では走れない。どこかで必ず、前と後ろの差が動く瞬間が来る。
その機会を逃さない。私は自分の位置と速度を守りながら、レース全体を見ることに集中した。向こう正面へ入っても、エクラちゃんの勢いは落ちなかった。先頭を走る彼女だけが、別の世界にいるようだった。後続との差を広げながら、ペイナイト賞そのものを自分の世界へ引き込んでいく。
その強さは、他の走者たちを惑わせ始めた。本当にこのまま逃げ切られるのではないか。今のうちに追わなければ、もう届かないのではないか。そう考えた者たちが、一人、また一人と速度を上げて前へ動いていく。隊列が崩れ始めた。私はその動きを待っていた。前へ出た走者の風下へ入り、横から受ける風を避ける。ほんのわずかな違いだったが、速度が上がるほど風の負担は大きくなる。
ターフの周囲に咲く薔薇が、同じ方向へ揺れている。やはり風は横から吹いていた。エクラちゃんの走りを見つめる。彼女のフォームは美しかった。脚の運びにも、身体の軸にも、大きな乱れはない。それでも進む道筋は、完全な直線ではなかった。横風に押され、わずかに外へ流れている。本人は自然に修正していたが、そのたびに小さな力を使っているはずだった。
このままの速度で最終直線へ入れば、きっと。私は浮かんだ考えを信じ、ここでも動かなかった。前へ行きたい。エクラちゃんとの差を縮めたい。その衝動を抑え、他の走者の陰で脚を残した。
最後のコーナーへ入る。エクラちゃんは依然として先頭だった。華麗にコーナーを回り、後続を引き連れたまま、富士国立競駆場の長い直線へ入っていく。観客席の歓声が一段と大きくなった。エクラディーヌが勝つ。トリプルジュエルが近づく。誰もが、そう信じているような声だった。
私は前にいた走者の後ろで、最後の機会を待った。直線へ入った瞬間、風向きが変わる。エクラちゃんは、最初から全力に近い速度で走り続けていた。しかも横風の中で何度も進路を修正し、見た目以上に力を使っている。
今しかない。
私は風除けにしていた走者の陰から、一気に外へ出た。視界が開ける。その先に、エクラちゃんの背中があった。私は溜めていた力を解放し、全速力で追いかけた。脚が前へ出る。身体が軽い。モルガナイト賞の時のように、ただ焦ってがむしゃらに走っているのではない。どこで耐え、どこで動くかを自分で選び、残してきた力を今使っている。
差が縮まる。一歩ずつ、確実に。エクラちゃんの背中が近づき、やがて横顔が見える距離まで迫った。並べる。そう思った瞬間、皮肉な現実にも気づいた。私はここまで力を温存してきた。他の走者を風除けにし、エクラちゃんが疲れるのを待ち、自分にできることをすべて使った。
それでも、最初から全力で走り続けてきた彼女と、ようやく同じ速度になっただけだった。純粋な実力では、まだエクラちゃんの方が上なのだ。それでも、今は関係なかった。私は彼女と同じ場所まで来た。モルガナイト賞では見ることさえできなかった背中へ、自分の走りで追いついた。
私の気配に、エクラちゃんが気づいた。一瞬だけ横を見たように感じた直後、彼女はさらに速度を上げた。どこにそんな力が残っていたのか分からない。疲れているはずの脚が、もう一度強くターフを蹴る。彼女の身体が前へ伸び、せっかく縮めた差が再び広がり始めた。
やっぱり強い。エクラちゃんは、私が追いついただけで終わる相手ではなかった。けれど、私も負けるわけにはいかない。ここまで来た。考えて、耐えて、自分にできることを積み重ねて、ようやく彼女へ届いた。もう離されない。私は残っている力をすべて脚へ込めた。
呼吸が苦しい。身体中が熱く、胸が焼けるようだった。それでも腕を振り、前へ進む。離れかけた距離が、もう一度縮まっていく。半歩。あと半歩。そして、並んだ。隣にはエクラちゃんがいる。観客席で一緒にレースを見ていた親友。ずっと私より先にいた憧れ。追いつきたくて、羨ましくて、憎いと思った相手。
今、その子と同じターフで、同じゴールを奪い合っている。ゴール板が視界へ入った。もう何も考えられなかった。風向きも、周囲の位置も、残りの距離も関係ない。ここから先は、自分のすべてを振り絞るだけだった。私は脚を前へ出した。一歩でも長く。一瞬でも早く。
エクラちゃんより先へ。身体の奥に残っていた力を、すべてターフへ叩きつける。隣からは、エクラちゃんの息遣いが聞こえた。彼女も限界だった。それでも互いに譲らず、前だけを見て走った。そして私たちは、ほとんど同時にゴール板を駆け抜けた。どちらが先だったのかは分からなかった。
歓声が一気に弾けたが、その意味を確かめる余裕はない。ゴールを過ぎた私は速度を緩めようとした。けれど、脚がもう言うことを聞かなかった。身体から力が抜け、立っていることさえできなくなる。転ばないようにどうにか踏みとどまったものの、その場へ座り込んだ。
息ができない。胸が激しく上下し、視界が白く滲んでいた。それでも顔を上げようとした。結果が知りたかった。私が、エクラちゃんに届いたのかを。




