戴冠
荒い呼吸を整えながら、私は地面に座り込んでいた。胸は激しく上下し、脚にはほとんど力が残っていない。汗が頬を伝い、視界もまだ白く滲んでいた。それでも、耳だけは周囲の音を拾っていた。歓声と悲鳴、そして拍手。その中に、聞き覚えのある名前が混じっている。
生まれた頃から、お母さんやお父さん、そして兄に呼ばれてきた名前。それが確かに聞こえた。私の名前が。
『ベルフレアがやりました!! 今年の薔薇は、炎のような真っ赤に染め上がりました! 薔薇の女王に輝いたのはベルフレア! ベルフレアです!!』
実況の声が、富士国立競駆場へ響き渡る。私の勝利を告げるその音に、満員のスタンドが大きく揺れた。
勝った。
私がエクラちゃんに勝ち、一生に一度しか挑めないペイナイト賞のティアラを手にした。理解するまで、少し時間がかかった。私は顔を上げ、観客席を見渡した。あの日、兄がジャパントロフィーを勝った時に見た景色。ずっと憧れ、自分もその中に入りたいと願っていた場所から、今度は私がスタンドを眺めている。
けれど、想像していたものとは少し違った。歓声だけではなく、悲鳴も聞こえる。エクラちゃんの勝利を信じていた観客たちが驚き、頭を抱え、言葉を失っていた。もっと何もかもが鮮やかに、きらきらと輝いて見えるのだと思っていた。実際には疲れきっていて、視界はろくに定まらない。薔薇の色も、観客の顔も、ぼんやりとしか見えなかった。
それでも、これほど大勢の人に見られたのは初めてだった。私の名前が呼ばれている。ベルアマードの妹でも、アマルティアの娘でもない。ベルフレアとして。嬉しかった。ずっと見たかった景色だった。だから、きっと泣くのだと思っていた。兄のジャパントロフィーを見た時のように、涙が止まらなくなるのだと。
けれど、不思議と涙は出なかった。喜びは確かにあるのに、まだ夢の中にいるようで、心が追いついていなかった。その時、視界の端にエクラちゃんが入った。彼女は呼吸を乱しながらも、こちらへ向かってきた。歩くのではなく、少し駆けるように距離を詰めてくる。
そして、何のためらいもなく私を抱きしめた。
「おめでとうございます! フレアちゃん!」
その声を聞いた瞬間、涙が溢れた。大歓声を聞いても出なかった涙が、簡単に頬を伝っていく。私が憧れていたのは、競駆場を揺らすほどの歓声だった。誰もが自分を見てくれる、眩しい景色だった。けれど今、私の心を最も強く惹きつけていたのは、目の前で私を抱きしめてくれる親友だった。
「ありがとう、エクラちゃん」
声が震えた。
「……ごめんね。私、いっぱい酷いことして」
雨の日、風杜から追い出した。兄への気持ちを責めた。心の中では憎いとさえ思った。エクラちゃんは、そんな私の言葉を否定するように、抱きしめる腕へ力を込めた。
「そんなこと、いいんですよ」
耳元で聞こえる声も震えていた。
「私も、フレアちゃんのことを考えていない行動をしていました。本当にごめんなさい」
私は首を横に振り、エクラちゃんを強く抱き返した。どちらが悪かったのかを決める必要はなかった。私たちは互いを大切に思いながら、相手の気持ちを分かっているつもりになっていた。言わなくても伝わると思い、勝手に傷つき、距離を作った。それでも、こうしてもう一度抱き合えた。
「今日は負けてしまいましたけど、次は負けませんから!」
抱擁を解いたエクラちゃんが、涙の残る顔で言った。負けた直後なのに、その瞳にはすでに次の勝負が映っている。私は頬を拭い、負けじと返した。
「負けないよ。次も私が勝つから!」
私たちは少しだけ睨み合った。そのまま、どちらからともなく笑った。親友であり、最大の敵。どちらか一つではない。その両方だからこそ、私たちはここまで来られたのだと思う。あの日、私は初めて自分の走りができた。ただ前へ出るだけではない。エクラちゃんの背中だけを見て、自分を見失う走りでもない。
風を読み、周囲を見て、耐えるべき場所で耐え、動く瞬間を自分で決めた。それは、私一人の力で手に入れたものではなかった。何も言わず、ずっとレースを見てくれていた兄。離れた場所から支えてくれていた家族。そして、私より先を走り続け、追いかける理由を与えてくれたエクラちゃん。
みんながいたから、私はようやく自分の足で走れた。ペイナイト賞を勝ったあの日、私は頂点へ立ったのではない。やっと、スタート地点へ辿り着いたのだ。苦しく、何度も逃げ出したくなり、心も身体も痛くて仕方がない。それでも、たまらなく好きな競駆の世界へ。




