恋情
日本クラウンが終わり、季節は春から夏へと変わっていった。風杜の木々は日に日に濃い緑を増し、グラウンドを囲む影も、少しずつ深くなっていく。日差しは強くなった。朝はまだ涼しくても、昼が近づくにつれて空気は熱を帯び、土の匂いも、草の匂いも、春の頃とは違うものになっていた。
私はまだ、走りの基礎を練習していた。トレーナーは一つずつ丁寧に教えてくれた。けれど、まだコースを意識した実戦的な練習は先の話だった。兄のようにスタートを繰り返したり、コーナーの入り方を確認したり、後ろとの距離を考えたりすることは、まだなかった。
一方で、エクラちゃんは少しずつデビューに向けた練習を進めていた。その話を聞いても、その時の私は焦らなかったし、心配もしなかった。自分だけ遅れているのではないか、などとは考えもしなかった。私にとって競駆は、まだその程度のものだった。
走るのは楽しいし、競駆場へ行くのも楽しい。兄のレースを見るのも楽しい。エクラちゃんと同じ世界にいるのも嬉しい。でも、その楽しさの奥にある厳しさを私はまだ本当には知らなかった。
そんな夏の日だった。練習の合間を縫って、エクラちゃんが風杜に遊びに来てくれた。寮に入ってから、私たちは競駆を見に行く時以外で遊ぶことがほとんどなくなっていた。
以前のように、風杜の中を探検したり、毛布で秘密基地を作ったりすることはもうない。私たちは少しずつ大人になっていた。もう走り回って遊ぶことはなかった。
その日、私たちは少しだけ走りを忘れて過ごした。競駆のことも、練習のことも、兄のレースのことも、全部横に置いて。風杜の縁側に並んで座っていた。
縁側から見る外は、夏の日差しに照らされていた。木々の葉は光を反射し、白く眩しいほど輝いている。庭の土には熱がこもり、遠くの空気はゆらゆらと揺れているように見えた。蝉の声も聞こえていた。見るからに暑い。それなのに、縁側に座っていると、不思議と涼しく感じた。
軒下の影。通り抜ける風。木々の間から落ちる光。外の暑さを眺めながら、そこから少しだけ切り離された場所にいるようだった。私は、エクラちゃんから練習の話を聞いていた。
「えっ、エクラちゃん、トレーナーさんの言う通りに走ってないの?」
思わずそう聞き返した。エクラちゃんは、少しも悪びれる様子なく頷いた。
「ええ。私は目指している走りがあるので。それに合うもの以外は聞いていないです」
さらりと言った。その横顔は、私より少しだけ大人っぽく見えた。同じ縁側に座っているはずなのに、どこか先の景色を見ているようだった。
「目指している走りって?」
私が聞くと、エクラちゃんは少し間を置いた。それから、静かに言った。
「……ベルアマードさんの走りです」
「お兄ちゃんの走り?」
「はい」
エクラちゃんの声は、迷いがなかった。
「一番前で風を受けて、それで風のように走るんです。後ろなんて気にしないで」
その言葉を聞いた瞬間、私の中に、かつて見た兄の姿が浮かんだ。デザイアトロフィーのターフ。誰よりも前へ出て、ただ風を受けて走っていた兄。走っている時だけは、少し笑っているように見えたあの頃の兄を。エクラちゃんは見ていた。私よりもずっと真剣に。
エクラちゃんは、少しだけ頬を赤らめた。そして、私の方を見た。
「フレアちゃん」
「なに?」
「……誰にも言ったことないんですけど」
その声は、さっきまでより小さかった。私は何となく、背筋を伸ばした。エクラちゃんは、膝の上で自分の手を重ねた。
「私、ベルアマードさんのことが好きなんです」
一瞬、縁側の空気が止まったように感じた。好き。その言葉の意味なら、私にも分かる。私も兄が好きだった。エクラちゃんのことも好きだった。けれど、エクラちゃんの言った『好き』は、それとは違うのだとすぐに分かった。大切な人に向ける、もっと別の好き。
男の人として、兄を好きなのだと。私はそれを察した。
「……そうなんだ」
それだけ返した。自分の声が、少し遠く聞こえた。涼しいはずの縁側なのに、身体の奥が熱くなっていた。夏の暑さのせいではなかった。何か、胸の奥に今まで知らなかったものが差し込んできたようだった。
エクラちゃんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「はい。……一目惚れです」
「一目惚れ」
「デビュー戦の時に、心を奪われました」
エクラちゃんの目が、遠くを見る。きっと、彼女の中には今も鮮明に残っているのだろう。初めて競駆場で兄を見た日のことを。ターフを駆ける兄の姿、前へ前へと進む背中。
「ベルアマードさんの走り、あの走っている時の横顔。全部が好きなんです」
その言葉はまっすぐだった。恥ずかしさはあっても、迷いはなかった。私は、何と返せばいいのか分からなかった。兄が誰かに好かれる。それはおかしなことではない。兄は強くて、速くて、格好よくて、たくさんの人に注目されている。エクラちゃんが兄を好きになるのも、きっと自然なことなのだろう。
そう思おうとした。けれど、胸の奥は落ち着かなかった。私のお兄ちゃんだ。ずっと前から私の前に立ってくれた人で、私のことを守ってくれた人だ。私が追いかけてきた背中だ。その兄を、エクラちゃんは私とは違う目で見ている。それが少しだけ不思議で、少しだけ寂しかった。
「……けど」
エクラちゃんの声で、私は顔を上げた。さっきまでの笑顔が、少し曇っていた。
「最近のベルアマードさんは、どうしてか、あの時の輝きがない気がするんです」
悲しそうな声だった。私は首を傾げた。その言葉の意味が、よく分からなかった。
「そうかな?」
私は正直に言った。
「お兄ちゃん、色々練習して強くなってるんじゃない? ほら、日本クラウンの時は完璧な走りだったじゃん。……負けちゃったけど」
そう言いながら、少し言葉が弱くなった。日本クラウンの兄は、私には本当に強く見えた。前でレースを支配して、コーナーも無駄なく回って、最後まで崩れなかった。あんなに完璧に走って、それでもルーレットショーさんに交わされた。負けたけれど、弱かったわけではない。
私はそう思っていた。けれど、エクラちゃんは静かに首を振った。
「勝敗は関係ないんです」
「勝敗が?」
「はい」
エクラちゃんは、真剣な顔で私を見た。
「あの時の走り、フレアちゃんにはどう映りましたか?」
「うーん」
私は少し考えた。
「強い駆人の走り。よく競駆で勝つ走りみたいに見えたよ」
自分なりに、ちゃんと答えたつもりだった。でも、エクラちゃんはそれを聞いて、少しだけ目を伏せた。
「……あの走り、私にはベルアマードさんの走りがどこにもないように見えました」
私は息を止めた。
「お兄ちゃんの走りが?」
「はい」
エクラちゃんは膝の上の手を、少し強く握った。
「そして、ベルアマードさんが悲しそうに見えました」
悲しそう。その言葉は、私にはうまく飲み込めなかった。兄が悲しそうだった。どういうことなのか分からなかった。負けたのだから、レースの後に悲しい顔をするのは普通のことではないのか。私はそう思った。
「でも、あの時のお兄ちゃん、すごく強かったよ」
「はい。強かったです」
「なら」
「でも、ベルアマードさんらしくなかった」
エクラちゃんの声は、柔らかいのに、はっきりしていた。私はそれ以上、何も言えなかった。その時の私には、エクラちゃんの言っていることが分からなかった。けれど、今なら分かる。この時のエクラちゃんの言葉は、正しかったのだと思う。きっと彼女は、私よりもずっと兄のことを真剣に見ていた。
兄が勝ったか負けたかではなく。兄がどんな顔で走っていたのか、何を失いながら走っていたのか。その走りが、兄自身のものだったのか。彼女は、そこまで見ていたのだ。私が見落としていたものを。
少しの間、私たちの間に静かな空気が流れ、蝉の声だけが響いていた。夏の日差しは相変わらず強く、庭の木々は眩しく光っている。けれど縁側の影の中だけ、時間が少し止まったようだった。その沈黙を終わらせたのは、エクラちゃんだった。
「私、近いうちにベルアマードさんに告白しようと思っています」
私は彼女を見た。エクラちゃんの顔は、少し赤かったけど、真剣だった。そして綺麗だった、雨の日に初めて会った時の堂々とした姿を思い出した。あの時もこの子はまっすぐだった。自分の気持ちに対しても、きっと同じなのだ。私は深く考えなかった。
兄がどう思うのか。エクラちゃんが傷つくかもしれないこと。そういうことを、まだ何も考えられなかった。ただ、親友の気持ちを応援したいと思った。
「そうなんだ……私、応援するよ。何かできることがあったら言って」
エクラちゃんは、ぱっと顔を明るくした。そして、私の手を取った。
「ありがとうございます! フレアちゃん」
久しぶりに握られた手は温かかった。初めて風杜で出会った雨の日と同じように。縁側で並んで座っている私たちの間に、その温かさだけが残った。私は少し嬉しかった。エクラちゃんが私を頼ってくれたことが、親友として隣にいられる気がしたことが。でも、その気持ちの奥に小さな痛みが混ざっていたことは、気づかないふりをした。




