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7/20

変貌

「……悪かった、昨日は」


次の日の朝、兄は私の部屋の前に立っていた。


扉を開けた瞬間、そこに兄がいるとは思っていなかった私は、思わず足を止めた。


兄もすぐには言葉を発しなかった。


無愛想な顔のまま、落ち着かない様子で視線をさまよわせている。


何かを言おうとしているのに、言葉が見つからない。


そんな表情だった。


私はただ黙って兄を見上げた。


昨日の出来事が鮮明に蘇る。


伸ばした手。


振り払われた腕。


地面に倒れた感触。


手についた土のざらつき。


そして、怯えた兄の顔。


思い出すだけで、胸の奥がじくりと痛んだ。


それでも兄は、ここに来ていた。


何度か口を開きかけては閉じ、長い沈黙の末に、ようやく絞り出したのがその一言だった。


「……悪かった、昨日は」


短くて、不器用で。


いかにも兄らしい謝罪だった。


私は何と返せばいいのか分からなかった。


まだ少し怖かった。


振り払われた時の感覚は、確かに残っている。


それでも、目の前にいる兄は昨日とは違っていた。


私の知っている兄に近かった。


兄は、ほんの少し頭を下げた。


その姿を見た瞬間、私は言葉を失った。


あの兄が、私に謝っている。


それだけで、もう十分だった。


「……うん」


私は小さく頷いた。


「もういいよ」


そう言うと、兄は少しだけ顔を上げた。


けれど、笑うことはなかった。


何かを飲み込んだような表情をしたまま、


「……じゃあ」


それだけ言って、背を向けた。


私はその背中を見送った。


昔なら、きっと追いかけていた。


でも、その朝の私は、ただそこに立ち尽くすことしかできなかった。


それからも、私たちは完全には元に戻らなかった。


会えば話した。


一緒に歩くこともあった。


それでも、以前のように触れることができなくなっていた。


私も兄も、それを言葉にしなくても分かっていた。


目には見えない薄い壁のようなものが、確かに私たちの間にあった。


兄もまた、変わっていた。


グラウンドを走る時も、以前のように前だけを見てはいなかった。


何度も後ろを振り返る。


何もないことを確かめてから、息を吐く。


見えない何かに追われているようで、その姿はどこか苦しそうだった。


私はそれを見るのが辛かった。


けれど、目を逸らすこともできなかった。


心配と、ほんの少しの恐怖。


二つが胸の中で絡み合っていた。


雨月賞が近づくにつれ、風杜の空気は張り詰めていった。


兄の練習量は増え、武田トレーナーの声も一層厳しくなった。


お母さんは、そんな兄を静かに見守っていた。


ある日、兄のユニフォームが届いた。


黒を基調に、金と水色が差し込まれている。


派手すぎない。


それでいて、強い存在感を放っていた。


「すごい!」


思わず声が出た。


お母さんも穏やかに微笑んだ。


「似合いそうね」


私もそう思った。


けれど、兄は違った。


ユニフォームを手にしたまま、じっと見つめていた。


その視線は、まるで重さを測っているようだった。


どこか、覚悟を試されているような顔にも見えた。


「お兄ちゃん?」


呼びかけると、兄はゆっくり顔を上げた。


「……何でもない」


そう言って、ユニフォームを抱えた。


私は、その先を聞けなかった。


雨月賞当日。


私は競駆場へ行かなかった。


行きたくなかったわけではない。


ただ、これまでの兄の姿が頭から離れず、見る勇気が持てなかった。


それでも結局、テレビをつけた。


画面の中には、観客で埋め尽くされた競駆場と、黒いユニフォームを纏った兄の姿があった。


よく似合っていた。


それなのに、胸が締めつけられた。


レースは終盤だった。


兄は前にいた。


けれど、徐々に後ろから迫る影に飲み込まれていく。


走っているはずなのに、沈んでいくように見えた。


兄は負けた。


でも、その事実よりも。


その姿が、ただ怖かった。


雨月賞の後、兄は変わった。


ただ自由に走るのではなく、勝つための走りを学び始めた。


位置取り。


速度。


力の配分。


それらすべてを考えるようになった。


それは、強い駆人たちがする走りそのものだった。


次のレース――葉桜記念。


私はエクラちゃんと観に行った。


兄はその新しい走りを実践し、見事に勝利した。


「勝ったね!」


私がそう言うと、エクラちゃんは少し遅れて頷いた。


でも、その表情にはどこか引っかかるものがあった。


私は、その理由が分からなかった。


その後、兄はお母さんと実戦形式の練習を始めた。


逃げる兄を、お母さんが全力で追う。


引退しているはずのお母さんの走りは圧倒的で、私はただ息を呑むしかなかった。


その中で、兄は確実に変わっていった。


後ろを振り返る回数は減り、走りは洗練されていく。


一方で私は、まだ基礎練習ばかりだった。


走る意味すら、まだ掴めていなかった。


そして、日本クラウンの日が来た。


競駆場は、これまでとは明らかに違う熱気に包まれていた。


エクラちゃんも、どこか落ち着かない様子だった。


席に着くと、兄の姿が見えた。


以前よりもずっと静かで、揺らぎがないように見えた。


「調子は良いんですか?」


エクラちゃんが尋ねた。


「うん。お母さんと特訓してるし」


そう答えると、エクラちゃんは真剣な眼差しでターフを見つめた。


レースが始まった。


兄の走りは安定していた。


無理をせず、それでも先頭を維持している。


最後の直線。


兄は先頭だった。


このまま勝てる。


そう思った。


けれど、外からルーレットショーさんが伸びてきた。


差が一気に縮まる。


並ぶ。


そして、交わされた。


兄は二着だった。


私は動けなかった。


負けた。


それでも兄は崩れていなかった。


観客席は歓声に包まれていた。


兄へのその歓声は純粋な称賛だった。


帰り道。


私も悔しさを抱えながら、それでも兄の強さを思っていた。


兄は強かった。


惜しかった。


そのことばかりを考えていた。


けれど、エクラちゃんは終始静かだった。


「エクラちゃん?」


呼びかけると、彼女は小さく首を振った。


「……何でもありません」


そう言ったけれど、その表情はどこか悲しそうだった。


夕方の光の中で、エクラちゃんの目はわずかに赤く染まっていた。


私は何も言えなかった。


その時の私には、エクラちゃんがどうしてそんな顔をしているのか分からなかった。


でも今なら思う。


エクラちゃんは、私よりもずっと深く兄を見ていた。


兄の走りを。


その背負っているものを。


日本クラウンの歓声がまだ耳に残る中で、彼女だけが、私には見えない何かを静かに見つめているようだった。

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