変貌
「……悪かった、昨日は」
次の日の朝、兄は私の部屋の前に立っていた。
扉を開けた瞬間、そこに兄がいるとは思っていなかった私は、思わず足を止めた。
兄もすぐには言葉を発しなかった。
無愛想な顔のまま、落ち着かない様子で視線をさまよわせている。
何かを言おうとしているのに、言葉が見つからない。
そんな表情だった。
私はただ黙って兄を見上げた。
昨日の出来事が鮮明に蘇る。
伸ばした手。
振り払われた腕。
地面に倒れた感触。
手についた土のざらつき。
そして、怯えた兄の顔。
思い出すだけで、胸の奥がじくりと痛んだ。
それでも兄は、ここに来ていた。
何度か口を開きかけては閉じ、長い沈黙の末に、ようやく絞り出したのがその一言だった。
「……悪かった、昨日は」
短くて、不器用で。
いかにも兄らしい謝罪だった。
私は何と返せばいいのか分からなかった。
まだ少し怖かった。
振り払われた時の感覚は、確かに残っている。
それでも、目の前にいる兄は昨日とは違っていた。
私の知っている兄に近かった。
兄は、ほんの少し頭を下げた。
その姿を見た瞬間、私は言葉を失った。
あの兄が、私に謝っている。
それだけで、もう十分だった。
「……うん」
私は小さく頷いた。
「もういいよ」
そう言うと、兄は少しだけ顔を上げた。
けれど、笑うことはなかった。
何かを飲み込んだような表情をしたまま、
「……じゃあ」
それだけ言って、背を向けた。
私はその背中を見送った。
昔なら、きっと追いかけていた。
でも、その朝の私は、ただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
それからも、私たちは完全には元に戻らなかった。
会えば話した。
一緒に歩くこともあった。
それでも、以前のように触れることができなくなっていた。
私も兄も、それを言葉にしなくても分かっていた。
目には見えない薄い壁のようなものが、確かに私たちの間にあった。
兄もまた、変わっていた。
グラウンドを走る時も、以前のように前だけを見てはいなかった。
何度も後ろを振り返る。
何もないことを確かめてから、息を吐く。
見えない何かに追われているようで、その姿はどこか苦しそうだった。
私はそれを見るのが辛かった。
けれど、目を逸らすこともできなかった。
心配と、ほんの少しの恐怖。
二つが胸の中で絡み合っていた。
雨月賞が近づくにつれ、風杜の空気は張り詰めていった。
兄の練習量は増え、武田トレーナーの声も一層厳しくなった。
お母さんは、そんな兄を静かに見守っていた。
ある日、兄のユニフォームが届いた。
黒を基調に、金と水色が差し込まれている。
派手すぎない。
それでいて、強い存在感を放っていた。
「すごい!」
思わず声が出た。
お母さんも穏やかに微笑んだ。
「似合いそうね」
私もそう思った。
けれど、兄は違った。
ユニフォームを手にしたまま、じっと見つめていた。
その視線は、まるで重さを測っているようだった。
どこか、覚悟を試されているような顔にも見えた。
「お兄ちゃん?」
呼びかけると、兄はゆっくり顔を上げた。
「……何でもない」
そう言って、ユニフォームを抱えた。
私は、その先を聞けなかった。
雨月賞当日。
私は競駆場へ行かなかった。
行きたくなかったわけではない。
ただ、これまでの兄の姿が頭から離れず、見る勇気が持てなかった。
それでも結局、テレビをつけた。
画面の中には、観客で埋め尽くされた競駆場と、黒いユニフォームを纏った兄の姿があった。
よく似合っていた。
それなのに、胸が締めつけられた。
レースは終盤だった。
兄は前にいた。
けれど、徐々に後ろから迫る影に飲み込まれていく。
走っているはずなのに、沈んでいくように見えた。
兄は負けた。
でも、その事実よりも。
その姿が、ただ怖かった。
雨月賞の後、兄は変わった。
ただ自由に走るのではなく、勝つための走りを学び始めた。
位置取り。
速度。
力の配分。
それらすべてを考えるようになった。
それは、強い駆人たちがする走りそのものだった。
次のレース――葉桜記念。
私はエクラちゃんと観に行った。
兄はその新しい走りを実践し、見事に勝利した。
「勝ったね!」
私がそう言うと、エクラちゃんは少し遅れて頷いた。
でも、その表情にはどこか引っかかるものがあった。
私は、その理由が分からなかった。
その後、兄はお母さんと実戦形式の練習を始めた。
逃げる兄を、お母さんが全力で追う。
引退しているはずのお母さんの走りは圧倒的で、私はただ息を呑むしかなかった。
その中で、兄は確実に変わっていった。
後ろを振り返る回数は減り、走りは洗練されていく。
一方で私は、まだ基礎練習ばかりだった。
走る意味すら、まだ掴めていなかった。
そして、日本クラウンの日が来た。
競駆場は、これまでとは明らかに違う熱気に包まれていた。
エクラちゃんも、どこか落ち着かない様子だった。
席に着くと、兄の姿が見えた。
以前よりもずっと静かで、揺らぎがないように見えた。
「調子は良いんですか?」
エクラちゃんが尋ねた。
「うん。お母さんと特訓してるし」
そう答えると、エクラちゃんは真剣な眼差しでターフを見つめた。
レースが始まった。
兄の走りは安定していた。
無理をせず、それでも先頭を維持している。
最後の直線。
兄は先頭だった。
このまま勝てる。
そう思った。
けれど、外からルーレットショーさんが伸びてきた。
差が一気に縮まる。
並ぶ。
そして、交わされた。
兄は二着だった。
私は動けなかった。
負けた。
それでも兄は崩れていなかった。
観客席は歓声に包まれていた。
兄へのその歓声は純粋な称賛だった。
帰り道。
私も悔しさを抱えながら、それでも兄の強さを思っていた。
兄は強かった。
惜しかった。
そのことばかりを考えていた。
けれど、エクラちゃんは終始静かだった。
「エクラちゃん?」
呼びかけると、彼女は小さく首を振った。
「……何でもありません」
そう言ったけれど、その表情はどこか悲しそうだった。
夕方の光の中で、エクラちゃんの目はわずかに赤く染まっていた。
私は何も言えなかった。
その時の私には、エクラちゃんがどうしてそんな顔をしているのか分からなかった。
でも今なら思う。
エクラちゃんは、私よりもずっと深く兄を見ていた。
兄の走りを。
その背負っているものを。
日本クラウンの歓声がまだ耳に残る中で、彼女だけが、私には見えない何かを静かに見つめているようだった。




