亀裂
それからも、私はエクラちゃんと競駆場へ通い続けた。
最初は圧倒されるばかりだったその場所も、通ううちに少しずつ輪郭を持ちはじめた。
耳を打つ歓声の波。
芝の匂い。
押し寄せる人の流れ。
直線で一斉に空気が震える、あの瞬間。
それらがただの刺激ではなく、少しずつ意味を伴って感じられるようになっていった。
エクラちゃんは、いつも隣で丁寧に教えてくれた。
人気。
脚質。
レースの重要性。
それまでただの言葉だったものが、兄の走りと重なることで、少しずつ私の中でも形を持つようになった。
私にとって競駆は、兄そのものだった。
兄を見るための場所であり、私の知らなかった兄を知る場所でもあった。
春が近づき、兄は三歳の大舞台――リュニーク、その一つである雨月賞を目指していた。
その前哨戦、雪消雨賞の日も、私はエクラちゃんと観客席にいた。
兄が一番人気。
最も勝つと期待されている存在なのだということは、私にもはっきり分かるようになっていた。
けれど、周囲で聞こえてくるのは、母アマルティアと父ウインドベル、その血を継ぐベルアマードという言葉ばかりだった。
そしてもう一人。
ライバルとされるベストセンスさんの名前も、何度も繰り返されていた。
「今日は二世対決なんです」
エクラちゃんの言葉に、観客席のざわめきが重なる。
その言葉を聞くたび、胸の奥に小さな棘が刺さった。
兄は誰かの子として語られ、誰かと比べられる存在になっている。
あのインタビューで、一人だけ取り残されたように立っていた兄の姿が何度も脳裏に浮かんだ。
消えない影のように、ずっとまとわりついていた。
レースが始まる。
兄はいつものように先頭へ出た。
けれど、直線。
ベストセンスさんが静かに迫ってきた。
逃げる兄。
追う相手。
歓声が膨らみ、空気が張り詰める中、差は確実に縮まっていく。
そして、兄はほんのわずかに敗れた。
その瞬間、胸の奥で何かが音もなく崩れた。
歓声は遠く、水の底から聞こえてくるようにぼやけていた。
ただ、
負けた。
その事実だけが冷たい石のように心の底へ沈んでいく。
遠くのターフに立つ兄の顔だけは、なぜか鮮明に焼き付いていた。
何かを失ったような表情だった。
光を失った瞳はどこにも焦点を結ばず、ただ空を見ているようで、その姿が私の胸を締めつけた。
帰宅してから、お母さんは静かに言った。
「お兄ちゃんが帰ってきても、レースの話はしちゃ駄目よ」
私は頷くしかなかった。
言葉を飲み込むたび、喉の奥に苦いものが溜まっていく。
その日、兄とは会えなかった。
近くにいるはずなのに、届かない。
手を伸ばせば触れられるはずなのに、どうしても届かない。
透明な壁のようなものが、私たちの間にできたように感じた。
それでも兄は、次の前哨戦――春時雨杯に出走した。
雨の中のレース。
兄は再び先頭へ出る。
直線でルーレットショーさんが迫った。
「お兄ちゃん!」
私は思わず叫んだ。
届かないと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。
声が喉を裂くように飛び出し、胸の奥に溜まっていた不安や祈りまで一緒に溢れ出る。
そして兄は、わずかに逃げ切った。
勝利の瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが一気にほどけた。
糸が切れたように力が抜け、私はエクラちゃんと顔を見合わせて笑った。
兄が戻ってきた。
そう思いたかった。
その帰り道、私はお母さんに言った。
「私も、ちゃんと走る練習してみたい」
お母さんは少し驚いたように私を見て、それから静かに笑った。
「競駆は、思っているより厳しい世界よ。それでもいい?」
私は頷いた。
兄がいる。
エクラちゃんがいる。
そこへ自分も少し近づいてみたい。
その頃の私には、それだけで十分だった。
まだ、自分が本当に競駆をやりたいのかなんて分かっていなかった。
兄やエクラちゃんと同じ世界にいられたら、それはきっと楽しい。
そんな程度の、幼い気持ちだった。
その考えがどれほど甘かったのかを知るのは、すぐ後のことになる。
春。
2歳になった私は風杜に入寮した。
そして基礎練習が始まった。
走り方や身体の使い方を、少しずつ覚えていく。
純粋に楽しかった。
その一方で、グラウンドの中心では兄が厳しい練習を繰り返していた。
スタート。
コーナー。
細かな部分まで、何度も確認する。
近づくだけで息が詰まりそうなくらい、その周囲の空気は張り詰めていた。
ある日、練習の合間に一人で立っている兄を見つけた。
同じ場所にいることが嬉しかった。
ようやく少しだけ、兄のいる世界へ近づけた。
そんな小さな誇らしさを抱えたまま、私は兄へ近づいた。
「お兄ちゃん」
反応はなかった。
私はさらに一歩踏み出し、兄の背中へ手を伸ばした。
その瞬間。
兄は反射的に、私の手を振り払った。
バランスを崩し、私は地面へ倒れ込んだ。
顔を上げる。
兄がいた。
その顔を見た瞬間、胸の奥が強く掴まれたように痛んだ。
そこにあったのは、怒りでも苛立ちでもなかった。
怯えだった。
まるで、知らない人を見るような目。
拒絶されたような感覚が、冷たい水のように全身へ広がっていく。
私の知っている兄ではなかった。
何かから逃げるような顔。
見えない何かに追われ続けているような姿。
余裕のない呼吸。
私は動けなかった。
声も出なかった。
胸の奥で、何かがひび割れていくような感覚だけが、やけに鮮明だった。
やがてトレーナーたちが駆け寄ってきた。
私はようやく息を吸い込んだ。
そして、涙が溢れた。
競駆は、兄をこんなふうに変えてしまうのか。
そう思った瞬間、胸の中で何かが完全に壊れた。
憧れと安心でできていたはずの場所が、音を立てて崩れていく。
私は泣いた。
兄はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
春の風は暖かいはずなのに、頬に触れる空気はやけに冷たかった。
手についた土のざらつきと、胸の奥に残る鈍い痛みだけが、現実を突きつけていた。
その日。
私は初めて、競駆が少し怖いと思った。
そして同時に。
ほんの少しだけ、兄のことが嫌いになった。




