憧憬
エクラちゃんから兄のデビュー戦の話を聞いたあの日から、胸の奥に小さな違和感が残っていた。
痛いと呼ぶほどではない。
普段は忘れているのに、ふとした瞬間だけに引っかかる、小さな棘のようなものだった。
理由は、すぐには分からなかった。
兄が褒められるのは嬉しい。
エクラちゃんが目を輝かせながら兄の勝利を話してくれるのも、嫌ではなかった。
むしろ聞いていると胸が弾んだ。
それなのに、どこか落ち着かなかった。
あとになって、その理由が少し分かった。
エクラちゃんは、私の知らない兄を知っていたのだ。
私が知っている兄は、風杜のグラウンドを黙々と走る人だった。
テレビの前で競駆を食い入るように見る横顔。
近づけば少し困ったような顔をして、後ろから抱きつけばぎこちなく頭を撫でてくれる。
いつも前ばかり見ているのに、私が危ない場所へ行こうとすれば立ち止まってくれる。
それが、私の中のベルアマードだった。
けれど、エクラちゃんが話す兄は違う。
大勢の人に見られながら、ターフを走る。
歓声を浴びる。
拍手に包まれる。
そして、その誰よりも前でゴールする。
同じ兄の話なのに、まるで知らない人の話を聞いているようだった。
エクラちゃんは、何度もデビュー戦のことを話した。
「ゲートが開いた瞬間、本当に速かったんです。前へ出る時も迷いがなくて、最後までずっと先頭でした」
そのたびに、まるであの日をもう一度見ているような顔をする。
私はその話を聞くたび、少しだけ置いていかれるような気がした。
私のお兄ちゃんなのに。
兄のことなのに。
エクラちゃんの方が、私の知らない兄を知っている。
その事実が不思議で、ほんの少し悔しかった。
だったら、自分で見ればいい。
競駆場にいる兄を。
風杜では見せない顔をする兄を。
この目で確かめれば、胸の奥に残っているものも消えるかもしれない。
そう思うと、急に見に行きたくなった。
「私も見に行きたい」
エクラちゃんがまた兄のレースについて話していた時、気づけばそう口にしていた。
自分でも驚くくらい、はっきりとした声だった。
エクラちゃんは一瞬目を丸くした。
「本当ですか?」
「うん。見たい」
何度も確かめるように聞かれて、私は頷いた。
するとエクラちゃんは、ぱっと顔を輝かせた。
「一緒に行きましょう! 絶対楽しいです!」
嬉しそうに私の手を握る。
その温かさに、胸の奥にあった固いものが少しだけほどけた。
宝物を見せる子供みたいに目を輝かせるエクラちゃんを見ながら、私は考えていた。
兄が見ているものを知りたい。
兄が立っている場所を見たい。
そして何より、エクラちゃんをこんなにも夢中にさせたものが何なのかを知りたかった。
その機会は、思っていたより早くやって来た。
兄の三戦目。
無敗で迎える、二歳王者決定戦。
デザイアトロフィー。
そのレースを見に行くことになった。
当時の私は、その舞台がどれほど大きなものなのか理解していなかった。
けれど、風杜の大人たちがいつもと違うことだけは分かった。
翠子さんは何度も書類を確認していた。
お母さんは普段より少し口数が少なかった。
お父さんは、
「普通に走ればいい」
と言っていたけれど、その声にもどこか慎重なものがあった。
そんな大人たちとは反対に、私はただ楽しみだった。
ようやく、自分の目で兄のレースを見られる。
エクラちゃんが見たものを、私も見られる。
それだけで胸が高鳴っていた。
初めて競駆場へ足を踏み入れた時、そこに広がった景色は想像していたものとはまるで違った。
門をくぐった瞬間、世界が一気に広がった。
音が押し寄せてくる。
ざわめき。
笑い声。
人を呼ぶ声。
実況。
拍手。
そこへ食べ物の甘い香りや、温かい飲み物から立つ湯気まで混ざっていた。
屋台が並び、見たことのないグッズが売られ、大きな看板がいくつも掲げられている。
目に入るもの全部が新しかった。
何度も足を止めそうになった。
「フレアちゃん、こっちです」
エクラちゃんが私の手を引いた。
この場所には何度も来たことがあるのだろう。
人混みの中でも迷わず進んでいく。
その姿が頼もしく見えた。
「あれ何?」
「競駆のグッズです」
「こっちは?」
「飲み物ですよ」
「人、多いね」
「今日は特別なレースですから」
エクラちゃんは少し誇らしそうに笑った。
兄を見に来たはずなのに。
私は、この場所そのものを楽しいと感じている自分に少し驚いた。
やがて観客席へ出ると、視界が一気に開けた。
思わず足が止まった。
目の前に、広いターフが続いている。
鮮やかな緑。
その周囲を埋め尽くす観客席。
風に揺れる旗。
途切れることのない人の声。
私は言葉を失った。
ここは、ただ走るだけの場所ではなかった。
たった一つのターフへ、無数の視線が集まっている。
勝ちたい人がいる。
見たい人がいる。
応援したい人がいる。
色々な思いが熱になって、競駆場全体を包んでいた。
その真ん中に、兄が立つ。
そう思った途端、胸の奥がじんわりと熱くなった。
レースが始まれば、その熱はもっと大きくなった。
駆人たちが走り出すと、観客が一斉に前を見る。
名前を叫ぶ。
最後の直線では、観客席そのものが揺れているような歓声が上がった。
私はただ圧倒されていた。
こんな場所で、兄は走っている。
そのことが、少しずつ現実になっていった。
まだ憧れではなかった。
自分もここに立ちたいなんて思わなかった。
むしろ、兄が自分の知らない大きな世界にいることを初めて知って、その距離を感じていた。
いくつかのレースを見ているうちに、兄の出走が近づいてきた。
隣にいたエクラちゃんが、目に見えて落ち着かなくなった。
案内を何度も確認する。
背伸びをする。
そして私の手を、いつもより少し強く握った。
「出走前のインタビューがあります」
「インタビュー?」
「はい。行きましょう」
エクラちゃんに引かれるまま、人だかりの方へ向かった。
兄が見えた瞬間、自然と視線が吸い寄せられた。
ジャージ姿で立つ兄を、大勢の人が囲んでいる。
私はもっと堂々としている姿を想像していた。
速くて。
強くて。
いつも前へ行く兄なら、人に見られることなんて何とも思わないのだろうと。
でも、違った。
背筋は伸びている。
俯いてもいない。
それでも表情は硬かった。
どこか苛立っているようにも見えた。
なぜなのかは分からない。
ただ、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
兄は大勢に囲まれていた。
それなのに、ひとりぼっちに見えた。
そして、周囲から聞こえてくる言葉で、その理由を少しだけ知った。
アマルティア。
ウインドベル。
伝説の女王の息子。
ベルアマードという名前も聞こえる。
けれど、その前にはいつもお母さんやお父さんの名前があった。
兄ではなく、その向こうにいる二人を見られているようだった。
胸の奥が、少しだけ苦しくなった。
兄は何も言わなかった。
軽く頭を下げ、それだけでその場を離れていく。
その背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
そして、レースが始まった。
ゲートが開いた瞬間。
空気が変わった。
兄は迷わなかった。
一歩目から前へ出る。
誰よりも早く。
そのまま先頭へ飛び出した。
風杜のグラウンドで何度も見た走りだった。
でも、ターフの上ではまるで違って見えた。
大きかった。
ただ速い。
最初に感じたのは、それだけだった。
滑るように前へ進み、後ろとの差を広げていく。
観客席がざわめく。
実況が兄の名前を追いかける。
まるで兄だけが、別の風に乗っているようだった。
目が離せなかった。
そして。
気づいた。
兄が笑っていることに。
普段は感情をあまり見せない兄が。
大勢に囲まれていた時には、あんなに硬い顔をしていた兄が。
走っている時だけは、違っていた。
楽しんでいる。
子供だった私にも、それだけははっきり分かった。
誰かに見せるためじゃない。
誰かに褒められるためでもない。
ただ、前へ行くことが好きなのだ。
私はその時、初めて知った。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
少しだけ。
兄が格好よく見えた。
隣を見ると、エクラちゃんは息をするのも忘れたように兄を見つめていた。
目は輝いている。
その横顔を見て、私は前より少しだけ、エクラちゃんが何に惹かれたのか分かった気がした。
兄が最後の直線へ入る。
歓声が爆発した。
エクラちゃんが私の手を強く握る。
私も握り返した。
胸が大きく跳ねた。
身体へ歓声がぶつかってくる。
そして。
兄は一番でゴールした。
「勝ちました!」
エクラちゃんが叫んだ。
「ベルアマードさん、勝ちました!」
私は笑っていた。
気づけば、自分も声を上げていた。
「お兄ちゃん! 勝った!」
そのレースがどれほど大切だったのか。
無敗でいることが何を意味するのか。
兄にどれほど大きな期待が集まり始めていたのか。
その時の私は、何も知らなかった。
それでも十分だった。
兄が、自分の知らない世界で一番先にゴールした。
その光景だけが、強く胸に残った。
帰り道。
夕焼けに染まった空の下を、人の波が続いていた。
歩きながら、エクラちゃんは何度もレースの話をした。
「飛び出しが本当にすごかったです。直線に入っても全然止まりませんでしたし」
私はそれを聞きながら歩いていた。
兄が褒められているのは嬉しかった。
エクラちゃんが楽しそうに話すから、こちらまで楽しくなる。
けれど。
同時に、その言葉がエクラちゃんを少しずつ遠くへ連れていくような気もしていた。
その時。
エクラちゃんが足を止めた。
夕焼けが、黒い髪を赤く染めている。
私を見た。
さっきまで兄のレースについて話していた時とは少し違う、真剣な顔だった。
「私、二歳になったら競駆をやります」
「競駆を?」
「はい」
迷いはなかった。
エクラちゃんは遠くを見るようにして続けた。
「ベルアマードさんみたいに走ります」
胸の奥が、じんとした。
この子はもう、自分が進む場所を見つけたのだ。
初めてそう思った。
エクラちゃんにとって、兄はもうただの「友達のお兄ちゃん」ではない。
追いかけたい人。
自分の未来を決めるほどの存在になっていた。
エクラちゃんは、すぐに私へ向き直った。
そして、何でもないことのように聞いた。
「フレアちゃんもやるんでしょ?」
私は少し戸惑った。
競駆をやる。
そんなことを、それまで真剣に考えたことはなかった。
私にとって走ることは、お母さんと追いかけっこをするくらいのものだった。
競駆は、兄を私から遠くへ連れていくものだった。
でも、その時は深く考えなかった。
兄がいる。
エクラちゃんがいる。
なら、その先には自分もいる。
そんな未来が、ごく自然に思えた。
「うん。お兄ちゃんもやってるし、エクラちゃんもやるなら」
そう答えると、エクラちゃんはぱっと笑った。
そして私の手を握った。
「嬉しいです! きっと一緒に走ったら楽しいですよ!」
その言葉に、私は少しだけ未来を想像した。
前には兄がいる。
隣にはエクラちゃんがいる。
三人で同じ世界にいて、同じターフを走っている。
まだ輪郭もない、ぼんやりとした未来。
それでも、その時の私には心地よかった。
「うん。きっと楽しいね」
私はそう答えた。
その時の私は何も知らなかった。
ターフが、ただ楽しいだけの場所ではないことも。
一緒に走れば、必ず誰かが勝ち、誰かが負けることも。
隣にいる友達が、いつか自分の前に立ちはだかる壁になることも。
あの日の私は何も知らず、夕焼けの中でエクラちゃんの手を握っていた。
少しだけ、未来を楽しみにしながら。




