親友
私とエクラちゃんは、思っていたよりずっと早く仲良くなった。
初めて会った時は、正直に言えば少し不安だった。
整った顔立ち。艶のある黒い髪。雨の日の風杜には少し眩しく見えるほど綺麗な服。初めて来た場所なのに少しも怯えず、背筋を伸ばして立っている姿。
私より少し大人っぽく見えたし、きっと私の知らないことをたくさん知っている。
何を話せばいいのか分からなかった。
けれど、それは本当に最初だけだった。
エクラちゃんは、思っていたよりずっと活発な子だった。
廊下を歩けば、すぐに何かを見つけて足を止める。
窓の外に気になるものがあれば、今度は私の手を引いてそちらへ向かう。
食堂では初めて見る料理に目を輝かせ、風杜にあるものを一つ一つ、まるで宝物でも探すように見て回った。
「フレアちゃん、あれは何ですか?」
「あっちはどこに続いてるんですか?」
「雨が止んだら、外にも行けますか?」
最初は私が風杜を案内していたはずなのに、気づけばエクラちゃんの方が先を歩いていて、私はその後ろを追いかけていた。
それがおかしくて、少し楽しかった。
兄の後ろを追うのとは、どこか違った。
兄の背中は、いつも少し遠かった。
追いかけても、兄は前を見ている。
走り出せば、すぐに私の手が届かないところまで行ってしまう。
でも、エクラちゃんは違った。
少し先へ行っても、必ず振り返る。
「フレアちゃん、こっちです」
そう言って、手を伸ばしてくれる。
私はその手を取った。
初めて会った雨の日に握った時と同じように、エクラちゃんの手は温かかった。
雨が続いて外へ出られない日も、私たちは退屈しなかった。
部屋で積み木を並べた。
絵本を広げて、同じページを何度も見た。
椅子に毛布をかけて、二人だけの秘密基地を作った。
それまでの私は、暇になると兄を探していた。
兄がいないと、何となく落ち着かなかった。
走っている兄に置いていかれたような気持ちになることもあった。
でも、エクラちゃんがいる間だけは違った。
兄がどこにいるのかを、それほど気にしなくなった。
夜は、私の部屋で一緒に眠った。
普段なら一人で眠る部屋に、もう一つ布団が並んでいる。
最初の夜は、それだけで少し緊張した。
誰かと同じ部屋で眠るのが嫌だったわけではない。
ただ、距離が近すぎて、どうしていいのか分からなかった。
横になっていると、雨の音がよく聞こえた。
屋根を叩く音。
窓を伝っていく水の音。
遠くで木々が揺れる音。
いつもなら少し寂しく感じる雨の夜だった。
けれど、その日は違った。
薄暗い部屋の中、隣の布団からエクラちゃんが私を見ていた。
枕の上に黒い髪が広がっている。
暗い中でも、その目だけが少し明るく見えた。
「フレアちゃん」
「なに?」
「明日も一緒に遊びましょうね」
たったそれだけだった。
それだけなのに、胸の中がふわっと軽くなった。
「うん。明日も遊ぼう」
エクラちゃんは嬉しそうに笑った。
その顔を見ているうちに、私はいつの間にか眠っていた。
雨の夜が、怖くなかった。
隣にエクラちゃんがいるだけで、風杜まで少し明るくなったように思えた。
けれど、エクラちゃんが帰る日はあっという間にやって来た。
朝起きて、一緒にご飯を食べて、遊んで。
昼になって、また遊んで。
夜になれば同じ部屋で眠る。
そんな日を何度か繰り返しただけで、もう帰る日になっていた。
玄関の前で、エクラちゃんは両親と並んでいた。
初めて会った日と同じような、きちんとした綺麗な服に着替えている。
けれど、その顔は少し寂しそうに見えた。
私もうまく言葉が出なかった。
帰ってほしくなかった。
まだ一緒に遊びたかった。
今日も一緒にご飯を食べて、夜には同じ部屋で眠って、明日の朝も隣にいてほしかった。
でも、そんなことを言って困らせたくなかった。
だから黙って、エクラちゃんを見ていた。
エクラちゃんは私の前まで来ると、ぎゅっと手を握った。
「また来ます」
はっきりした声だった。
「絶対に来ます。だから、待っていてください」
私は頷いた。
「うん。待ってる」
それだけしか言えなかった。
エクラちゃんは最後に、出会った日と同じように私を抱きしめた。
でも、その時の私はもう固まらなかった。
すぐにその背中へ腕を回した。
それからエクラちゃんは両親と一緒に風杜を出ていった。
私は門の向こうへ歩いていく背中を、見えなくなるまでずっと見ていた。
エクラちゃんがいなくなった部屋は、少し広く感じた。
そのことが、私は少しだけ嫌だった。
けれど、エクラちゃんは約束を守った。
雨の日も。
晴れた日も。
季節が変わってからも。
何度も風杜へ遊びに来てくれた。
兄と一緒にいられない時間は、相変わらず増えていた。
兄はテレビで競駆を見て、練習をして、外へ出て、また走る。
私はその背中を見送ることが多くなった。
それでも以前ほど寂しくはなかった。
エクラちゃんが来てくれるから。
私を見つけてくれる子がいるから。
兄の背中だけを見ていなくても、私には新しい楽しみができていた。
そんな日々の中で、秋が来た。
風杜の木々が少しずつ色づき、朝の空気に冷たさが混じり始めた頃だった。
その日は、兄のデビュー戦の日だった。
兄は前日から武田トレーナーと競駆場へ向かっていた。
だから朝から、風杜に兄はいなかった。
いつもならどこかから聞こえてくる足音もない。
グラウンドを走る姿もない。
食堂で静かに座っている背中もない。
少し物足りない気がした。
でも、その気持ちをどう言えばいいのか、当時の私にはまだ分からなかった。
私はその日、誰もいないグラウンドでお母さんと遊んでいた。
兄がやっているような競駆ではない。
ただ走るだけの遊びだった。
私が笑いながら逃げて、お母さんが後ろから追いかけてくる。
捕まりそうになれば振り返って、また走る。
足元の土は少し柔らかく、風が頬に当たる。
私は声を上げて笑っていた。
誰かに勝つためでもない。
速く走るためでもない。
ただ、お母さんに捕まらないように逃げるだけ。
その頃の私にとって、走るというのはそのくらいのものだった。
けれど、その日のお母さんは少しだけいつもと違った。
笑って私を追いかけてくれている。
それでも、ときどきグラウンドの外へ視線を向けた。
空を見る。
風杜の建物を見る。
何かを待っているような顔をする。
私はそれに気づいていた。
「お母さん?」
呼ぶと、すぐにいつもの顔で笑う。
「なあに、フレア」
今なら分かる。
お母さんは、兄のレースを気にしていた。
自分の子供が初めて競駆場で走る日。
かつて伝説の女王と呼ばれたお母さんが、どんな気持ちでその知らせを待っていたのか。
その時の私には、まったく分からなかった。
ただ、お母さんが少し落ち着かないことを不思議に思っていた。
しばらくして、風杜の建物の方から足音が聞こえた。
ぱたぱたと、急ぐような足音。
振り返ると、翠子さんがグラウンドへ向かって走ってきていた。
普段の翠子さんは、あまり慌てる人ではなかった。
忙しい時でも声は穏やかで、いつも落ち着いている。
その翠子さんが、息を弾ませながら走ってくる。
お母さんの顔が変わった。
翠子さんはグラウンドの入口で立ち止まり、大きく息を吸った。
「アマルティア! アマードが、勝ったわよ!」
その瞬間、お母さんの表情が一気にほどけた。
ぐっと両手を握り、目を閉じる。
身体全体で喜びを受け止めるように、肩が小さく震えていた。
私は驚いた。
いつも落ち着いていて、何があっても大きく取り乱さないお母さんが、子供みたいに喜んでいた。
「お母さん? どうしたの?」
私が聞くと、お母さんは振り返った。
泣きそうなくらい、嬉しそうな顔をしていた。
そして次の瞬間、私を強く抱きしめた。
苦しくはない。
でも、いつもよりずっと強く。
「勝ったのよ!」
耳元で、お母さんの弾んだ声が聞こえた。
「あなたのお兄ちゃんが、競駆で勝ったのよ!」
私はお母さんの腕の中で瞬きをした。
勝った。
兄が。
競駆で。
その言葉が何を意味するのか、まだ全部は分からなかった。
「それって、すごいの?」
お母さんは私を少し離し、目を合わせた。
「とっても凄いのよ」
いつもより柔らかい声だった。
ほんの少し震えていた。
「お兄ちゃんが毎日毎日頑張ったから、一番になれたの」
一番。
その言葉なら、私にも少し分かった。
兄が一番になった。
毎日走っていた兄が。
私に構ってくれなくなるくらい、ずっと走っていた兄が、一番になった。
そう思うと、胸の中が急に温かくなった。
兄の勝利なのに、なぜか自分まで嬉しかった。
誇らしかった。
兄が遠くへ行ってしまうようで寂しいと思っていたはずなのに、その兄が一番になったと聞くと、胸を張りたくなった。
お母さんが笑った。
翠子さんも笑っていた。
私もお母さんに抱きついた。
その日の風杜は、いつもより少し明るく見えた。
夜になって、兄が帰ってきた。
私は誰より先に玄関へ向かった。
早く会いたかった。
早く言いたかった。
勝ったんでしょう。
すごいんでしょう。
お母さんがすごく喜んでいたよ。
私も嬉しかったよ。
胸の中には、言いたいことがたくさんあった。
けれど玄関に立った兄を見た瞬間、私は少しだけ黙ってしまった。
兄は疲れていた。
それでも、顔にはまだレースの熱が残っているように見えた。
私が勢いよく迎えに来たからか、兄も少し戸惑った顔をした。
「お兄ちゃん!」
呼ぶと、兄は少し目を丸くした。
どうすればいいのか分からないように、ほんの少し眉を寄せる。
私は兄へ近づいた。
「勝ったの? 一番だったの?」
兄は一瞬間を置いて、それから小さく頷いた。
「すごいね!」
そう言うと、兄はさらに困ったような顔をした。
競駆場では、きっと何度も褒められてきたのだと思う。
それでも、私からそんなことを言われるとは思っていなかったのかもしれない。
兄はしばらく黙っていた。
それから少しぎこちなく手を伸ばし、私の頭を撫でた。
優しい言葉はなかった。
笑顔も、ほんの少しだけ。
昔と同じだった。
それでも、その手は確かに温かかった。
私は、それだけで嬉しかった。
次の日。
エクラちゃんが風杜へ遊びに来た。
会ってすぐ、私の方へ駆け寄ってくる。
頬は少し赤くなっていて、目がきらきらと輝いていた。
いつものエクラちゃんより、ずっと興奮している。
声を聞いただけで、何か大きなことを話したいのだと分かった。
「フレアちゃん!」
「どうしたの?」
「ベルアマードさんって、すごいのね!」
私は驚いた。
「もしかしてエクラちゃん、昨日見に行ってたの?」
エクラちゃんの両親は、競駆場の経営に携わっているらしい。
だから、よく競駆を観に行くのだと聞いていた。
私にとって競駆場はまだ遠い場所だったけれど、エクラちゃんには少し身近な場所なのだと思う。
エクラちゃんは大きく頷いた。
「そうなんですよ!」
そして、言葉が溢れるように話し始めた。
「昨日、偶然行った競駆場で、ここ風杜から出走者がいるって聞いたんです。それで見てみたら、フレアちゃんのお兄さんがいて」
エクラちゃんは胸の前で手を握った。
「興味が湧いて、見たんです」
そこで一度、言葉が止まった。
エクラちゃんの目が、少し遠くを見るようになる。
きっと、競駆場の景色を思い出していたのだと思う。
観客席。
ターフ。
ゲート。
そして、走る兄。
「……本当に、すごいレースでした」
さっきまでより少しだけ声が小さくなった。
でも、その分だけ熱があった。
「ベルアマードさん、とっても素敵でした」
その時のエクラちゃんの目を、私は今でも覚えている。
雨の日に初めて出会った時の明るさとも違う。
風杜の中を探検している時の、楽しそうな顔とも違う。
何かを見つけた目だった。
自分の中に、大切なものを見つけてしまった子の目。
私はその横顔を見ていた。
兄が褒められている。
エクラちゃんが兄を「すごい」と言ってくれている。
少し嬉しかった。
誇らしかった。
けれど、ほんの少しだけ不思議な感じもした。
エクラちゃんは私の友達だった。
私を見つけてくれた子。
私の手を引いてくれる子。
でもその時、エクラちゃんの視線は私ではなく、兄の方を向いていた。
まだ幼かった私は、その感覚に名前をつけられなかった。
寂しい、とも少し違う。
悔しい、とも違う。
ただ、エクラちゃんの目の中に、自分の知らない光があることだけは分かった。
そして、その光を灯したのが兄の走りだった。
「そんなにすごかったの?」
私が聞くと、エクラちゃんは迷わず頷いた。
「はい!」
「前へ出て、ずっと先頭で、誰にも抜かせないみたいに走っていて……すごかったです。見ていて胸がどきどきしました」
エクラちゃんは少し頬を赤くした。
「私、また見たいです。ベルアマードさんのレース」
その言葉を聞いて、私は兄のことを思い出した。
私に構わず、風を受けながらグラウンドを前へ前へと走っていた兄。
私は何度も見てきた。
でもエクラちゃんは、あの走りを競駆場で見た。
そして、こんなにも目を輝かせている。
その時、私は初めて少しだけ思った。
走るということは、誰かをこんな顔にするものなのだと。
兄がどうしてあれほど走ることに夢中になるのか。
私が思っているより、ずっと大きな何かがそこにはあるのかもしれない。
まだ、競駆に憧れたわけではなかった。
私も走りたいと思ったわけでもない。
ただ。
兄の走りを語るエクラちゃんの声と、その目の輝きが気になった。
そして、ほんの少しだけ羨ましかった。
私の知らない兄を、エクラちゃんが知っている。
その小さな引っかかりが、後になってもっと大きなものへ変わっていくことを、その時の私はまだ知らなかった。
その日の夕方。
兄はいつものように、風杜のグラウンドを走っていた。
私はエクラちゃんと並んで、少し離れたところからその姿を見ていた。
兄は前だけを見ている。
足が土を蹴り、身体が前へ進む。
それまで何度も見てきた光景だった。
でも、エクラちゃんと一緒に見ると、少し違って見えた。
「やっぱり、すごいです」
隣でエクラちゃんが小さく呟いた。
兄には届かない声だった。
でも私には、はっきり聞こえた。
私は兄の背中を見た。
ずっと、遠くへ行ってしまうものだと思っていた背中。
けれど、その背中は誰かにとって、追いかけたいほど眩しいものになるのかもしれない。
その時の私には、まだよく分からなかった。
ただ、夕方の風の中を走る兄と、その兄を目を輝かせて見つめるエクラちゃんの横顔を、私はしばらく忘れられなかった。




