邂逅
私が一歳になる頃、風杜はそれまでより少し騒がしくなっていた。
もちろん、それまでも静まり返っていたわけではない。
廊下を走る足音。
食堂から聞こえる笑い声。
グラウンドから響く掛け声。
子供たちの声はいつもあった。
けれど、それは全部、私が知っている風杜の音だった。
誰かがいて、誰かが帰ってきて、誰かが自分と話している。
聞き慣れた、怖くない音。
その頃から、そこへ知らない音が混ざるようになった。
固い靴で廊下を歩く足音。
外から資材を運び込む音。
グラウンドへ置かれた、見たこともない器具。
風に揺れて小さく鳴る何かの音。
知らない大人たちも、何人も風杜へ出入りするようになった。
その人たちは、お母さんやお父さんと長い時間話していた。
翠子さんも忙しそうに風杜の中を行き来している。
グラウンドでは、大きな器具を持った人たちが距離を測り、地面へ印をつけ、紙へ数字を書き込んでいた。
その時の私には、何をしているのか分からなかった。
ただ、知っているはずの風杜が少しずつ知らない場所へ変わっていくようで、怖かったのだと思う。
知らない人が近くを通るたび、私は兄の後ろへ隠れた。
兄は何も言わなかった。
「怖いのか」と聞いてくるわけでもない。
「大丈夫だ」と笑ってくれるわけでもない。
私が背中に隠れ、服を握ると、ほんの少しだけ歩みを止めてくれる。
それだけだった。
前を向いたまま、知らない大人たちが通り過ぎるまで動かない。
当時の私には、それで十分だった。
兄の後ろにいれば、知らない人も、知らない音も少しだけ遠くなる。
兄の背中は、私にとって小さな壁であり、一番安心できる場所だった。
やがて、風杜は正式に寮として認められた。
当時の私は、それがどれほど大きな変化なのか分かっていなかった。
今なら分かる。
保護施設だった風杜が、競駆を目指す駆人の寮となり、ただ誰かを守る場所から、走る者たちを外の世界へ送り出す場所へと変わろうとしていたのだ。
風杜そのものが、新しい役割を持ち始めていた。
そして兄は、二歳の誕生日を迎えたすぐ後に風杜へ入寮した。
入寮といっても、兄がどこか遠くへ行くわけではない。
朝起きれば風杜にいる。
食堂へ行けば姿を見かける。
廊下ですれ違うこともあるし、グラウンドへ行けば走っている姿も見える。
同じ風杜にいて、同じ屋根の下で暮らしている。
だから、何も変わらないはずだった。
けれど、少しずつ変わっていった。
兄の一日が、競駆を中心に組み替えられていった。
朝から身体を動かし、グラウンドを走る。
外へ出て長い距離を走り、戻ってきても別の練習がある。
以前より、兄がどこにいるのか分からない時間が増えた。
部屋にいない。
食堂にもいない。
廊下を探しても見つからない。
探して、探して、ようやく見つけると、兄はたいていグラウンドの向こう側にいた。
風を受けながら、ただ前だけを見て走っている。
私に構ってくれる時間も、明らかに減った。
前なら兄のそばへ行けば、何も言わなくてもそこにいさせてくれた。
後ろから抱きつけば、不器用に頭を撫でてくれた。
危ない場所へ行こうとすれば、すぐに止めてくれた。
でも、その頃の兄は競駆の練習に夢中だった。
私が近づこうとしても、お母さんや翠子さんに止められる。
「今は練習中だからね」
「危ないから、こっちで見ていようね」
私は遠くから兄を見るしかなかった。
まだ小さくても、兄は速かった。
誰よりも前へ行こうとしていた。
そして、その背中は少しずつ、私の手が届かないものになっていった。
そんな頃だった。
私は、あの子と出会った。
この先、一番の親友になり。
一番羨ましい相手になり。
一番妬ましい相手になり。
そして、一番負けたくない相手になる女の子。
あの子と初めて会った日のことを、私は今でも覚えている。
春が過ぎ、雨の季節が来ていた。
その日は朝から雨が降っていた。
細い雨ではない。
窓を叩くほどの、しっかりとした雨だった。
グラウンドの土は水を含んで黒くなり、あちこちに水たまりができている。
木々の葉からは雫が落ち続け、風杜全体が湿った匂いに包まれていた。
外へ出ることもできず、私は風杜の中で暇を持て余していた。
兄は練習だったのか、勉強だったのか。
少なくとも、その時は私のそばにはいなかった。
お母さんも翠子さんも忙しそうで、誰も相手をしてくれない。
私は一人で廊下を歩いていた。
窓から外を眺める。
床の木目を数える。
壁に掛けられた写真を見る。
食堂の方を覗く。
誰かの声が聞こえれば、そちらへ行ってみる。
それでも、退屈だった。
その時だった。
「フレアー、いる?」
お母さんの声がした。
私はすぐに顔を上げた。
声のする方へ向かい、廊下を曲がって広間の入口まで行く。
そこに、お母さんが立っていた。
そして、その隣に。
見知らぬ女の子がいた。
私と同じくらいの背丈だったと思う。
なのに、どこか違って見えた。
綺麗だった。
子供に対してそんな言い方をするのは変かもしれないけれど、その時の私は本当にそう思った。
整った顔立ち。
艶のある黒い髪。
まっすぐこちらを見る瞳。
少しも怯えていないような表情。
雨の日の風杜には少し不釣り合いなくらい、おしゃれで綺麗な服を着ていた。
初めて来た場所のはずなのに、その子は堂々としていた。
私は思わず見惚れていた。
お母さんが私を見る。
「フレア、この子ね。今日から少しの間、うちで預かることになったの。名前は――」
お母さんが説明しようとした。
けれど、その子の方が先だった。
私へ一歩近づいてきた。
知らない人が怖かった頃の私にとって、その一歩は大きかった。
思わず身体が固くなる。
でも、その子はまったく迷わなかった。
私の前で止まり、背筋を伸ばす。
そして、はっきりとした声で言った。
「わたし、エクラディーヌです。よろしくお願いします」
雨音の中でも、その声はまっすぐ私へ届いた。
私は驚いた。
さっきまで見惚れていた女の子が突然話しかけてきたことにも。
あまりにも綺麗に挨拶されたことにも。
慌てて口を開いた。
「ベルフレア。わたし、ベルフレア……です」
最後の「です」は、少し遅れて付け足した。
きっと声も小さかったと思う。
人見知りだった私は、自分の名前を言うだけで精一杯だった。
そんな私を見て、その子はほんの少しだけ微笑んだ。
馬鹿にするような笑いではなかった。
面白がっているわけでもない。
ただ、私を安心させるような柔らかい笑顔だった。
「ふふっ。じゃあ、フレアちゃんですね。よろしくお願いします」
そう言って、その子――エクラディーヌは私へ手を差し出した。
小さな手だった。
けれど、私よりずっと迷いがなかった。
私はその手を見た。
それから、お母さんを見る。
お母さんは何も言わず、ただ微笑んでいた。
自分で決めなさい。
そう言われているような気がした。
もう一度、差し出された手を見る。
そして、ゆっくりと握った。
エクラディーヌの手は温かかった。
外が雨で冷えていたから、余計にそう感じたのかもしれない。
それでも、その温かさだけは今でもはっきり覚えている。
手を握ったまま、私は少し迷った。
それから勇気を振り絞って口を開いた。
「わ、私も……エクラちゃんって呼んでもいい?」
言ってから、急に恥ずかしくなった。
会ったばかりなのに。
いきなりそんな呼び方をして、嫌がられたらどうしよう。
けれど次の瞬間、エクラちゃんの顔がぱっと明るくなった。
「もちろんです! 私、嬉しいです!」
そう言うなり、彼女は私を抱きしめた。
私は固まった。
手を握るところまでは、どうにか頑張ったつもりだった。
でも、会ったばかりの子に抱きしめられるなんて思っていなかった。
どうすればいいのか分からず、お母さんを見る。
助けてほしかったのだと思う。
けれど、お母さんはやっぱり微笑んでいるだけだった。
私は諦めた。
恐る恐る、エクラちゃんの背中へ腕を回す。
すると、エクラちゃんはさらに嬉しそうに笑った。
雨の日の薄暗い広間の中で、その笑顔だけがひときわ明るく見えた。
その時の私は、まだ何も知らなかった。
この子が、私にとって一番の親友になることを。
私より先に何かを見つけて、何度も眩しい場所へ行ってしまうことを。
やがて私の前へ立ちはだかり。
羨んで。
妬んで。
嫌いになりたくないのに、憎いとさえ思ってしまうような相手になることを。
知るはずもなかった。
あの日のエクラちゃんは、ただ温かかった。
兄の背中が少しずつ遠くなっていた私を、初めて自分から見つけて、手を伸ばしてくれた子だった。
――少し前
「ベルフレアさん、エクラディーヌさんとは昔からの仲だそうですが、今日のレースにはどんな思いを持っていますか?」
マイクを向けられた瞬間、私は答えに詰まった。
五月の陽気は、少し暑いくらいだった。
空は高く、競駆場にはペイナイト賞を待つ人々の熱が満ち始めている。
記者たちの声。
カメラの向こうから向けられる視線。
遠くから聞こえる、自分の名前を呼ぶ小さな声。
その全部が肌にまとわりついていた。
控室へ向かう前、私はインタビューを受けていた。
エクラちゃん。
マイクを向けられ、その名前を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。
いつものように、そう呼びそうになった。
私は唇を噛んだ。
「エクラちゃ……エクラディーヌさんとは、昔から仲が良いです」
声は少し震えていたかもしれない。
けれど、次の言葉ははっきり出た。
「ただ、今日は絶対に負けない」
胸の奥に溜まっていたものが、喉元までせり上がってくる。
悔しさ。
寂しさ。
怒り。
羨望。
そして、自分でもどうしようもないほどの執着。
全部が混ざって、言葉になった。
「私は負けない。あんな女に」
周囲の空気がわずかに揺れた。
誰かが息を呑み、記者が驚いた顔をする。
私はもう何も言わなかった。
踵を返し、控室へ向かう。
五月の陽射しが背中を照らしていた。
暑い。
けれど、胸の中はそれ以上に熱かった。
それでも私は覚えている。
雨の風杜で初めて握った、あの日の手の温かさを。
だからこそ。
今日、私はあの子に勝たなければならなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
明日からは毎日20:10に1話ずつ更新します。
次回、第4話「親友」




