背中
生まれてからしばらくして、私はお母さんと一緒に風杜へ帰った。
もちろん、その頃の記憶もほとんどない。
お母さんに抱かれて風杜の門をくぐったことも、翠子さんがどんな顔で迎えてくれたのかも、兄が私を見てどんな反応をしたのかも覚えていない。
後になって聞いた話によれば、私はかなり活発な子供だったらしい。
寝かせてもすぐに手足を動かし、少し目を離せば布団の上でいつの間にか向きが変わっている。
歩けるようになってからは、もっとひどかった。
足元もまだおぼつかないくせに、風杜の中をあちこち歩き回る。
廊下の奥へ行こうとする。
階段を覗き込む。
外へ続く扉を見つければ、迷わずそちらへ向かう。
「あなた、小さい頃から本当に目が離せなかったのよ」
その頃の話をすると、お母さんは今でも呆れたように言う。
翠子さんも決まって笑う。
「ほんの少し目を離しただけで、もう違う場所にいるんだから。あの頃は大変だったわ」
自分では覚えていないことなのに、そう言われると少し恥ずかしい。
今の私まで落ち着きがないと言われているような気がするからだ。
けれど、その話にはいつも続きがあった。
私が危ない場所へ近づこうとすると、兄がすぐにやって来たという。
階段の前。
玄関の段差。
開け放たれた扉。
グラウンドへ続く道。
私がそちらへ向かおうとするたび、どこからともなく現れて、私の前に立った。
もちろん、兄だってまだ幼かった。
私より少し大きくて、少しだけ世界のことを知っている。
それだけの子供だった。
優しく抱き上げるのが得意だったわけではない。
笑ってあやしてくれるわけでもない。
言葉で注意するのも、たぶん上手ではなかった。
ただ黙って、私の行く手を塞ぐ。
それでも進もうとすれば、小さな手で私の服を掴んで止める。
それでも駄目なら、困った顔をしてお母さんや翠子さんを呼ぶ。
そんな兄だったらしい。
はっきりした記憶ではない。
それでも、不思議とその感覚だけはどこかに残っている気がする。
今の兄のような、大きな背中ではない。
ターフの先頭を駆け抜ける背中でもない。
それでも、私と危ないものの間には、いつも兄がいた。
前に立ってくれる背中だった。
兄は、優しい言葉をたくさんくれる人ではなかった。
私を見るたび笑顔で抱きしめるわけでもない。
歌を歌ってくれることも、大げさに可愛がってくれることもない。
無口で、不器用で、何を考えているのか分からないことも多かった。
それでも。
優しかった。
それだけは、たぶん幼い私にも分かっていた。
だから私は、兄のことが好きだった。
お母さんや翠子さんよりも、と言ったら二人には怒られるかもしれない。
それでも幼い私は、何かにつけて兄のそばへ行きたがったらしい。
兄が床に座っていれば、その隣へ。
何かを見ていれば、後ろから近づいていく。
兄が立ち上がれば、自分もついていこうとする。
一度、後ろから兄の背中へしがみついたことがあったという。
急に抱きつかれた兄は、少しだけ身体を跳ねさせて振り向いた。
何も分かっていない私は、ただ兄を見上げていた。
兄は困ったように眉を寄せた。
それから少し迷って、私の頭へ手を置いた。
撫でるというには、ぎこちない。
ただ触れているというには、少しだけ長い。
そんな不器用な手だった。
それでも私は満足したらしい。
その話をする時、翠子さんは今でも少し楽しそうに笑う。
「アマードは、あの頃からフレアには甘かったのよ。本人は絶対に認めないでしょうけど」
兄に聞いても、たぶん否定する。
覚えていないと言うかもしれないし、そんなことはしていないと適当に流すかもしれない。
でも私は知っている。
少なくとも、幼い頃の私はそう信じていた。
兄は、いつも私を見ていてくれた。
兄のそばにいれば安心できた。
兄が前にいれば、どこへでも行ける気がした。
その頃の私は、競駆のことなんて何も知らなかった。
走ることも。
勝負することも。
ターフに立つことも。
ただ、兄の後ろについて歩くことが好きだった。
けれど、兄は少しずつ私の知らないものへ向かい始めた。
走ることだった。
部屋にいる時、兄はよくテレビで競駆を見ていた。
画面の中では、駆人たちがターフを駆けている。
観客席が揺れ、実況が声を張り上げ、ゴール前では何人もの駆人が身体を伸ばす。
兄はそれを、じっと見ていた。
子供らしく騒ぐことはない。
ただ、食い入るように画面を見つめる。
特に、先頭を走る駆人が映ると、兄の目は変わった。
普段は少し不機嫌そうに見える顔が、その時だけ明るくなる。
画面の中の駆人が前へ出れば、兄の身体までわずかに前へ傾く。
当時の私は、それが面白くなかった。
遊んでほしかったのだと思う。
兄の袖を引っ張ったこともある。
顔を覗き込んだこともある。
足にしがみついたこともあったらしい。
それでも兄は、少しだけ私を見ると、すぐにテレビへ視線を戻した。
きっと私は不満だった。
私より、画面の中の知らない駆人の方が大事なのかと思ったのかもしれない。
そんな気持ちを言葉にできる年齢ではなかったけれど。
レースが終わると、今度は外へ行く。
風杜のグラウンドへ。
私は危ないからと、お母さんや翠子さんに抱かれながら、その姿を見ることが多かった。
グラウンドの土は、季節によって色を変えた。
春には柔らかい匂いがして、夏には熱を含み、秋には風が抜け、冬には冷たく固まる。
兄は、その上を走った。
まだ小さな身体だった。
今のような力強さもなければ、完成されたフォームもない。
けれど、勢いだけはあった。
前へ。
前へ。
とにかく前へ。
誰かと競っているわけでもない。
決められた練習をしているわけでもない。
お母さんに言われた通りに走っているわけでもない。
ただ走り出すと、止まらなかった。
風を受ける方へ。
誰もいない方へ。
まっすぐ前へ行く。
その姿を見て、お母さんは少し困ったように笑った。
「本当に父さんに似たわね」
翠子さんも、私を抱き直しながら言う。
「また飛ばしてるわね、アマード」
呆れているようで、その声はどこか楽しそうだった。
私はお母さんの腕の中から、そんな兄を見ていた。
風に揺れる茶色い髪。
土を蹴る足。
まっすぐ前だけを見る顔。
今なら分かる。
その頃から、兄の走りは兄のものだった。
誰かに命じられたからでもない。
誰かを真似していたわけでもない。
ただ、前へ行きたいから前へ行く。
その単純さは、ずっと兄の中にあった。
でも、その時の私には分からなかった。
格好いいとも、まだあまり思っていなかった。
ターフも、歓声も、勝負も、私には遠い世界だった。
それよりも。
兄が走っている間、私に構ってくれない。
そのことの方が、ずっと大きかった。
テレビを見ている時も。
グラウンドを走っている時も。
お母さんや翠子さんに止められるまで、兄は私の方へ戻ってこない。
私は、それが嫌だった。
兄を取られてしまったような気がした。
まだ名前も知らなかった世界に。
走ることに。
競駆に。
兄が少しずつ連れていかれてしまう。
もしかすると、あの頃の私は走ることが嫌いだったのかもしれない。
走る兄を見るのは好きだった。
でも、兄が走っている間は私を見てくれない。
幼い私は、その二つの気持ちをうまく扱えなかった。
一度、お母さんに抱かれながら、走る兄へ手を伸ばしたことがあったという。
兄は気づかなかった。
風を受けながら、前だけを見て走っていた。
その背中を見つめたまま、私は小さく唇を尖らせた。
翠子さんが笑った。
「フレア、アマードを取られちゃったみたいで悔しいのね」
その言葉の意味を、当時の私は分からなかった。
でも今なら、少しだけ分かる。
私は最初から、兄の背中を見ていた。
憧れとしてではなく。
目標としてでもなく。
ただ、自分から少しずつ遠くへ行ってしまうものとして。
何も知らないまま。
お母さんの腕の中から、私は走る兄の背中を見つめていた。
本日20:10、第3話「邂逅」を公開します。




