誕生
ペイナイト賞当日。
控室の外から、競駆場のざわめきがかすかに聞こえていた。
もうすぐ私は、エクラちゃんと同じターフに立つ。
幼い頃からずっと一緒だった、一番大切な親友。
それなのに今の私は、その子にどうしても勝ちたいと思っている。
負けたくない。
今日だけは、絶対に。
靴紐へ伸ばした指を止めると、ふいに昔の光景が浮かんだ。
ここまで来る間に、いくつのことがあったのだろう。
兄のこと。
エクラちゃんのこと。
走ること。
そして、自分自身のこと。
思い返せば、その始まりにはいつも兄の背中があった。
――ベルアマードが歴史を創った!
今でも耳の奥に焼きついて離れない、その声。
冬へ傾き始めた空の高い青。その下で、富士国立競駆場を揺らすほどの歓声が響いていた。
兄はゴール板を駆け抜けた。
『史上初! 三歳日本駆人によるジャパントロフィー制覇! 伝説の女王アマルティアが切り拓いた道の先で、その子ベルアマードが新たな歴史を刻みました!』
歓声にかき消されそうになりながらも、実況の声は確かに届いていた。
隣では、エクラちゃんが泣いていた。
両手で口元を押さえ、肩を震わせながら、それでも視線だけは決してターフから逸らさない。
涙に濡れた瞳は、ゴールの先で息を整える兄だけをまっすぐに見つめていた。
私も泣いていた。
どうして涙が出たのか、その時の私はうまく言葉にできなかった。
兄が勝ったから。
誇らしかったから。
エクラちゃんがずっと信じていた兄の走りが、世界に届いたから。
たぶん、その全部だったのだと思う。
エクラちゃんが抱きついてきて、私もその背中へ腕を回した。
二人で泣きながら、何度も兄の名前を呼んだ。
あの時の私は、ただ嬉しかった。
兄は歴史を創った。
世界を変えた。
誰よりも前で、誰よりも自由に走った。
その姿は、あまりにも眩しかった。
目を逸らすことなんてできなかった。
そして、あの瞬間だった。
私が初めて、本気で競駆をやりたいと思ったのは。
お兄ちゃんのように走りたい。
見てもらいたい。
私自身の走りで、誰かの心を震わせたい。
無邪気に、そんなことを思った。
私にも、あの場所へ辿り着けるのだと信じた。
けれど、その夢は決して優しいだけのものではなかった。
前へ出るということは、誰よりも強い風を受けるということだった。
誰よりも先へ行くということは、時に一人になるということだった。
そして、誰かに見てもらいたいと願うことは。
見てもらえない痛みを知ることでもあった。
それを知るのは、もう少し先の話になる。
これは、ベルアマードの妹でもない。
アマルティアとウインドベルの娘でもない。
ベルフレアという一人の女駆が、自分自身の走りを見つけるまでの物語だ。
その始まりは、私がまだ何も知らなかった頃まで遡る。
私が生まれた日は、まだ冬だった。
春は近づいていたが、風杜の外を吹く風は、それを拒むように冷たかったという。
窓の外では葉を落とした木々が細い枝を揺らし、淡い灰色の空から届く光も弱々しい。
庭の端には、解けきらない雪が白く残っていた。
そんな日に、私は生まれた。
伝説の女王アマルティアと同じ、栗毛の髪を持って。
当然ながら、その日の記憶は私にはない。
冷たい風の感触も。
窓の外に残っていた雪の白さも。
お母さんがどんな顔で私を抱いていたのかも。
兄が初めて私を見た時、何を思ったのかも。
すべて、後から聞いた話だ。
それでも何度も聞かされるうちに、その日の景色はいつしか、自分の記憶のような輪郭を持つようになった。
白い部屋に、冬の光が柔らかく差し込んでいる。
ベッドから身体を起こしたお母さんの腕には、生まれたばかりの私がいる。
そのすぐ近くには、兄が立っていた。
「アマード、ほら」
出産から少し時間が経って、翠子さんに連れられて来たらしい。
その頃の兄は、まだ一歳だった。
今の私が知っているベルアマードとはまるで違う。
ターフの最前を駆け抜ける駆人でもない。
強がりで、反抗的で、何を考えているのか分からない兄でもない。
ただ、自分より小さな赤ん坊をどう扱えばいいのか分からない、幼い子供だった。
お母さんは腕の中の私を少しだけ見せるようにした。
「妹よ。あなた、お兄ちゃんになったの」
兄は何も言わなかった。
ただ、じっと私を見ていたという。
小さな手。
栗毛の髪。
眠っているのか起きているのかも分からないような顔。
まだ世界のことを何一つ知らない、小さな命。
その頃の兄が「家族」や「妹」という言葉の意味を、どこまで理解していたのかは分からない。
ただ、自分の前に新しい存在が現れたことだけは、きっと感じていた。
後になって、翠子さんはその時のことをよく笑いながら話してくれた。
「本当に真剣な顔をしてたのよ、あの時のアマード。まるで大事な勝負を見ているみたいに」
お母さんも似たことを言っていた。
「しばらくあなたから目を離さなかったの。何を考えていたのかは分からないけどね」
その話を聞くたび、私は想像する。
一歳の兄が、生まれたばかりの私を見つめている姿を。
まだ何も背負っていない兄。
お父さんのように走ることも。
お母さんを超えることも。
期待の重さも、敗北の痛みも。
世界を変えるほどの歓声も、まだ何一つ知らない。
ただ、小さな妹を見ている。
守らなければと思ったのか。
ただ不思議なものを見るように眺めていただけなのか。
それとも本当に、何も考えていなかったのか。
今の兄に聞いても、
「覚えてない」
きっと、それだけで終わるだろう。
それでも私にとっては、かけがえのない始まりだった。
ベルアマードの妹になった日。
アマルティアとウインドベルの娘として、この世界に生まれた日。
そして。
その小さな栗毛の女の子が、いつか憧れ、羨み、妬み、傷つきながら、自分だけの走りを探すことになるなんて。
その時は、まだ誰も知らなかった。
部屋の外では、冷たい風が吹いていた。
春は、まだ遠かった。
本日12:10に第2話「背中」、20:10に第3話「邂逅」を公開します。




