↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/20

誕生

ペイナイト賞当日。


控室の外から、競駆場のざわめきがかすかに聞こえていた。


もうすぐ私は、エクラちゃんと同じターフに立つ。


幼い頃からずっと一緒だった、一番大切な親友。


それなのに今の私は、その子にどうしても勝ちたいと思っている。


負けたくない。


今日だけは、絶対に。


靴紐へ伸ばした指を止めると、ふいに昔の光景が浮かんだ。


ここまで来る間に、いくつのことがあったのだろう。


兄のこと。


エクラちゃんのこと。


走ること。


そして、自分自身のこと。


思い返せば、その始まりにはいつも兄の背中があった。


 


――ベルアマードが歴史を創った!


今でも耳の奥に焼きついて離れない、その声。


冬へ傾き始めた空の高い青。その下で、富士国立競駆場を揺らすほどの歓声が響いていた。


兄はゴール板を駆け抜けた。


『史上初! 三歳日本駆人によるジャパントロフィー制覇! 伝説の女王アマルティアが切り拓いた道の先で、その子ベルアマードが新たな歴史を刻みました!』


歓声にかき消されそうになりながらも、実況の声は確かに届いていた。


隣では、エクラちゃんが泣いていた。


両手で口元を押さえ、肩を震わせながら、それでも視線だけは決してターフから逸らさない。


涙に濡れた瞳は、ゴールの先で息を整える兄だけをまっすぐに見つめていた。


私も泣いていた。


どうして涙が出たのか、その時の私はうまく言葉にできなかった。


兄が勝ったから。


誇らしかったから。


エクラちゃんがずっと信じていた兄の走りが、世界に届いたから。


たぶん、その全部だったのだと思う。


エクラちゃんが抱きついてきて、私もその背中へ腕を回した。


二人で泣きながら、何度も兄の名前を呼んだ。


あの時の私は、ただ嬉しかった。


兄は歴史を創った。


世界を変えた。


誰よりも前で、誰よりも自由に走った。


その姿は、あまりにも眩しかった。


目を逸らすことなんてできなかった。


そして、あの瞬間だった。


私が初めて、本気で競駆をやりたいと思ったのは。


お兄ちゃんのように走りたい。


見てもらいたい。


私自身の走りで、誰かの心を震わせたい。


無邪気に、そんなことを思った。


私にも、あの場所へ辿り着けるのだと信じた。


けれど、その夢は決して優しいだけのものではなかった。


前へ出るということは、誰よりも強い風を受けるということだった。


誰よりも先へ行くということは、時に一人になるということだった。


そして、誰かに見てもらいたいと願うことは。


見てもらえない痛みを知ることでもあった。


それを知るのは、もう少し先の話になる。


これは、ベルアマードの妹でもない。


アマルティアとウインドベルの娘でもない。


ベルフレアという一人の女駆が、自分自身の走りを見つけるまでの物語だ。


その始まりは、私がまだ何も知らなかった頃まで遡る。


 


私が生まれた日は、まだ冬だった。


春は近づいていたが、風杜の外を吹く風は、それを拒むように冷たかったという。


窓の外では葉を落とした木々が細い枝を揺らし、淡い灰色の空から届く光も弱々しい。


庭の端には、解けきらない雪が白く残っていた。


そんな日に、私は生まれた。


伝説の女王アマルティアと同じ、栗毛の髪を持って。


当然ながら、その日の記憶は私にはない。


冷たい風の感触も。


窓の外に残っていた雪の白さも。


お母さんがどんな顔で私を抱いていたのかも。


兄が初めて私を見た時、何を思ったのかも。


すべて、後から聞いた話だ。


それでも何度も聞かされるうちに、その日の景色はいつしか、自分の記憶のような輪郭を持つようになった。


白い部屋に、冬の光が柔らかく差し込んでいる。


ベッドから身体を起こしたお母さんの腕には、生まれたばかりの私がいる。


そのすぐ近くには、兄が立っていた。


「アマード、ほら」


出産から少し時間が経って、翠子さんに連れられて来たらしい。


その頃の兄は、まだ一歳だった。


今の私が知っているベルアマードとはまるで違う。


ターフの最前を駆け抜ける駆人でもない。


強がりで、反抗的で、何を考えているのか分からない兄でもない。


ただ、自分より小さな赤ん坊をどう扱えばいいのか分からない、幼い子供だった。


お母さんは腕の中の私を少しだけ見せるようにした。


「妹よ。あなた、お兄ちゃんになったの」


兄は何も言わなかった。


ただ、じっと私を見ていたという。


小さな手。


栗毛の髪。


眠っているのか起きているのかも分からないような顔。


まだ世界のことを何一つ知らない、小さな命。


その頃の兄が「家族」や「妹」という言葉の意味を、どこまで理解していたのかは分からない。


ただ、自分の前に新しい存在が現れたことだけは、きっと感じていた。


後になって、翠子さんはその時のことをよく笑いながら話してくれた。


「本当に真剣な顔をしてたのよ、あの時のアマード。まるで大事な勝負を見ているみたいに」


お母さんも似たことを言っていた。


「しばらくあなたから目を離さなかったの。何を考えていたのかは分からないけどね」


その話を聞くたび、私は想像する。


一歳の兄が、生まれたばかりの私を見つめている姿を。


まだ何も背負っていない兄。


お父さんのように走ることも。


お母さんを超えることも。


期待の重さも、敗北の痛みも。


世界を変えるほどの歓声も、まだ何一つ知らない。


ただ、小さな妹を見ている。


守らなければと思ったのか。


ただ不思議なものを見るように眺めていただけなのか。


それとも本当に、何も考えていなかったのか。


今の兄に聞いても、


「覚えてない」


きっと、それだけで終わるだろう。


それでも私にとっては、かけがえのない始まりだった。


ベルアマードの妹になった日。


アマルティアとウインドベルの娘として、この世界に生まれた日。


そして。


その小さな栗毛の女の子が、いつか憧れ、羨み、妬み、傷つきながら、自分だけの走りを探すことになるなんて。


その時は、まだ誰も知らなかった。


部屋の外では、冷たい風が吹いていた。


春は、まだ遠かった。

本日12:10に第2話「背中」、20:10に第3話「邂逅」を公開します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。