第2話「温かな食卓」
「――春菜ちゃ〜ん! 本当に、本当に大変だったねぇッ!」
ムラクモ本部の休憩室。重厚な電子ロックの扉が開くや否や、キャリーケースを放り出した人影が、猛烈な勢いで春菜へと飛びついた。
海外での長期栄養管理研修から帰還したばかりの、森野あかりである。
「ちょっ……あかり! 苦しい、離しなさいよ!」
「だってぇ! 私がいない間に春菜ちゃんがボロボロになったり……もう、心配で生きた心地がしなかったんだから!」
本気で涙ぐみながら抱きついてくるあかりに、春菜は呆れつつも、その口元には隠しきれない柔らかな笑みが零れていた。
森野あかり。
騒がしくも心優しい彼女の存在は、血生臭いムラクモにおいて数少ない陽だまりである。
ひとしきり春菜をハグした後、あかりは部屋の隅で目をパチクリとさせている少年に気づいた。
「あ! あなたが圭くんね! 噂は聞いてるよ。これからよろしくね!」
「……? 噂……」
「そう! 春菜ちゃんを助けてくれた、すっごい男の子だって! ……よし、出張帰りで疲れてるけど、今日は特別に私が腕を振るっちゃうからね!」
実家が食堂である彼女の眼差しに、料理人としての誇りが燃え上がる。
あかりは手際よくコンロに火をつけ、持参した出張先の珍しい食材と、馴染みのある出汁の香りを部屋中に充満させた。
腕まくりをして全員分の料理を作ろうと意気込むあかりを前に、春菜は苦笑して手を振った。
「あたしは、今はいいかな……。そんなにお腹空いてないし……」
モニター越しにその様子を眺めていた医療担当の福留が、いつものようにマニアックな映画雑学を交えて茶々を入れる。
「春菜、食事は生命の根源よ。こないだ観たアマゾンの奥地で人喰いヒルと死闘を繰り広げるパニック映画でもね、主人公たちは泥水と虫を啜りながら……」
「……未来さん。食事の前に、そのおぞましい映画の雑学を語るのやめてくれない?」
「あら、サバイバルの基本よ? ヒルの粘液には特有の……」
止まらない福留の早口。
だが、その騒がしさこそが、彼女が命を懸けて守り抜いた帰る場所の証明であった。
やがて、休憩室に漂う出汁の優しい香りが、すべての喧騒を包み込んだ。
テーブルに並べられたのは、森野特製の温かなうどんと、見事に焼き上げられた魚料理。 そして、彼女の故郷である徳島県産のスダチが美しく添えられている。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ!」
促されるまま、圭が恐る恐るうどんを口へ運ぶ。
感情も、空腹の感覚すらも持たなかった少年。
だが、温かな湯気と共に広がる優しい味わいが、彼の凍りついた味覚と心を、確かに溶かしていった。
「……あたたかい」
圭の黄緑色の瞳が、微かに見開かれる。
「これ……美味しい」
それは、少年がこの世界で初めて明確に示した感情の萌芽であった。
その素直な言葉に、あかりは花が咲いたように笑い、福留も満足げに頷く。
春菜は安堵の息を吐きながらも、すぐさま小姑のように口を尖らせた。
「……ちょっとあかり。美味しいのは認めるけど、育ち盛りの子には少しタンパク質が足りないんじゃない? 栄養バランスはもっとしっかり計算しなさいよ」
「ええ〜、厳しいなぁ春菜ちゃんは!うどんにこだわりのある山本さんがいない今だからこそ作ったのに~」
笑い声が弾ける。
復讐の戦鬼は、今やただの面倒見の良い姉へと戻っていた。
だが。
運命は、少女に平穏な日常を長くは許さない。
「――緊急警報ッ! 市街地D4区画にデリーパーの大群が出現!」
突如として鳴り響いた立浪の緊迫した声が、温かな空気を一瞬にして凍てつかせた。
春菜の表情から姉の顔が消え、冷徹なエージェントの顔へと切り替わる。
「圭。……行くわよ」
「うん。……おねえちゃん」
二人の魂が交差する。立ち上る極光。顕現する白銀の装甲。
舞台は再び、血と硝煙の戦場へと移されたッ!
現場は地獄絵図だった。
だが、今の春菜にはそれを一瞬で終わらせる力がある。
「光の翼」を展開し、重力を無視して空を舞う白銀の影。
彼女が右手の剣を振るうたび、黄金の断層が空間を切り裂き、デリーパーの群れは断末魔すら上げられずに塵へと還っていく。
圧倒的、かつ無慈悲なまでの蹂躙。
傷一つ負うことなく、春菜は数分で全ての敵を掃討し、基地へと帰還した。
しかし。
勝利の余韻に浸る間もなく、春菜は指令室へと呼び出される。
そこには立浪司令、技術・医療担当の福留、そして心理士の天野が、これまで見たこともないような深刻な面持ちで待っていた。
「……司令? 何か不手際でも?」
春菜の問いに、最初に答えたのは福留だった。彼はモニターに映し出された、先ほどと序章の戦闘データを指し示す。
「藤浦。……この武装は、確かに最強の盾であり、矛だ。だがな、エネルギーの変換効率が物理法則を完全に無視している。……君のバイタルデータを精査した結果、ある事実が判明した」
天野が、痛ましそうに言葉を継ぐ。
「春菜ちゃん。あの装甲を纏っている間、貴方の肉体は極限まで活性化され、同時に恐ろしい速度で消耗しているの。心拍数、脳波、そして細胞の代謝スピード……。計算上、貴方の肉体が維持できる限界時間は、たった15分。それが絶対の壁よ」
「15分……?」
「そうだ」
立浪司令が、地を這うような重低音で宣告した。
「15分を1秒でも超えれば、その光のエネルギーはお前の命そのものを燃料として焼き尽くす。……これは神が授けた力などではない。お前の命を削って奇跡を起こす、呪われた兵器だ」
静まり返る指令室。無敵の力に隠された、残酷な枷。
15分という命のタイムリミットが、春菜の肩に重くのしかかった。
その頃、崩壊した市街地の地下深く。
湿った空気と電子機器の作動音だけが響く薄暗いアジトで、二つの影がモニターを見つめていた。
画面に映っているのは、先ほどデリーパーを蹂躙した白銀の少女の姿だ。
「……ハッ、ハハハハハッ!!」
狂気に満ちた笑い声が、コンクリートの壁に反響していた。
その男の血走った瞳は、モニターに映し出される春菜たちの戦闘映像に釘付けになっていた。
「素晴らしい……! なんという完成された暴力! なんという圧倒的な力だ!だからこそ、俺のすべてを懸けて殺し合う価値があるッ!」
強者との死闘を渇望し、全身の血を滾らせる男。
そこへ、背後の暗闇から飄々とした足音が近づいてきた。
「楽しそうだな、有原」
不意に背後の闇から、音もなくもう一人の男が姿を現した。
男は呆れたように肩をすくめ、有原へと言葉を投げた。
「あの方からのオーダーだ。ようやく、あんたの出番らしい。今回は派手にやれってさ。……ま、俺は後始末が面倒になるから、程々にしてほしいんだがね」
「おお……ッ!それは誠か! 我の力は、あの方の御心のままに!」
有原は狂喜に満ちた叫びを上げ、その巨大な拳を壁に叩きつけた。
「あの極光の戦士を屠り、最後にその翼を捥ぎ取るのが楽しみだ! この街を 最高の戦場に変えようぞッ!」
その異常な崇拝心と戦闘狂ぶりに、男は「やれやれ」と深いため息をつく。
常識人の苦労など知る由もなく、戦災の狂気はすでに臨界点へと達していた。
底知れぬ悪意。
静かに、だが確実に、春菜と圭の日常を侵食しようとする闇の胎動が、そこにはあった。




