第1話「日常の始まり」
白く、清潔な壁。
淹れたてのハーブティーから立ち上る微かな湯気が、柔らかな香りを運んでくる。
ムラクモ本部の一角に設けられたカウンセリングルームは、血と硝煙に塗れた戦場から完全に切り離された、絶対的な安全圏であった。
ソファーに深く腰掛けた春菜は、手にしたティーカップの温もりを確かめるように、静かに息を吐いた。
鮮やかな茶髪を高くまとめ上げた大きな青いリボンが、彼女の動きに合わせて微かに揺れる。
「……少し、顔色が良くなったわね、春菜ちゃん」
向かいに座る臨床心理士、天野澪が微笑む。
その眼差しは、春菜の心の奥底にこびりついた氷を溶かすような、深い慈愛に満ちていた。
「ええ。……よく眠れるようになりました。あの夢も、最近は見ていません」
春菜は視線を落とし、自嘲気味に口角を上げる。
「笑っちゃいますよね。……あの日からずっと、あたしの心は復讐だけで動いていたのに。たった一人の、自分より小さな男の子を拾っただけで、こんなに脆くなるなんて」
「脆くなったのではないわ。……貴方は、強くなったのよ」
天野は優しく、だが断定的な響きで春菜の言葉を否定した。
「憎しみで武装した心は、いつか折れる。でも、誰かを『守りたい』と願う心は、決して折れない。……貴方が彼に『圭』という名前を与えたその瞬間から、貴方はもう、孤独な復讐鬼ではないのよ」
その言葉に、春菜の青い瞳が揺れる。彼女はカップを置き、真っ直ぐに天野を見据えた。
「先生。あたし……あの子を、守り抜きます。誰にも、あの子を道具にはさせない」
それは、揺るぎない誓い。
少女の心に宿った、新たな闘いの存在意義であった。
天野は目を細め、心底嬉しそうに微笑んだ。その笑顔に嘘はない。
彼女は春菜の感情の揺らぎと、美しい決意を心から愛おしく思っているのだ。
少女は疑わない。
この心地よい温もりと絶対の信頼こそが、今の自分を繋ぎ止める唯一の命綱であると。
カウンセリングを終えた春菜は、足早にムラクモ本部の休憩室へと向かった。
重い電子ロックが解かれる音と共に扉を開けると、そこには予想通り、騒がしい日常が転がっていた。
「おう、お疲れさん春菜! いやぁ、このガキ……いや、圭は手強いぜ。俺様がせっかく社会勉強になる雑誌を貸してやったってのに、ちっとも面白がりやしねえ」
ソファに踏ん反り返った山本が、派手な装丁の雑誌を片手にぼやいている。
春菜は入室するなり、テーブルの上に放置された空の弁当容器と、その横で所在なげに座っている圭の姿を捉えた。
「……山本さん。十九歳の女子大生がいる前で、デリカシーのない雑誌を広げないで。ましてや子供に見せるなんて、教育に悪すぎるわ。あと、それから……」
春菜の目が、一点を鋭く射抜く。
「ちょっと! コンビニ弁当の容器、洗わずにそのまま捨てたでしょ。ラベルも剥がしてないし。基地だからって、ゴミ出しのルールを無視していいわけじゃないのよ。資源ゴミが泣いてるわ」
「げっ……始まったよ、春菜の小姑モード……」
「聞こえてるわよ。いい、プラスチックは洗ってから分別! これ、常識。米のとぎ汁の有効活用法について三時間くらいレクチャーしてあげましょうか?」
「勘弁してくれ! 洗えばいいんだろ、洗えば!」
山本は降参だと言わんばかりに両手を上げ、容器を掴んで流し場へと逃げていった。
嵐が去った後のような静寂が戻る。
春菜はふぅと一つ溜息をつき、圭の隣に腰を下ろした。
警戒を解き、一人の少女に戻った彼女の横顔は、先ほどまでの小姑の顔とは打って変わって、どこか母性を帯びた柔らかいものに変わっている。
「圭、大丈夫? あの人に変なこと吹き込まれてない?」
覗き込むように問いかけると、圭はゆっくりと顔を上げ、小さく首を振った。
「……だいじょうぶ。おねえちゃん、おかえり」
「ええ、ただいま。……少しは慣れた? お腹、空いてない?」
「……うん。でも、おなかがすくの、よくわからない」
圭の無機質な言葉に、春菜は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
感情も、生理的な欲求すらも欠落しかけている少年。
けれど、彼は確かに、彼女が戻ってきたことに反応して、わずかにその瞳を揺らしている。
春菜は圭が手元に広げていた、先ほどの山本の雑誌に目をやった。
下俗な見出しの隙間に、一箇所だけ、場違いなほど美しい色彩を放つページがあった。
それは、都内にある大きな公園の特集記事だった。
抜けるような青空の下、鮮やかな緑の芝生が広がり、色とりどりの花が咲き乱れている。写真の中の子供たちは、屈託のない笑顔で駆け回っていた。
「……それ、綺麗ね」
春菜が優しく語りかけると、圭は吸い込まれるようにその写真を見つめ、指先で紙面に触れた。
「これ……なに?」
「公園よ。お花が咲いてて、太陽が温かくて。……平和な場所」
圭は平和という言葉を反芻するように、小さく唇を動かした。
そして、消え入りそうな声で呟く。
「いってみたい。……おねえちゃんと、いっしょに」
その言葉は、感情を持たなかったはずの少年が、この世界で初めて自ら発した、ささやかな願いだった。
春菜の視界が、一瞬だけ熱く滲む。
かつて奪われた、ありふれた日曜日の光景。
弟と駆け回った、あの温かな風。
復讐の炎に焼かれて灰になったはずの記憶が、少年の純粋な願いによって、鮮やかな色彩を取り戻していく。
「……ええ。約束よ」
春菜は圭の柔らかな髪を、愛おしそうになでた。
「いつか、必ず連れて行ってあげる。この騒動が落ち着いたら、二人でお弁当を作って、一日中そこで過ごしましょう。……アンタが好きなものを、たくさん作ってあげるから」
「……ほんとう?」
「あたし、嘘はつかないわ。……だから、それまではここで、あたしと一緒に頑張りましょうね」
圭は少しだけ、本当に少しだけ、嬉しそうに目を細めた。
復讐のために握ったはずの剣。
けれど、今ならはっきりと分かる。
自分は、この少年の瞳に映る景色を、この小さな願いを、何があっても守り抜きたいのだと。
血塗られた過去を背負ったまま、少女と少年は、新しい日常へ、一歩を踏み出した。




