第7話「温かな帰る場所」
硝煙の匂いと、微かな極光の余韻。
圧倒的な蹂躙劇の果て、ムラクモ本部の医療区画に帰還した春菜は、満身創痍の体を冷たい壁に預け、荒い息を吐いていた。
包帯が巻かれた痛々しい姿ではあるが、その瞳にはこれまでにない静かな安堵が宿っている。
隣のストレッチャーでは、限界を迎え気を失った圭が、規則正しい寝息を立てていた。
だが、平穏の時間は一瞬だった。
「――その少年をこちらへ引き渡せ、藤浦春菜ッ!」
殺伐とした足音と共に、灰色のスーツを着た防衛省上層部の官僚たちが、無遠慮に医療区画へと押し寄せてきた。
彼らの瞳にあるのは、過酷な死闘を生き抜いた少年への労わりなどではない。
人知を超えたオーバーテクノロジー、そのシステムを解明するための実験材料を値踏みするような、強欲で冷酷な光だった。
「先ほどの戦闘映像は確認した。あの少年が武装のパーツであることは疑いようがない。直ちに第一研究施設へ移送し、徹底的な解剖と解析を行う!」
「……っ!」
官僚の一人が、無慈悲に圭のストレッチャーへ手を伸ばそうとする。 しかし。
「……その手で、この子に触れないで」
底冷えのする、絶対的な殺意を込めた言葉。
春菜が、ボロボロの体を引きずり、官僚たちの前に立ちはだかった。
右手に握り締められたコンバットナイフの切先が、微かな震えすら見せずにスーツの男の喉元を捉えている。
「この子は単なるパーツじゃない。一人の人間よ。……指一本、触れさせない」
「ふ、ふざけるなッ! 一介のエージェントが防衛省の決定に逆らう気か! その身元不明の実験体には、人権など存在しないのだぞ!」
血に塗れた少女が放つ凄まじいまでの威圧感に、官僚たちが思わず後ずさる。
一触即発の空気が医療区画を支配した、その時。
「――身元なら、すでに証明されていますよ」
静かな、だが決して逆らうことの許されない重低音が響いた。
司令官の立浪仁紀が、一枚の真新しいIDカードを片手に歩み寄ってくる。
彼はそのカードを、官僚たちの目の前へ冷徹に突きつけた。
「この少年の名は、『川澄 圭』。……川澄正宗氏が直々に身元引受人となった、れっきとした一般市民です」
「なっ……か、川澄氏が、直々にだと!?」
「川澄正宗」。その名を聞いた瞬間、傲慢だった官僚たちの顔から一気に血の気が引いた。政財界の裏表を牛耳る絶対的な権力者の名を前に、彼らのような末端の官僚が逆らえるはずもない。
「これ以上の手出しは、川澄氏への明確な『越権行為』とみなしますが。……よろしいですね?」
「くっ……撤収だッ!」
立浪の有無を言わせぬ宣告に、官僚たちは逃げるように足音を荒らげて去っていった。
静まり返った医療区画。立浪は手にしたIDカードを、そっと春菜へ差し出す。
「……無茶をする。だが、よく守り抜いたな」
「……司令。ありがとうございます」
春菜はカードを受け取ると、ゆっくりとストレッチャーへ向き直った。
いつの間にか目を覚ましていた圭が、不安げに彼女を見上げている。
「お姉ちゃん……ここは?」
「……アンタの、帰る場所よ」
「お姉ちゃん……。僕、また……」
「気にしないで。……アンタは、あたしの命を二度も救ってくれた。それだけで十分よ」
春菜はカードを圭の小さな手に握らせた。
「これ……?」
そこには、確かな文字で一つの名前が刻まれていた。 「川澄 圭」。
「……川澄、ケイ」
圭は、その文字を指でなぞる。
「ええ。偉い人の名前を勝手に借りたのよ。これでもう、誰もアンタを勝手に実験台にしたりしない。……これからは、あたしがアンタの面倒を見るわ」
春菜はぶっきらぼうに、だが、これまでにないほど優しく不器用な微笑みを浮かべた。
圭の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
彼はカードを胸に強く抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。
世界から拒絶され、名前すら持たなかった少年は、今、確かな居場所を手に入れたのだ。
血と悲鳴に塗れた復讐の舞台に、ひとつの温かな光が灯る。
静寂。
嵐のような一日が終わり、ムラクモ本部の指令室には、青白いモニターの光だけが冷たく落ちていた。 残っているのは二人だけ。
情報担当の山本元信と、司令官の立浪仁紀である。
「……何度見ても、デタラメな出力だぜ。これが本当に、あの藤浦と、記憶喪失のガキが起こした奇跡かっての」
山本はいつもの軽薄な笑みを消し、大型モニターに映し出される春菜の戦闘記録を凝視していた。
画面には、極光の装甲が顕現した際に展開されたシステムUIの文字列が、無機質に羅列されている。
立浪は黙って、腕を組んだままその文字列を一瞥した。
「奇跡ではない。……これは、パンドラの箱だ。開けてはならない兵器の蓋を、あの二人がこじ開けてしまったのかもしれんな」
立浪の寡黙で断定的な声が、薄暗い部屋に響く。
山本はキーボードを叩き、ログの一文を拡大表示した。
Materializing: Arthur-Core
「司令。俺様は情報屋だ。こういう無意味な文字列の羅列には、どうも裏の意図を勘ぐっちまう」
山本の指が動き、画面上の「Arthur-Core」という文字列から、不要なアルファベットを次々とバックスペースで消去していく。
残った三つの文字が、画面の中央で不気味に点滅した。
「Arc」――アーク。
「……アーク」
立浪の目が、鋭く細められた「アーク」。
それは、春菜が単独潜入した秘密結社の研究施設に眠っていたとされる、世界の理を書き換える特級機密のコードネームだ。
「偶然のスペルにしては、出来すぎている。もし、あの少年自身が、結社が隠し持っていた機密『アーク』そのものだとしたら……?」
山本の問いかけに、立浪はすぐには答えなかった。
モニターの青い光が、彼の険しい横顔を照らす。
やがて、立浪は静かに、だが絶対の命令として口を開いた。
「山本。すべてを洗い出せ。……我々が何を相手にしているのか、その正体を」
「……は?」
「あの施設は、藤浦の放った光の奔流によって完全に更地となった。だが、どれほど焼き尽くそうと、必ず痕跡は残る。徹底的に調べ上げろ。……あの少年が何者なのか、答えを見つけ出せ」」
劇的で、誇張された比喩。だが、それは一切の反論を許さない絶対の指令であった。
山本はタブレットを閉じ、不敵に口角を上げた。
「……人使いが荒いですねぇ、ウチの司令は。了解です。地獄の底からでも、その『アーク』の正体を引っ張り出してやりますよ」
山本は不敵に笑い、再びキーボードを叩き始めた。
静寂の指令室。
復讐の少女と記憶喪失の少年が紡ぎ始めた温かな絆の裏側で、運命という名の残酷な歯車が、密かに、だが確実に回り始めていた。




