第2話「書けない作文」
「なぁなぁ圭くん、見てみぃ! これ、図工の時間に作ったんやけど、めっちゃ凄くない!?」
午前の授業を終えた休み時間の教室。
春の柔らかな太陽の光が差し込む窓際の席で、隣の席の知葉が自慢げに粘土細工を突き出してきた。
それは辛うじて四本脚の動物に見えなくもないが、ひどく歪で、どこか宇宙生物のような奇妙な形をした土くれだった。
「えっと……すごいね、知葉ちゃん。前足の長さが左右で少し違うのは、走っている躍動感を表現しているのかな?」
「おっ! さすが圭くん、分かってるやん! ウチの芸術的センスが爆発してもうたんよ!」
あっけらかんと笑う知葉につられ、圭の口からも自然とクスクスという笑い声が漏れる。
かつての彼なら、粘土の重量や成分を口にして終わりだっただろう。
だが、今の彼には分かる。
知葉の無邪気な誇らしさが、そして、誰かと顔を見合わせて笑い合う時間が、こんなにも心がふわりと軽くなる「楽しい」ものなのだということが。
(僕……今、笑ってる)
窓の外ではグラウンドを駆け回る子供たちの歓声が響いている。
自分の内側に芽生えたこの温かな感情に戸惑いながらも、圭はそれを大切に噛み締めていた。
この学校生活は、毎日が宝石のように輝く新しい発見の連続だった。
そして何より、今の彼には帰るべき「居場所」がある。
ムラクモの本部へ帰れば、栄養バランスを考えた美味しいご飯を作ってくれる森野さんがいる。
軽口を叩きながら本を教えてくれる山本さんや、変な映画の話をする福留さんがいる。
怖い顔をしているけれど、誰より大きな背中で守ってくれる立浪司令がいる。
そして、誰よりも自分を愛し、守ってくれる大好きな「お姉ちゃん」がいる。
(……幸せ、なんだと思う)
圭は、自分の胸のあたりをそっと押さえた。
そこにはかつての虚無はなく、確かな鼓動と守りたいと願う誰かの体温が宿っている。
この平穏な日々が、この温かな繋がりが、ずっと続けばいい。
そう、心から願っていた。
だが、その平穏はあまりにも唐突に、そして残酷な形で終わりを告げた。
「はい、それじゃあ皆さん、席について。4時間目の国語の授業を始めます」
チャイムの音と共に教室に入ってきた担任の先生が教卓に原稿用紙の束を置いた。
「今日は『私の家族』をテーマに作文を書いてもらいます。皆さんの身近にいる、一番大切な人について、自由に書いてみてくださいね」
その言葉が投げかけられた瞬間、教室の中が期待と活気に包まれた。
「よっしゃ! 俺は昨日お母ちゃんが作ってくれた、特大ハンバーグのこと書こ!」
「僕は、父ちゃんとキャッチボールしたこと!」
「ウチは、チビと買い物行った時のこと書くわ!」
知葉や周囲の子供たちが、親への無邪気な愛情と信頼を口にしながら、楽しそうに鉛筆を走らせ始める。
教室中に響く、カリカリという軽快な芯の音。
幸せを文字に紡ぐその音は、今の圭にとって鋭い刃のようにその心を切り裂くものだった。
圭の手だけが、ピタリと、まるで凍りついたかのように止まっていた。
「……かぞ、く」
目の前に置かれた真っ白な原稿用紙。
右端の氏名欄には、転校の手続きの際に教えられた通り「川澄 圭」と書き込むことになっている。
川澄。
それは、ムラクモの司令が彼を実験体にさせないために、有力者の名前を借りて用意してくれた偽造戸籍の苗字だ。
彼には、本当の両親はいない。
どこで生まれたのかも、どうしてあんな暗い施設にいたのかも、自分の「本名」が何なのかさえ、分からない。
(書けない……。一文字も……)
鉛筆を握る手が微かに震える。
家族との思い出を書こうとすれば、真っ先に思い浮かぶのは春菜の顔だ。
今朝も、彼女はいつも通り、甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれた。
「圭、寝癖がついてるわよ。ほら、こっち向いて」
あの時、春菜の優しい眼差しは、確かに自分の顔に向けられていた。
だが、その奥で彼女が必死に見つめ、愛し、守ろうとしていたのは、果たして「僕」という存在なのだろうか。
彼女が時折、自分の背後に重ねるようにして見つめている、死んだ実の弟の影。
今、彼女の隣にいる僕は、彼女にとって「圭」なのだろうか。
それとも、失った弟の欠落を埋めるための精巧に作られた身代わりに過ぎないのではないか。
(もし、僕が弟の代わりじゃなかったら。お姉ちゃんは、それでも僕を愛してくれるの……?)
一度芽生えたその疑念は原稿用紙の白さに反射して、圭の心を無慈悲に抉っていく。
自分は、空っぽの器だ。
中身が「弟」という属性で満たされているからこそ、今の幸せな生活があるのではないか。
もしその属性を取り払ってしまったら、後に残るのは「川澄圭」という偽名の正体不明の空洞だけではないのか。
自分は、本当の家族じゃない。
名前も、戸籍も、そして彼女から向けられる愛情すらも、すべては借り物の偽物に過ぎないのだ。
その残酷な自覚が少年の喉の奥に鉛のように重くのしかかり、言葉を完全に奪い去っていく。
真っ白な原稿用紙のマス目が、まるで自分を拒絶する檻のように見えた。
周囲で楽しそうに家族の作文を書く子供たちの声が、遠くのノイズのようにぼやけていく。
「圭くん? どないしたん、手ぇ止まってるで?」
心配そうに覗き込んでくる知葉の顔を、圭はまともに見ることができなかった。
「ううん……何から書こうか、迷っちゃって……」
引きつった笑いを返し、圭はただ、白紙の原稿用紙を俯いて見つめ続けることしかできなかった。
「……っ」
結局、授業終了の鐘が鳴るまで、圭の原稿用紙が一文字の黒い線で汚れることはなかった。
氏名欄さえ埋められない真っ白なままの紙。
それは、彼自身の「正体のなさ」を突きつけているようだった。
「圭くん、一緒に帰らへん?」
放課後。
知葉が心配そうに声をかけてきたが、圭は力なく首を振った。
「ごめん、知葉ちゃん。今日は……少し、一人で帰りたいんだ」
「……そっか。なんかあったら、明日また言うてな!」
知葉の明るい声に背を向け、圭は一人で校門を出た。
夕焼けに染まった帰り道。
長く伸びた自分の影が、アスファルトの上で寂しげに揺れている。
この道を真っ直ぐ行けば、春菜の待つ場所へ着く。
そこには、美味しい夕飯と、暖かな部屋と、彼女の優しい笑顔があるだろう。
けれど、今の圭には、その温もりが恐ろしかった。
もしも、自分が抱いているこの疑念を彼女に伝えてしまったら。
「お姉ちゃんが見ているのは、僕じゃないんだよね?」と、真実を問い詰めてしまったら。
今、自分が手にしているこの「偽物の幸せ」は一瞬で砕け散ってしまうのではないか。
(言えない。……絶対に、言っちゃいけないんだ)
圭は、小さな拳を強く握りしめた。
自分は偽物でいい。
身代わりでも、器でも構わない。
あの暗闇の中で独りだった頃に戻るくらいなら、この優しい嘘の中に閉じ込められていた方がいい。
「僕は……川澄 圭なんだから」
自分自身に言い聞かせるように、震える声でそう呟く。
夕闇が街を包み込み、一日の終わりを告げていく。
少年は、誰にも言えない孤独な痛みを小さな胸に抱え込んだまま、茜色の空の下を、ただ一人で歩き続けた。
彼の背中は泣き出しそうなほど小さく、そして脆く揺れていた。
その胸に抱えた身代わりという名の鋭い痛みは消えることなく、ただ静かに深層へと沈み込んでいった。




