第2話 「運命の邂逅」
鉄の咆哮が背後で弾ける。
「――見失うなッ! 逃がすなッ! ネズミを、その四肢ごと磨り潰せ!」
追っ手たちの怒号。デリーパーの駆動音。
春菜は間一髪、剥き出しになった通気口へと身を躍らせた。
狭い。暗い。そして、吐き気がするほど埃っぽい。
金属の壁面を這う指先に、自身の荒い鼓動が伝わってくる。
背後ではデリーパーの爪がダクトの入り口を無慈悲に引き裂き、耳障りな金属音を響かせていた。
「ハァ……ッ、ハァ……っ」
肺が焼ける。
エージェント・スーツ越しに伝わるダクトの熱が、彼女の焦燥を煽る。
だが、止まれば死だ。
光のない迷路を、彼女は傷ついた獣のように這い進んだ。
それは、観客のいない舞台裏を駆ける、孤独な逃亡劇であった。
どれほど進んだだろうか。
不意に、ダクトの底が消えた。
「っ……!?」
落下。
重力に従い、彼女の体は無機質な床へと叩きつけられた。
そこは、これまでの喧騒が嘘のように静まり返った、白亜の部屋だった。
窓はない。家具もない。
ただ、部屋の隅に、膝を抱えて座り込む人影があった。
「……子供?」
春菜は息を呑んだ。
そこにいたのは、一人の少年だった。
プラチナブロンドの柔らかな髪。透き通るような肌。
この地獄のような施設において、その存在だけが、あまりにも場違いに清らかであった。
少年は、ゆっくりと顔を上げた。
感情の欠落した、だが吸い込まれるほどに美しい黄緑色の瞳。
彼は、自分に向けられた殺気も、春菜の返り血に汚れた姿も、ただ「そこにある現象」として見つめていた。
「……君、名前は?」
「名前……? わからない」
少年の声は、乾いた砂のように響いた。
「僕は、実験体。ずっとここにいたから。……外のことは、何も知らない」
「外のことを……知らない?」
春菜の胸の奥で、鋭い痛みが走った。
少年の無垢な横顔。その声の響き。
かつて、陽だまりの中で笑っていた亡き弟の残像が、目の前の孤独な影に重なり、溶け合っていく。
「外は、どんなところ? ……僕は、あそこへ行ってみたい」
少年の、あまりにも小さな、だが切実な願い。
すでに潜入は露見し、任務は破綻している。
プロならば、この素性も知れない少年を捨てて、単独で離脱すべきだ。
だが、今の彼女を突き動かしているのは、エージェントとしての指令ではない。
姉としての、消えることのない執着。
「……いいわ。連れて行ってあげる」
春菜は少年の小さな手を、力強く握りしめた。
「外は、空が青くて、花が咲いていて……もっとずっと、広い場所よ」
「本当……?」
少年の瞳に、初めて微かな光が宿った。
その瞬間、彼女は自分自身に誓ったのだ。
二度と、道具にさせない。二度と、守れなかったあの日の後悔を繰り返さない、とッ!
だが、運命という名の残酷な演出家は、二人を容易には逃がさない。
少年を背負い、春菜は無機質な回廊を疾走する。
背後では施設の崩壊音が重低音となって響き、頭上からは剥き出しになった配管が火花を散らして落下してくる。
「……ハァ、ハァッ、大丈夫……!もうすぐ、出口だから!」
自分に言い聞かせるように、春菜は叫ぶ。
背中に伝わる少年の体温。軽すぎる体重。
そのすべてが、彼女の胸の奥にある後悔を決意へと塗り替えていく。
エージェントとしての任務ではない。
これは、一人の少女が選んだ、あまりにも身勝手で、あまりにも尊い我執であった。
ついに、視界の先に巨大な鋼鉄のハッチが見えた。
施設の外へと繋がる、唯一の、そして最後の境界。
そこを抜ければ、少年が切望した「青い空」が待っているはずだった。
だが。
「――っ、しまっ……!!」
絶望は、唐突に、そして圧倒的な質量をもって降り立つ。
天井を紙細工のように引き裂き、鉄の雨と共にそれは降臨した。
施設の最奥に鎮座していた、殺戮特化型守護機甲――「ガーディアン」。
幾多のデリーパーとは一線を画す、巨大な鋼鉄の異形。
その身に纏うのは、対人殲滅のみを目的として研ぎ澄まされた、無慈悲な刃の森。
感情を排した光学センサーが、冷徹に獲物をロックオンする。
逃げ場はない。
出口は、その巨大な影の向こう側。
観客のいない舞台。照明は赤い警告灯。
今、絶望という名の主役が、その舞台の中央へと躍り出たッ!
「……させない。この子は、絶対に……!!」
春菜は少年を下ろし、自分の背後へと押しやった。
手元にあるのは、使い古した一本のサバイバルナイフのみ。
巨大な機甲の前に立つ彼女の姿は、あまりにも小さく、あまりにも儚い。
刹那。
ガーディアンの右腕が、音速を超えて振り下ろされる。
空間そのものを切り裂く、死の爪。
(もう、二度と……繰り返さないッ!!)
彼女は、少年を全力で突き飛ばした。
安全な物陰へ。死の圏外へ。
代わりに自らが、回避を捨てて、その無慈悲な凶刃の前に立ちはだかるッ。
鈍い、衝撃。
熱い。
遅れてやってきたのは、肺から空気がすべて絞り出されるような、圧倒的なまでの破壊の感覚だった。
「あ、が……っ……」
致命。
貫かれた脇腹から、彼女の命が急速に零れ落ちていく。
床に崩れ落ちる春菜の視界。
薄れゆく意識の淵で、最後に映ったのは。
初めて恐怖という感情に顔を歪ませ、自分を呼ぼうとする、少年の姿であった。
「……に、げて……」
言葉は、血の泡と共に消える。
舞台は、暗転。
少女の命という名の灯火が、今、静かに消えようとしていた――。




