第1話「花の海の夢」
無音。
どこまでも、どこまでも続く、名もなき花の海。
柔らかな風が、鮮やかな色彩の波を、さらさらと音を立てて揺らしている。
ここはどこなのだろう。
なぜ自分は、一人でここに立っているのだろう。
圭は、その終わりのない花畑の中心で、ただ独り立ち尽くしていた。
空は透き通るような青。雲一つない陽光の中に、はるか遠く、一人のシルエットが見える。
光り輝く、王の如き威厳を纏った影。
声は聞こえない。顔も見えない。
だが、圭の小さな胸の奥に、言葉にならない感情がどろどろと溢れ出した。
ひどく懐かしく、そして、どうしようもなく悲しい。
それは、彼が持っていないはずの記憶の残響。
「……あなたは、だれ?」
震える声で問いかけた瞬間、世界は真っ白な光に包まれ――。
「……っ」
圭は、ムラクモ本部の自室のベッドで目を覚ました。
頬を伝う一筋の冷たい感触。
自分が涙を流していたことに気づき、圭は困惑したように指先でそれを拭った。
「ゆめ……」
胸の奥に残る、得体の知れない喪失感。
だが、その意味を理解するには、今の彼はあまりにも幼く、そして過去を持たなすぎた。
「圭! 何度言ったら分かるの! 朝からソーセージばっかり食べない! ピーマンもちゃんと食べなさい、栄養が偏るでしょ!」
ムラクモ本部の休憩室兼食堂。
朝から響き渡る藤浦春菜の説教が、平和な一日の始まりを告げていた。
戦場では冷徹に極光を操る戦姫。
だが、今の彼女は、どこからどう見ても弟の健康管理に必死な過保護すぎる姉であった。
「えー……ピーマン、にがい……」
「ダメ! 圭の身体はまだ成長期なんだから、好き嫌いしてたら有原みたいな化け物に勝てないわよ!さあ、口を開けて。はい、あーん!」
「う、うぅ……」
「はいはい、二人とも朝から騒がしいわね。……春菜、あんた過保護すぎよ。こないだ観たディストピア映画のマザーコンピューターだって、もう少し放任主義だったわよ? 」
医療担当の福留未来が、タブレットから目を離さずに呆れたように口を挟む。
「未来さんは黙ってて! この子の栄養管理はあたしの責任なんだから!」
「はいはい、お味噌汁のおかわりあるよー! 圭くん、ピーマンも少しずつ食べられるようになればいいからね。今日の出汁は私の自信作だから!」
栄養管理担当の森野あかりが、エプロン姿で満面の笑みを浮かべ、お玉を片手に割り込んでくる。 有原剛蔵という理不尽な死の権化と殺し合ったことが嘘のような、温かく、騒がしい日常。
「ふふっ、賑やかな朝ね」
扉が開き、穏やかな声が部屋を包み込んだ。
カウンセラーの天野澪だ。
彼女が微笑むだけで、殺伐としたムラクモ本部の一角が、まるで聖域のように浄化される。
「おはようございます、天野先生」
「おはよう、春菜ちゃん。圭くんも、しっかり食べて偉いわね」
天野は圭の頭を優しく撫でると、春菜に向き直り、少しだけ真剣な眼差しを向けた。
「春菜ちゃん。今日は、彼……圭くんのこれからのことで、一つ提案があるの」
「提案、ですか?」
春菜が手を止める。
天野は静かに、だが確かな説得力を持って告げた。
「彼を……圭くんを、小学校に通わせるべきだわ」
カラン、と春菜の持っていた菜箸が床に落ちた。
「……っ! ダメです! 絶対にダメです!」
食い気味の、凄まじい拒絶。春菜の顔からは血の気が引き、瞳には恐怖に近い色が宿る。
「外の世界にはデリーパーがいつ現れるか分からない! ましてや、圭の正体がバレたらどんな危険があるか……! そんなところへ、圭を一人にするなんて、正気の沙汰じゃありません!」
「春菜ちゃん、落ち着いて。気持ちは分かるわ」
天野は一歩踏み込み、過保護な姉の肩に優しく手を置いた。
「でも、彼はもう、ただの実験体やデバイスではないわ。心を持ち、自らの意志で世界を知ろうとしている、一人の男の子よ。同じ年代の子供たちと触れ合い、笑い、喧嘩をすることでしか育たない感情があるの。彼を、この無機質な基地という名の鳥籠の中に閉じ込めておいてはいけないわ」
「それは……」
春菜の言葉が詰まる。それは、彼女自身も心のどこかで感じていた正論だった。
「手続きなら、こっちで裏から済ませてあるわよ。立浪司令の許可も下りてるわ」
話を聞いていた福留が、タブレットを操作しながら口を挟んだ。
「ムラクモの隠れ蓑として機能している私立小学校があるの。警備も万全だし、何かあれば私たちがすぐに駆けつけられる。春菜ちゃん、あんたが彼を守りたいのは分かるけど……彼自身の人生を奪う権利は、誰にもないわ」
「未来さんまで……っ。でも、圭は……」
春菜が縋るような思いで圭に視線を向ける。圭は、ピーマンを飲み込み、じっと自分の手を見つめていた。
そして、彼は震える小さな手で、春菜のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。
「お姉ちゃん……。僕、行きたい」
「圭……?」
「お姉ちゃんが見せてくれる世界は、とっても綺麗。でも、僕……もっと知りたいんだ。自分でお花を触ったり、誰かと話したりして、この世界がどうなってるのか……自分の目で、確かめたい」
少年の瞳に宿っていたのは、未知への純粋な希望だった。
「……っ、う……」
春菜は、自身の唇を強く噛んだ。
圭を失うのが怖い。
自分の手の届かない場所へ彼が行ってしまうのが、耐えられないほど恐ろしい。
だが、その愛が、圭の成長を阻む鎖になっているのだとしたら。
長い、沈黙。
やがて春菜は、絞り出すような声で言った。
「……分かったわ。でも! 毎日送り迎えはするし、防犯ブザーは特注のやつを持たせるから! いいわね!?」
「あはは、過保護だなぁ」
圭が初めて見せた、子供らしい無邪気な笑顔。その笑顔に、春菜の胸の奥がチクリと痛んだ。
同時刻。
ムラクモ本部、薄暗い指令室。
立浪仁紀は、一人、通信モニター越しに山本の報告を受けていた。
「……司令。有原が遺した極秘暗号式の座標、例のアジトを調査してきました」
「どうだった。何か遺留品はあったか」
「何もありませんよ。……文字通り、何も」
普段の彼は、春菜に軽口を叩いては福留に一蹴されるような、どこか締まらないムードメーカーだ。
だが、今の彼の瞳には、冗談を差し挟む余地など微塵もなく、その声から、いつもの軽薄さが完全に消え失せていた。
「現場は、すでに全焼していました。証拠隠滅のレベルじゃねえ。コンクリートの骨組みすら融解するほどの、異常な熱量で焼却された跡だ」
「……何だと?」
立浪の眉間に、深いシワが刻まれる。
「さらに、極秘情報ですが……。有原を独自に追跡した自衛隊の特殊部隊も、アジト周辺で発見されました。……生きたまま、全員、灰になるまで燃やされて」
「…………」
沈黙が、指令室を支配する。
有原剛蔵という化け物が倒れてなお、水面下で蠢く、さらに凶悪な存在。
山本はギリッと奥歯を噛み締め、低い声で呻いた。
「……この炎の使い方に、一切の痕跡を残さない残虐な手口。まるで十年前、首都を火の海にした伝説の犯罪者・香西義朝とそっくりだ。」
終わっていない。
いや、絶望はまだ始まったばかりなのだ。
「戦災」を屠り、平和の第一歩を踏み出した主人公たちの背後で。
次なる「災人」の影が、音もなく、そして確実に、その熱い牙を研ぎ澄ましていたッ!




