第2話「初めての登校」
「……この専門書によれば、光合成におけるエネルギー変換の基本的なプロセスは、葉緑体内のチラコイド膜における光化学反応と、ストロマにおけるカルビン・ベンソン回路の二段階に大別されます。具体的には、光エネルギーを用いて水が分解され、酸素が放出されると同時に、ATPとNADPHが生成され――」
水を打ったように静まり返る教室。
自分の席で分厚い植物学の学術書を開いたまま、圭は淡々と、だが淀みなく理科教師からの質問への回答を終えた。
十歳の少年が口にするには、あまりにも完成された、無機質な正解。
黒板の前に立つ教師は頬を引きつらせてチョークを落とし、周囲のクラスメイトたちはまるで異星人の言葉を聞いたかのようにポカンと口を開けている。
ここ数日。
ムラクモの隠れ蓑である私立小学校に通い始めた圭だが、基地にいる間も常に本を手放さず、活字から吸収した膨大な知識量と、感情の起伏に乏しい振る舞いは、同年代の子供たちの中で彼をひどく浮いた存在にしていた。
(また、変なこと言っちゃったかな……)
圭は小さく肩を落とし、誰とも視線を合わせないように再び手元の分厚い本へと目を落とした。
自分が周囲と違うことは理解している。
重苦しい沈黙が教室を支配しかけた、その時だ。
「自分、いっつも難しそうな本読んでるな! 図鑑の丸暗記か!?」
隣の席から、唐突に元気な声が降ってきた。
弾かれたように顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべた、少し日焼けした活発そうな女の子が身を乗り出していた。
「え……?」
「ウチは知葉! なぁなぁ、光合成ってアレやろ? 太陽の光でピカッと葉っぱが元気モリモリになるやつ! 圭くんの説明、なんかロボットみたいでオモロイわ!」
遠慮も、計算も、他者との距離感を測るような探りも一切ない。
機関銃のように放たれる明るい関西弁は、圭の周囲に張り巡らされていた見えない壁を、いとも容易くぶち壊した。
「ロボット、みたい……?」
「おん! 辞書がそのまま喋ってるみたいやったで! あんなん誰も分からへんって!」
知葉はケラケラと屈託なく笑うと、思い出したように自分のポケットをゴソゴソと漁り始めた。
「そやそや、今日な、朝顔の植木鉢の下でダンゴムシめっちゃ捕まえたんよ! 見る!? 丸まると可愛いねんで!」
「えっ、あ、ちょっ……」
知葉が手のひらを開くと、そこには泥にまみれて丸まった数匹のダンゴムシが転がっていた。
潔癖な無機質さの中で生きてきた圭にとって、それは未知のバグのような存在だった。
だが、泥だらけの手を誇らしげに突き出してくる知葉の、太陽のように眩しい笑顔を見ていると、不思議と嫌な気はしなかった。
「……ふふっ」
圭の口から、自然と小さな笑い声が漏れた。
それは知識のデータベースから引っ張り出した作り笑いではない。初めて彼自身の内側から生まれた、人間らしい感情の揺らぎだった。
「おっ、笑った! 圭くん、笑うと案外普通の男の子やん!」
知葉は嬉しそうに身を乗り出し、圭の肩をバンバンと叩いた。
その手の温もりが、圭の凍りついていた心を、春の雪解けのように少しずつ溶かしていくのだった。
「……本当に、すごく元気な女の子みたいで。今日も『ダンゴムシをいっぱい捕まえた』って、少しだけ笑って話してくれたんです」
その日の夕方。
ムラクモ本部、カウンセリングルーム。
春菜は淹れたてのハーブティーのカップを両手で包み込みながら、心底ホッとしたような、それでいてどこかくすぐったいような笑顔を浮かべていた。
向かいのソファに座る天野澪は、聖母のような慈愛に満ちた眼差しで、春菜の言葉を一つ一つ丁寧に受け止めている。
「良かったわね、春菜ちゃん。彼を外の世界に出して、正解だったでしょう?」
「ええ……。本当に、天野先生のおかげです。あたし一人だったら、怖がってずっと圭を部屋に閉じ込めていたと思います」
春菜はハーブティーを一口飲み、ふう、と小さく息を吐いた。
その青い瞳に、復讐鬼の冷たさはない。
あるのは、取り戻しつつある柔らかな過去の残響と、姉としての穏やかな愛情だった。
「……あの子が笑うと、どうしても思い出しちゃうんです。デリーパーに奪われた、あたしの弟のこと」
「……」
天野は言葉を挟まず、ただ静かに先を促すように微笑む。
春菜は少しだけ目を伏せ、遠い過去の景色を探るように語り始めた。
「弟の誕生日に、あたしがオムライスを作ったことがあったんです。まだ料理なんて全然得意じゃなくて、卵も焦げちゃってボロボロで……。でも、あの子、すごく喜んでくれて。自分でケチャップを持ってきて、そのボロボロのオムライスの上に、すっごく不格好な星のマークを描いたんです。『お姉ちゃんのオムライス、星三つ!』って笑って……」
ぽつりとこぼれ落ちた、春菜の心の最も深く、最も柔らかい場所にある記憶。
それは、凄惨な戦いの中で彼女がただ一つ守り抜きたかった、平凡で愛おしい日常の象徴だった。
「そう。素敵な思い出ね、春菜ちゃん」
天野は身を乗り出し、テーブルの上で春菜の手を優しく包み込んだ。
「そのケチャップの星の記憶は、貴方にとってかけがえのない宝物よ。圭くんの笑顔が、その宝箱の鍵を開けてくれたのね」
「はい……」
春菜は天野の温かな手のひらに自身のそれを重ね、静かに頷いた。
その夜。
ムラクモ本部にある圭の自室は、小さな間接照明のオレンジ色の光に包まれていた。
真新しいランドセルが机の横に置かれ、ベッドの中では圭が静かな寝息を立てる準備をしている。
「圭、今日は楽しかった?」
ベッドサイドの椅子に腰掛けた春菜が、圭の前髪を優しく撫でながら問いかけた。
「うん。……知葉ちゃん、すごく声が大きくて、ちょっとびっくりしたけど。でも、なんだかあったかかった」
「そう。良かったわね」
春菜は愛おしそうに目を細め、圭の小さな手を両手で包み込んだ。
そして、部屋の静寂を確かめるように一度小さく息を吸い込むと、誰にも聞かれないような内緒のトーンで口を開いた。
「ねえ、圭。……この話、天野先生にも話したことないんだけど」
「……?」
圭が不思議そうに瞬きをする。
「あたしね、弟がいたの。圭と同じくらいの歳で、すごく笑うのが上手な子」
春菜の声は、夜の空気に溶けるように静かで、どこか秘密めいていた。
「その子がね、一冊の童話の絵本をすごく大切にしていたの。剣を持った勇者が悪い魔法使いを倒す、よくあるお話なんだけど……弟は、その絵本の結末が一番好きだったのよ。」
春菜の視線が、圭の瞳の奥、ずっと遠くを見つめるように揺らぐ。
「敵を倒して、歓声に包まれるページじゃないわ。戦いが全部終わって、勇者がボロボロの剣を置いて、ただ静かに自分の家に帰っていく……誰も傷つかない、静かで優しい結末のページ。弟はいつも、その最後のページを開いては、嬉しそうに笑ってた……」
なぜ、自分は今、この記憶を圭に語っているのだろう。
天野にすら語らなかった、最も深く、不可侵の領域にある大切な思い出の核心を。
「お姉ちゃん……どうして、僕にそのお話をしてくれたの?」
圭の純粋な問いかけに、春菜はふわりと微笑んだ。
「圭が、特別だからよ。これは、あたしと圭だけの、内緒のお話」
春菜はそっと圭の額に唇を落とした。
それは、血の繋がりを超えて、二人の間にだけ結ばれた強固な絆の証明。
そして、これから先に待ち受ける過酷な運命の中で、いつか大きな意味を持つことになるであろう、静かな誓いの共有だった。
同時刻。
夜の首都。
とある大学の、最上階に位置する研究室。
無数の気象データが明滅する大型モニターと、山のように積まれた論文の資料。
だが、その知的な空間は、大きく開け放たれた窓から吹き込む不気味な強風によって、無惨に荒らされていた。
紙束が乱舞し、ブラインドが狂ったように暴れる。
その風の中心に、一人の女が涼やかな顔で立っていた。
「……おいおい、窓くらい閉めろよ風間。資料が飛んでるぜ」
背後の暗がりから、呆れ果てたような声が響いた。 声の主は、闇の中から姿を現した。
「あら。あなたには、この風の美しさが分からないのね、梶。それとこの部屋は禁煙よ」
彼女は振り向くことなく、白衣をはためかせて夜空を見つめたままだ。
口に咥えようとしていた煙草を指摘され、男は舌打ちと共にそれをしまい込み、中間管理職の如きぼやきを吐く。
「はいはい。厳しいこった……あの方は、次はお前だと言っている」
あの方。その言葉を聞いた瞬間、風間の涼やかな瞳に、氷のような狂信の光が宿った。
「フフ……分かっているわ。あの方の望む風を吹かせるだけよ」
風間が指先を軽く振ると、室内を暴れていた風がピタリと止む。
直後、窓ガラスが目に見えない刃によって、音もなく真っ二つに切断された。
「さあ、私はどの風を吹かせようかしら?」
狂気と知性が同居する天才の冷徹な微笑み。
平和な日常の裏側で、次なる脅威の牙が確かな殺意を持って極光の戦姫へと向けられていた。




