第5話「再起への狼煙」
白。
視界を埋め尽くすのは、無機質で清潔な白。
鼻腔を突く消毒液の匂いが、春菜の意識を強制的に現実へと引き戻した。
「……っ、ぁ……」
ムラクモ本部の病室。
目覚めと同時に、全身の筋肉が軋みを上げて悲鳴を上げる。
細胞の一つ一つが焼け焦げたかのような激痛。
だが、それ以上に彼女の心を苛んでいたのは、圧倒的な敗北感であった。
「気がついたのね、春菜ちゃん。安心して。貴方の身体は無事よ。圭くんも、隣の部屋で無傷で眠っているわ」
傍らから、春菜のささくれ立った心を包み込むような、柔らかな声が降り注いだ。
臨床心理士、天野澪。彼女が微笑むだけで、無機質な病室に慈愛の光が満ち溢れる。
「……天野、先生」
「ええ、私よ。よく生きて帰ってきてくれたわ」
その温かな眼差しに触れた瞬間、春菜の奥底に封じ込めていた感情が、どろどろと決壊して溢れ出した。
「……何も、できなかった。あの化け物の前では、あたしの剣なんて、ただの棒切れと同じだった……っ! あたしじゃ、誰も……圭のことすら、自分の力で守れなかったッ!」
声が震える。
「あたしは負けたの……! 殺されなかったのは、ただ敵の気まぐれで見逃され、生かされているだけ! そんなの、そんなの……ッ!」
圧倒的な死の気配。
赤子のように弄ばれ、同情すらなく見逃されたという絶対的な屈辱。
自分の無力さが、かつてすべてを奪われたあの日のトラウマを呼び起こし、少女のプライドを完膚なきまでにへし折っていた。
天野は、血の滲むようなその吐露を、すべて優しく受け止めた。
彼女の温かな両手が、顔を覆って咽び泣く春菜の震える手を、しっかりと握りしめる。
「違うわ。あなたは弱くない。……大切なものを守りたいと心から願っているからこそ、そんなにも悔しいのよ。その痛みが、あなたを強くするの」
「……先生」
「さあ、顔を上げて。あなたが守りたいと願った世界は、まだ終わっていないわ」
その言葉が、凍りついていた少女の心に再び火を灯した。
絶望の淵から、彼女はゆっくりと顔を上げる。涙に濡れた青い瞳に、再び鋭い意志の光が宿る。
パァンッ!!
春菜は両手で自身の頬を力強く張り飛ばした。
乾いた音が病室に響き、痛みが未練と迷いを完全に断ち切る。
「……よしッ!」
気合を入れ直す彼女を見て、天野は心底愛おしそうに微笑み、病室のドアを開けた。
そこには、コートを着た一人の男が、巨岩のように静かに立っていた。
ムラクモの司令官にして、武術のエキスパートである立浪仁紀だ。
彼は一切の感情を交えずに短く告げた。
「……体が動くなら、来い」
ダァァァンッ!!
「甘いッ!!」
「がっ……ぁ……っ!」
ムラクモ本部の訓練室。
激しい木剣の衝突音が鳴り響き、春菜は幾度目かわからない無様な転倒を喫した。
息は乱れ、握力は限界に近い。
立浪は木剣を片手に、無駄の一切ない構えで立っている。
「どうした! お前の剣はそんなものか!力任せに振り回すだけの棒切れで、あの化け物に届くと思っているのかッ!」
「……まだ、やれるわよッ!」
春菜は歯を食いしばり、再び立浪へと斬りかかる。
だが、その太刀筋は完全に読まれていた。
立浪は最小限の足捌きでそれを躱し、春菜の体勢を軽々と崩していく。
基礎的な剣技、その圧倒的な練度の差。
部屋の片隅で、その過酷な特訓を見学している二つの影があった。
圭と、森野あかりである。
「……僕の予測が甘かったせいで、お姉ちゃんがあんなに苦しんでる……。僕が、弱いから……」
圭が、自責の念に押し潰されそうな声で呟く。
その小さな肩を、森野が持ち前の優しさでそっと抱き寄せた。
「違うよ、圭くん。春菜ちゃんはね、圭くんが弱いから戦ってるんじゃない。……圭くんを守るためなら、何度倒れても立ち上がれるんだよ。だから、私たちも彼女を信じなきゃ」
森野の温かい言葉に、圭の黄緑色の瞳が微かに揺れ、真っ直ぐに春菜の背中を見つめた。
二人の絆は、敗北を経てさらに深く、強固なものになろうとしていた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ!」
床に膝をつき、春菜は汗を拭いながら不満げにぼやいた。
「……こんな基本の剣技だけで、あの化け物に勝てるっていうの!?」
その言葉を待っていたかのように、立浪は木剣を置き、懐から一本の長い定規を取り出した。
「森野。ここへ来い」
「へ? わ、私ですか?」
呼ばれた森野が戸惑いながら歩み寄る。
立浪は定規の端を垂直に持ち、森野の目の前にかざした。
「私がこれを落とす。お前は指で挟んで掴んでみろ」
「あ、はい!」
パッ。
立浪が指を離し、定規が自由落下する。
森野は慌てて指を閉じるが、定規の真ん中より少し上の平均的な位置で辛うじて掴み取った。
通信モニター越しに見学していた福留が、得意げに割り込んでくる。
「私ならもっと速いわよ! こないだ観たカンフー映画の主人公みたいに、ハエを箸で掴むくらいの反射神経はあるんだから!」
「次は春菜、お前もやってみるか」
立浪の言葉に、春菜が忌々しそうに前に出る。
「ふん。こんな子供騙し……」
立浪は定規を構え、一切の前触れなく、それから指を離した。
瞬間。
ピタリ。
「……なっ!?」
森野が驚愕の声を上げる。
春菜は、定規が立浪の指から離れた直後、ほぼ最下部の0ミリの位置で、それを完璧に指で挟み取っていたのだ!
それは、人間の脳の処理速度を超越した、異常な反射神経の証明であった。
立浪の瞳が鋭く光る。
「……見事だ。お前は、人間における極限の反応速度である0.11秒という天賦の才がある。それこそが、お前の最大の武器だ」
「あたしの、武器……?」
立浪は春菜に歩み寄り、凄まじい気迫を込めて一喝した。
「そうだッ! 1秒を争う戦場において、お前は常にコンマ数秒、未来を行っている。だが、今のままではその利を活かせない、ただの暴風だ! 力に振り回されるな! お前の中に眠る極限の反射速度をもってすれば、ただの基本的な剣技すべてが『奥義』となる! 光の奔流を、お前の意志で縫い留めるのだッ!」
その力強い言葉は春菜の迷いを完全に吹き飛ばす、最高の道標であった。
少女の青い瞳に、極光のような鋭い閃きが宿る。
数時間後。
ムラクモ本部の休憩室。シャワーを浴びてスッキリとした春菜を中心に、仲間たちがテーブルを囲んでいた。
「未知の力に振り回されないためには、己の力に『名』を与え、概念として支配する必要がある」という立浪の助言により、あの白銀の武装に名前をつけるネーミング会議が開催されていたのだ。
「フフッ、名前ね。任せなさい!」
春菜は自信満々に立ち上がり、ホワイトボードに堂々と文字を書き殴った。
「ズバリ! 『超絶光速グレート・スラッシャー』! ……いや、防衛の意味も込めて『全自動デリーパーアーマー』の方が実用的かしら!?」
「…………は?」
モニター越しの福留が、心底呆れたような声を上げる。
森野は引きつった苦笑いを浮かべ、圭はポカンと口を開けていた。
「ちょっと春菜……あんた、顔はいいのにネーミングセンスは壊滅的ね!」
福留の容赦ないツッコミに、春菜が顔を赤くして反論する。
「なっ、なんですって! 分かりやすくてカッコいいでしょ!」
「もっとこう、ヒロインっぽく! 戦うお姫様、みたいな要素が欲しいわね!」
「なら、神聖な感じも入れましょうよ!」
と森野も身を乗り出して乗っかる。
喧々諤々の議論の末、ホワイトボードに書き出された一つの名前。
「……聖装戦姫」
春菜がその名を口にする。
悪くない。
不思議と、自分と圭の力にピタリと当てはまる気がした。
「決定ね。……三日後、あの化け物をこれで叩き斬るわよ!」
自らの力に確かな名を与え、圭との絆を取り戻した少女は、来るべき死闘へ向けて最強の決意を固めた。
同時刻。
陽の光の届かない、薄暗い地下アジト。
「戦災」有原剛蔵の背後に、男が音もなく姿を現した。
「なんであそこでトドメを刺さなかったんだ、有原。おかげで、後から出しゃばってきた自衛隊の追手を、俺が全部始末する羽目になったんだぜ」
男は呆れたように吐き捨てる。
有原は、自身の分厚い掌を見つめ、凶悪な笑みを深く刻み込んだ。
「フン……あのまま殺すには惜しかった。あの極光の戦士の瞳には、まだ底知れぬ力が眠っていたからな」
「やれやれ。あんたの狂気には付き合いきれん」
男は深いため息をつき、闇の中へと溶けるように背を向けた。
「……まあいい。せいぜい楽しめ。次は頼むぜ、有原」
「ああ……三日後。奴との最高の殺し合いを見せつけることを、約束しようではないかッ!」
タイムリミットは、刻一刻と迫っている。
運命のリベンジマッチが、すぐそこまで足音を響かせていた――。




