第4話「塀の上の視察」
王都の市場は、朝が早い。
日が昇りきる前から露店が並び始めて、肉屋の叩く音、魚屋が氷を砕く音、果物売りの呼び声が入り混じる。敷き詰められた煉瓦の上を荷車が転がり、どこかから焼き立てのパンの匂いが漂ってくる。
私はフード付きの外套で顔を隠し、市場の雑踏に紛れていた。
「お嬢様。伯爵令嬢が市場で買い出しというのは、かなり目立ちます」
隣を歩くマルガレーテが小声で言う。彼女も地味な服装に着替えているが、姿勢が良すぎて使用人の中でも浮いている。
「だから変装しているでしょう」
「変装と言いながら靴が革底のパンプスです。令嬢以外履きません」
「……次は気をつける」
今日の目的は明確。推しの好物リスト2番目、「蜂蜜入りのライ麦パン」を再現するための材料調達。
ゲームのサイドテキストに「レオンハルトは幼少期に食べた蜂蜜入りのライ麦パンを好んでいる」と記載されていた。しかし普通のライ麦粉では再現できない。ゲームの設定資料集——前世で限定版を予約購入した——に「シュテルン領産の粗挽きライ麦を使用」とあった。
この世界にシュテルン領は実在する。そして王都の市場にはシュテルン領からの穀物が入荷する日がある。月に2回。今日がその日。
(推し活の情報収集、ここに極まれり)
「お嬢様、穀物商はあちらです」
マルガレーテが先に調べてくれていた。この侍女、文句を言いつつ完璧に下準備をしてくれる。
穀物商の露店に着くと、麻袋に入った様々な穀物が並んでいた。小麦、大麦、ライ麦、燕麦。鼻を近づけると、乾いた穀物の粉っぽい匂いの中に、シュテルン産特有のほんのり甘い香りが混じる。前世の設定資料集は正しかった。
「このライ麦を。粗挽きのものを2袋」
「へい、お嬢さん。料理好きかい? このライ麦は香りがいいんだ、パンにすると——」
「蜂蜜と合わせると風味が引き立ちますわね。発酵は低温で長時間が——」
マルガレーテに袖を引かれた。
「お嬢様、令嬢口調が出ています」
「あ」
穀物商のおじさんが目を丸くしている。慌てて声を作り直した。
「え、えーと。ください。それを」
「……お嬢ちゃん、いいとこのお嬢様かい?」
「い、いえ。普通の、その、料理人見習いです」
「料理人見習いが革底のパンプスを履くのかい」
マルガレーテが無言で代金を払い、ライ麦の袋を受け取ってくれた。穀物商はにやにやしていたけれど、深くは追及しなかった。王都の市場では余計な詮索をしないのが商売の鉄則らしい。
次は蜂蜜。
「蜂蜜はどこで——」
「南門の手前に養蜂農家の直売があります。お嬢様が先週、推し活ノートに『レオンハルト様の好むタイプの蜂蜜を特定すること』と書いていたのを読みまして、調べておきました」
「……マルガレーテ」
「はい」
「あなた、推し活ノートを読んでいるの?」
「業務上必要な情報収集です」
否定してほしかった。
南門の手前まで歩く途中、市場の活気が体を包む。果物の甘い匂い、香辛料の刺激的な香り、焼き栗の煙。人波の中を縫うように歩いていると、不意に——足が止まった。
市場の広場に面した鍛冶屋の前。
銀色の髪が、朝日を受けて光っていた。
(う、嘘でしょ)
レオンハルト。訓練着ではなく、簡素な私服姿。剣の修理か何かで鍛冶屋に来ているらしく、鍛冶師と話をしている。
(推しが市場にいる!!!推しの私服!!!ゲームでは見られない推しの休日コーデ!!!白いシャツに革のベスト!!!腕まくり!!!前腕!!!)
「お嬢様、固まっています」
「わかってる。わかっているけど動けない」
「レオンハルト様がこちらに気づく前に移動しましょう。フードを深くかぶって——」
遅かった。
レオンハルトが鍛冶師との会話を終えて、ふと振り返った。碧い目が人混みの中から——正確に、私を捉える。
(見つかった。推しの索敵能力が高すぎる。知覚A。ゲーム設定は伊達じゃない)
「……グラーフ嬢」
声は静かだったのに、市場の喧騒の中でもはっきり聞こえた。
「ご、ごきげんよう、レオンハルト様。偶然ですわね」
「偶然か」
「ええ。買い物に」
レオンハルトの視線が、私の手元に移った。マルガレーテが持っている麻袋。ライ麦。シュテルン領産の。
「……ライ麦か」
「ええ。パンを焼こうかと」
「シュテルン領の粗挽きを選んでいるな」
(ばれてる!!!推しの出身地のライ麦を買っていることがバレている!!!)
「た、たまたま品質が良さそうだったので」
「……よく知っているな。シュテルン領のライ麦を扱う店は、この市場では一軒しかない」
「あら、偶然ですわね」
レオンハルトが私を見ている。無表情の中に、かすかな——何だろう。怪訝さとは少し違う。探るような、でも嫌悪ではない目。
「……グラーフ嬢は、不思議な人間だな」
「そうでしょうか」
「偶然が多い」
「人生とは偶然の連続ですわ」
「……そうか」
レオンハルトが踵を返した。鍛冶屋から受け取った包みを片手に、人混みの中へ歩いていく。背中が雑踏に紛れる直前、肩越しに振り返った。
「——パン、焼けたら」
言いかけて、やめた。銀の髪が人の波に溶けて見えなくなる。
(パン焼けたら、何!? 何て言おうとしたの推し!!!「持ってこい」!? 「食わせろ」!? いやそんなこと推しが言うわけ——でも「パン、焼けたら」の続きが気になりすぎて心臓が破裂しそう!!!)
「お嬢様、呼吸してください」
「してる」
「していません。顔が青いです」
マルガレーテに腕を引かれて、市場の隅のベンチに座った。木のベンチが尻に硬い。周囲の喧騒がぼんやり遠く聞こえる。
「……蜂蜜、買わなきゃ」
「先に心臓を落ち着かせてください」
「推しが、市場に、いた」
「はい」
「私服だった」
「はい」
「腕まくりしてた」
「はい、見ました」
「『パン、焼けたら』って言いかけた」
「はい、聞きました」
「続きは何だと思う」
「さあ。でもお嬢様、あの方は不器用な方ですから」
マルガレーテが珍しく、呆れとは別の何かを含んだ目でこちらを見ている。
蜂蜜を買って帰宅する馬車の中で、推し活ノートを膝に開いた。揺れる車内で字が震えるけれど、記録は鮮度が命。
『市場でレオンハルト様に遭遇。私服姿を初目撃。白シャツ+革ベスト+腕まくり。鍛冶屋で剣の修理中。シュテルン領産ライ麦の購入を見破られる。「偶然が多い」と指摘される。これで偶然の指摘は通算4回目。
重大事項:「パン、焼けたら」の続きが不明。推し、何を言おうとしたのか。持ってきてほしかったのか。要考察。要妄想。要蜂蜜入りライ麦パンの完成。明日朝4時から焼く』
次話:「正しいルートの応援席」




